エピローグ ―真相―

 重力を感じると共に、様々な感覚が戻ってきた。黒く塗りつぶされていた視界に再び鮮明な景色が映し出され、葉のさざめきが耳に届く。

 息を吐いた彼は、ゆっくり辺りを見回した。目の前に広がっていたのは鮮やかな緑だ。日差しを浴びて輝く草原の中を、一本の細道が蛇行しながら伸びている。

 少し前まではよく眺めていた景色だった。瞳をすがめた彼は、おもむろに背後を振り向く。

 すると見慣れたファミィール家の屋敷が遙か彼方に捉えられた。どうにか使えるように直したばかりの塀も屋根も、ここからでは以前のものと区別ができない。

 不意に、緩やかな風が吹いた。彼はゆっくり空を見上げた。爽快な朝を体現するような青空が、そこには広がっている。

「見事な天気だな」

 どうでもいいことを口にしてしまうのは、誰かが側にいることが当たり前になっていたからだろう。かつての自分からは想像ができない。思わず苦笑をこぼしながら、彼はゆっくりと歩き出した。

 向かうのは、この道の先にある巨大な木だ。いつだったか旅人の休憩のためにと植えられたものだが、今はもう両手では抱えきれない太さにまで成長している。

 あれから何年経ったのか、彼の記憶の中でも朧気だった。ただ人間の寿命以上であることは明らかだ。あの木は長いことファミィール家の屋敷を見下ろし続けている。

 そんな巨木の下に、目的の少女は座り込んでいた。木陰に身を潜ませるよう腰を落ち着けた彼女は、注意しなければ幹と一体となって見落としてしまいそうだった。

 ただ緩やかに吹く風にあおられた黒髪が、時折さらさらと音を立てながら存在を主張している。

 足音を立てずに近づけば、彼女の姿がはっきり目に映った。頭上で一本にまとめた髪に、金の髪飾りが目立つ。白い上着は見慣れたものだが、先日までとは違い薄紫色のスカートを身につけていた。

 こうして見ると実に華奢だ。か細い腕も足も、とてもではないがあれだけの戦闘をこなした人物のものとは思えない。――人間の目で考えればそうなるだろう。

「ようやく来たな、依頼人」

 彼が立ち止まると、彼女はゆくりなくこちらを振り向いた。屋敷で見ていたよりも幾分か幼さを感じさせる顔立ちだが、その黒い瞳は全てを見透かすよう彼を見上げていた。鮮烈な輝きは、今の彼女の印象そのものだ。

 口元に悪戯っぽい微笑をたたえて、彼女は白い封筒へと手紙をしまった。それはおそらくゼジッテリカからの物だろう。別れ際にその『直接護衛』へと手渡していたのを、彼も見ている。

 うっすら花の模様が描かれたお気に入りの便箋なのだと語っていたのも、記憶していた。落ち着いた色合いながらも華やかなのがゼジッテリカらしい。

「待っていたのか?」

「ああ、絶対来るだろうと思って」

 確認の問いを放てば、彼女は楽しげに笑った。彼がここに来るのは疑う余地もないことらしい。微苦笑を飲み込んだ彼は、切れ長の瞳を細めた。

 事件が解決した暁には、できれば一度話をしたいと思っていた。その機会が得られるとは予想していなかったが、そんなところまで見透かされていたとは。それとも、あちらも考えることは同じなのか。

 風に揺れる上着の襟を正せば、彼女はくつくつと笑う。どう思われてもかまわないといった態度だ。取り繕うつもりもないのか、口調まで変わっている。シィラという存在がもうここにはいないのだと、彼はあらためて意識した。

「聞きたいんだろう? われの正体」

 尋ねた彼女はどこか妖艶な笑みを浮かべた。幹にもたれかかったまま頭だけを彼へと向け、余裕の表情を崩さなかった。そういうところはバンと似ていると指摘したら、彼女はどんな反応をするだろう。

「そうだな」

 彼は肩をすくめると、小さく首を縦に振った。こちらにもはぐらかす意味は既になかった。ここで探り合う理由もない。似た者同士であることは、今までのやりとりからわかっている。ならば無駄な労力は惜しむべきだろう。

「そちらの方はわかっているという顔だな」

「うん、まあ。地球の神だろうな、くらいはわかっている」

「十分だな」

 疑問に思っていたことを率直に聞いてみれば、彼女は当たり前だと言わんばかりに即答した。そんなところまでばれているのならば、もうこのテキアの姿を維持する利点もない。

 肩をすくめた彼は耳の後ろを掻いた。そこまで気づきながら素知らぬ振りをしていた彼女の手腕は、見事としか言わざるを得ない。

 彼女は神を知っている。魔族を知っている。ならば地球の神が意味するところもわかっている。それでもこうして動じる素振りもないのだから、信じがたいことだ。

 なるほど、彼女がここで待ち受けていた理由もわかった。ここを元護衛が通りかかる可能性はほぼ皆無だ。街とは逆方向であるし、この先には鬱蒼と茂った森しかない。つまり、彼女はこちらの正体を知りつつ、誘い込んできた。それだけの自信があるらしい。

「魔族に全く気取られない神なんて、地球出身ぐらいなものだろう? 簡単なことだよ」

「なるほど、そこまで知っているなら話は早いな」

 軽快に続けた彼女に、彼は大仰に頷いた。そして目を瞑る。すると白い光が彼の体を包み込み、被り続けていた偽りの仮面を一瞬で剥ぎ取っていった。

 光が止んだ時、彼の姿は『元』に戻っていた。着慣れた薄灰青の上着を、風に揺られた青い髪が滑っていく。彼は自分の体を見回すと、ゆったりと息を吐き出した。

「変装、というのもなかなか面倒だな」

 凝り固まった体をほぐすように、彼は首を回した。久しぶりに元の姿に戻ると、やはり体が軽くなる。右の手のひらを閉じたり開いたりしながら、彼は彼女へと目を移した。

 彼女も、彼を見ていた。細められた双眸は何故か優しげなものを含んでいて、それがぞわりと胸の内を撫でる。これだから彼女は厄介だ。ただ偽っているだけではない。その心が本物であると、気が常に訴えている。

「うん。だからわれはしないんだ」

「しかしあの男が生きているという風に装わなければ、意味がない。さすがにあのお嬢さん一人では、ファミィールをいきなり盛り立てることは不可能だろう」

「まあな」

 そう口にしながら、彼はもう一度屋敷の方を振り向いた。こうして見ると小さな屋敷だ。星中を揺るがしてしまうとは思えぬ、よくある建物だ。

 だが一度生まれた不安はすぐに膨れあがる。希望と安寧が打ち砕かれた時の人間はもろい。ファミィールは、確かにこの星の中心だった。そこが崩れてしまっては容易には立て直せない。

 おそらく魔族たちもそう考えていたのだろう。だからあれだけの時間をかけて、入念な下準備をしていた。もっともそのおかげで、彼も彼女も水面下の計画に気がついたのだが。

 魔族の企みに、先に感づいたのは彼だった。けれども正直、彼女がいなければこれだけ早く事は終わらなかったと思う。

 だからこそ興味があった。彼女が一体何者なのか。魔族でも神でもない彼女が、何故この戦いに首を突っ込んできたのか。

「結局お前は最後までシィラを演じていたわけだな。ご苦労なことだ」

 ついと彼女へ視線を戻し、彼は皮肉を込めて口角を上げた。実に立派な演技だったと、彼でさえ賞賛したくなる。――いや、ただ彼女が偽っていただけではないこともわかっていた。

 感情の伴わない言葉など、すぐに見抜かれる。子どもはそういったものには敏感だ。無論、彼も気を読み取るのは得意だ。それが当たり前の日々を送っているのだから当然だ。

「それはお前だって同じだろう? いや、これからも続けるつもりだってことを考えれば、お前の方が気が長いよ。それに、われは普段も似たようなものだし、色々ころころ変えているから大して苦労はない」

 自らの頬に指先を当てて、彼女はまたくつくつと笑った。その肌の白さもシィラのものとほとんど同じで、彼女がそれほど見た目を変えていなかったことを彼は再認識する。弄っていたのは年齢と服装くらいか。おそらく、技を使う際に支障のない程度にしたのだろう。

「つまり、そのレーナも演じていると?」

「いや、演じているってほどじゃないさ。都合の良い方に傾けているって程度かな。あとは使い分け。だからシィラも、さほど素からは離れてないよ」

 頭を傾けた彼女は、ふっと視線を逸らした。そしてさらに深く幹に背を預けた。あれが単なる演技ではないとすれば、本当に厄介な女だ。

「そうか。その名が偽りなら、何か意味があるのかと勘ぐっただけだ」

 風に揺られた青い髪を、彼は背へと流した。魔族が口走ったその名は、古の神に関与するものだった。知っている者なら素通りはできない。彼女があえてそれを名乗っていたとすれば、相当好戦的だと思ったのだが。 

「ああ、やっぱり知ってたのか。うん、レーナは本名。われがつけたものではない。じゃあ何故わざわざそんな名をって思うだろう? ――我々はな、魔族の間では未成生物物体と呼ばれているんだ」

 ちらと彼女はこちらへ視線を寄越した。唐突な話だった。聞き慣れぬ呼称を彼は繰り返す。

「みせいせいぶつぶったい……?」

「未完成で生物なのか物体なのかわからないもの、らしい。この存在を認めたくないんだろうなぁ。神が関わってしまってるから」

 彼女は淡々と語る。あまりにあっさり色々と話すものだから、彼の方が戸惑ってしまいそうだった。あれだけ何も気取らせずにこちらを翻弄してきたというのに、どういう風の吹き回しなのか。いや、これもその一環なのか。

 彼は一歩、前へと踏み出す。右手で木の幹に触れると、再び風が吹き荒れた。ざわざわと葉が揺れてか細い旋律を奏でる。

「認めたくない?」

「神の知識に魔族の技術でもって生まれた存在だから。魔族が作った技使いって感じなんだけどな。しかも殺しても生きてるってあちらは思ってるだろうし」

 あっけなく告げられた内容の重さに、彼は絶句した。そこに偽りがないことは、彼女の気が証明していた。それが本当なら喫驚すべきところだ。

 魔族と神の争いが始まって、かなりの年月が過ぎた。そこを繋ぐ線がどこかに存在していたとは、にわかには信じがたい。その二つを掛け合わせるには、神と魔族の両者が必要だ。認めたくないというのも頷ける。

 だが、それが事実なら合点がいく。ただの技使いにしては強すぎる。だが魔族や神とは明らかに気が違う。神は魔族の、魔族は神の気に敏感だ。だから彼はずっと気を隠していたし、護衛に潜り込もうとした魔族は次々と落選させた。

 彼女を弾けなかったのは、魔族の気ではなかったからだ。彼女は魔族ではない。無論、神でもない。

「ま、今はこうして魔族の企みを潰しまくっているわけだから、あいつらにとってはいい迷惑だよな。物騒な異名ばかりもらうし」

 彼女は苦笑混じりにそうぼやきながら、再び首を捻って彼を見上げてきた。底の知れぬ黒い瞳が真っ直ぐに彼を捉える。シィラがテキアへとは向けてこなかった、不敵で挑戦的な眼差しだ。

 いや、違う。彼女はずっと同じような視線を向けてきていた。気持ちをざわつかせ、それでも目を向けざるを得なくする、強い眼差しだ。

 喉の奥からわずかに息が漏れた。この目と純粋な気は、神にとっても危険だ。そういう純度の高いものを、彼らは無意識に求めている。危険だとわかっていても触れたくなる。

 彼は瞳を細めると、伸ばしかけていた手をもう一度幹に添えた。気まぐれに吹いた風が、波立った心をほんの少し落ち着かせる。

「何故そんなことをする?」

「みんなに幸せになって欲しいからさ」

 かねてからの疑問を口にすれば、彼女は当然と言わんばかりに相槌を打った。魔族の企みを潰すという行動と繋がらぬ理由に、彼は片眉を跳ね上げる。人間が口にするのならばまだわかるが。

「具体的に言えば、神と魔族の決戦を避けたいんだ、少なくとも今は。だから均衡を保ちたい。で、今は神の方が力が弱まってるから、魔族がさらに力をつけるのを阻止することになる。な、簡単な理屈だろう?」

 困惑が気で伝わったらしい。付言した彼女が頭を傾けると、一本にまとめられた髪が揺れた。ゼジッテリカに向けていたのとよく似た、そこに無邪気さを加えた笑顔だ。

 しかしどこかもの悲しさを感じさせる双眸が、ざわりと彼の胸の奥を撫でる。

 この感情を彼は知っている。地球にいる仲間たちに対して抱くものと変わらない。どうしようもない現状といずれ来るだろう未来の狭間で、ただ粘るだけしかない者たちへの感情。

 しかしそんな思いを彼女に対して向ける理由が、彼にはわからなかった。否、あえて意識を逸らしているだけだとも、密かに自覚はしていた。

 彼女は自分に似ている。人間に向ける感情さえも、よく似ている。

「意味がわからないな。そんなことをしてどうする?」

「だから幸せになって欲しいからだって」

 ほんの少し拗ねた口調で言いのけた彼女は、おもむろに立ち上がった。そして彼へと一歩近づいてくる。その華奢な手が幹に添えられ、黒い瞳が彼の顔をのぞきこんだ。

 彼は黙って、彼女の視線を受け止めた。突として奇妙な静寂に包まれた辺りを、か細い風の声だけが通りすぎていく。

 テキアとして彼女と対峙していた時のことが思い出された。次の行動が予測できないのが歯がゆい。彼女の気には悪意がないのに、それなのに探られているような心地にもなる。

 不意に、彼女の口元が緩んだ。その瞳に柔らかな色が宿る。気は先ほどと何ら変哲のない澄んだもので、敵意の一つも見当たらなかった。すると幹に置かれていた彼の手の甲に、彼女の指先がそっと触れる。

「そのためなら別に、利用されてもかまわない」

 囁くような声が周囲に溶け込んだ。彼は動くことも目を逸らすこともできずに、彼女の言葉を胸中で繰り返す。

 やはり彼女はわかっていたらしい。彼が彼女を利用するために雇ったことを理解して、それでもなお乗ってきた。

「わかっていて利用されていたと?」

「利用されることでわれが損をするわけではない。別に問題ないだろう?」

「だが普通は気分を害するな」

「普通は、な。でもわれは普通じゃあないから」

 あっさりそう答えて、彼女は再び悪戯っぽい笑みを見せた。シィラを演じていた時から思っていたことだが、彼女はほぼ四六時中微笑んでいるようだ。素に近いというのは、確かにそうかもしれない。

「それにお前がいてくれた方がこちらも安心できたしな。お互い様だ」

 彼女はくすりと笑い声を漏らし、そっと彼の甲から指先を離した。戯れに触れてくるところもシィラと同じなのか。それともこれは意図的なのか。やはり彼女の真意は掴みづらい。

「おかしな奴だな」

「よく言われる」

 突き放すように言えば、彼女は大仰に頷いた。全く悪びれた様子もなかった。つい苦笑をこぼせば、彼女も再度声を漏らして笑う。

 誰かと面と向かって笑い合うなど、いつ以来だろう? それがこんな得体の知れぬ相手であるなど、かつての自分からは想像もできなかった。テキアの影響なのか、それとも彼女がそうさせるのか。今となっては判然としない。

「だが今のも全て嘘かもしれないだろう? 偽り続けるお前の言葉を信じるなど、普通はできない」

 それでも釘を刺したくて、彼はそう言い放つ。全てを見抜きながらも知らない振りをし続けた彼女が、いまだ何かを隠していたとしても不思議はない。

 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。彼女の気だけで判断するのは不可能だ。後ろ暗い思いがなければ、気には現れない。

「――でも彼女は信じてくれた」

 試すような言葉にも、彼女は意に介した素振りを見せなかった。彼はその言葉を反芻する。

 その通りだ。ゼジッテリカは最後までシィラを信用した。シィラという存在が偽りだと気づいても、信じ続けた。

 それが何故なのかはわからない。だが今、彼も少しずつわかりかけていた。名前など単なる記号だ。大事なのは何を優先するのか、何かが起こった時にどうするのか。行動と言葉が信念を体現していく。その裏側を探り続けても、全てを掴むことはできない。

「そうだな。あのお嬢さんはお前を信じていた」

「そしてお前も信じてくれる」

 そんな内心を微笑んだまま言い当てられ、彼は思わず閉口した。これだから油断ならない。気だけで伝わるはずもないのに、彼女は指摘されたくないところを抉ってくる。

 お前も同じだろうと。気づいているんだろうと。何が大切なのか、わかっているのだろうと。暗に問いかけてくる。

「基本、言っていることに嘘はないよ。存在そのものが嘘くさいんだ。喋ることくらい、真実に近い方がいいだろう?」

 彼女はそう付け加えると、その場で体を反転させた。一本に結わえられた髪が、生き物の尾のごとく軽やかに跳ねる。

 彼女はそのまま右手の封筒を胸元に差し入れると、その場で軽く伸びをした。その小さな背中を彼は見つめる。

「さーて、そろそろもう話はいいよな?」

 肩越しに振り返った彼女は、もう話はすんだとばかりに歩き出そうとした。彼は瞳をすがめる。これ以上会話を続けてもこちらが揺さぶられるだけだが、確認したいことはあった。

「これからどこへ行くつもりだ?」

 端的に尋ねれば、彼女はうーんと小さく唸りつつ人差し指を頬に当てた。こうして話をしているだけだと、魔族があれだけ恐れていた者とは到底思えない。

 魔族がこれ以上動かないよう、脅しをかけたのは彼女。おびき寄せたのも彼女。とんでもない存在だ。魔族の事情に通じているからといって、誰にでもできることではない。

「そうだなぁ、さすがに魔族もしばらくはおとなしくしているだろうし。たまには神界でものぞいてみるかな?」

「……お前は私にまで喧嘩を売るつもりか」

「のぞいてみるだけだぞ? 悪さはしないから大丈夫」

「どうだかな」

 彼女の戯れの言葉を、どう受け取っていいのか判然としなかった。『神の巣』に潜り込むなど、普通は不可能だ。だが彼女は普通ではないから、何らかの方法でなし得てしまうのかもしれない。

 しかしそんな宣言をされて黙っている彼ではない。利用させてもらったからといって、見逃すわけにもいかない。だがそれは彼女もわかっているはずだ。

「ま、とりあえずしばらくはひっそりとするかな。これだけ目立つと動きづらくなってしまうし」

 彼女は一つ大きく頷いた。そして再び足を踏み出しかけたところで、何かを思い出したように「あっ」と立ち止まる。ふわりと揺れた長い前髪が、彼女の白い頬を滑るのが見えた。

「そうだ、名前」

「……名前?」

「お前の名前。教えてくれないか?」

 振り返った彼女は朗らかに微笑んだ。邪気のない声音とあっさりとした問いかけに、彼は少なからず驚嘆する。まさか彼女は再び顔を合わせることがあると、そう思っているのか?

 次に出会う時、どんな情勢になっているのかはわからない。利害が一致しているとも限らない。それでも名を知っておこうと思うのは何故なのか。

「シリウスだ」

 疑問は幾つも湧き上がったが、それでも彼は素直に答えていた。彼女が人間を傷つけるつもりがないことだけは確かだ。おそらく、そこは変わらない。彼女がゼジッテリカへ振りまいた愛を考えれば、疑う余地はなかった。

 真っ直ぐ彼女の瞳を見れば、そこに本来の自分の姿が映し出されているのがわかる。自分がどんな顔をしているのかまでは見えないが、どうやらいつになく穏やからしいというのは自覚していた。

「わかった。じゃあシリウス、お嬢さんをよろしく頼むな」

「ああ。しかしもう大丈夫だろう」

 彼女はふわりと顔をほころばせた。彼は首を縦に振ると、護衛たちと別れる際のゼジッテリカを思い出す。あれだけふさぎ込んでいた小さな少女が、ずいぶんと変わった。

 本物のテキアが殺された時はどうなることかと思ったものだ。人は時に愛から危険にも飛び込んでしまうものらしい。ゼジッテリカを案じるあまりシリウスの目をもかいくぐって行動しようとしたあのテキアを、今の彼は咎める気になれなかった。

 自分の安否よりも、大事なものがある。それは実は幸せなことなのだろうか。時々ファミィール家の紋章に問いかけたくなる時がある。

 彼が模したテキアがゼジッテリカの目にどう映ったのかはいまだにわからない。しかし誰かの姿を借りる時、最も揺らがしてはいけないのは信念だった。筋が通っていれば、周囲は勝手に納得する。

「もう大丈夫だ」

 これが正しかったのかどうか彼にはわからない。それでも、ゼジッテリカは強くなった。いつかきっとファミィール家は立ち直るだろう。ファラールの希望は消えなかった。ならば、後は『その時』まで彼が支えていくだけだ。

「うん、そうだな。じゃあまた」

 するとシィラ――いや、今はレーナと呼ぶべきか――は、心底嬉しそうに微笑んで踵を返した。黒い髪を揺らしながら歩き出す姿を、彼はその場で黙って見送る。

「また、か」

 彼が呟くと同時に、彼女の姿は掻き消えた。神や魔族が使う『転移』と同じだろう。そんな技まで平然と使ってしまうのだから、魔族が警戒するわけだ。風変わりな技使いですませられるわけがない。

「次があっていいんだか悪いんだか」

 何度目かの苦笑をこぼし、彼は屋敷の方へと顔を向けた。

 きっともう彼女はこの星にはいない。シィラは消えた。しかしまだ、彼の偽りの舞曲は終わっていなかった。いつしかその役目が果たされる日が来るのを願って、彼はそっと瞳をすがめた。

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