第9話 軽やかな告白

 食事を終え、廊下の窓から外を眺めているこの時間はとにかく静かだ。鳥の気配が失われた中庭を見下ろしながら、ゼジッテリカはちらと隣のシィラを見る。

 シィラは先ほどと変わらぬ穏やかな表情で外を眺めているようだった。そこに傷ついた色一つ見受けられないのが、ゼジッテリカには不思議でたまらない。

 大人たちが面と向かってあのような言葉を交わしているのを初めて見た。密やかに疑り、欺き、取り繕っているのは何度も目にしたが、率直に疑念を口にする人間がいるとは考えもしなかった。

 隠さずに言ってしまえばいいのに。以前は何度そう思ったことだろう。しかし実際その場を目撃してしまうと、その考えが甘かったことを実感する。

 むき出しの敵意は恐ろしいし、痛い。自分に向けられたものでなくとも、まるで何かに突き刺されるようだった。シィラが平気そうなのが信じられない。

「どうかしましたか? リカ様」

 すると凝視していることに気づいたらしく、ゆっくりとシィラがこちらを見た。窓枠に触れていた白い指先が、ゼジッテリカの短い髪を撫でる。癖のあるふわふわとした金糸が揺れて、視界の端で踊った。

「悲しそうな顔をされていますね」

「――シィラは悲しくないの?」

 見上げようとする視線がかすかに揺れるのを、ゼジッテリカは自覚した。

 シィラがあのように言われてしまうのは、護衛にあるまじき行動をしているからに違いなかった。他の護衛のようにゼジッテリカを部屋に閉じ込めていれば、ああならなかったはずだ。つまりゼジッテリカのせいだ。

「シィラは、疑われて悲しくないの?」

 尋ねる声が震えた。敵ではないのかと問われれば、普通は侮辱されたと激怒するだろう。本心を探られそうになり憤慨する大人たちに、ゼジッテリカは幾度となく遭遇したことがあった。

「悲しい? ですか?」

 それなのにシィラは不思議そうに首を傾げた。まるで何を問われているのかわからないと言わんばかりの様相だ。そんな反応をされるとゼジッテリカの方が戸惑ってしまう。

「うん。私はシィラが疑われて悲しかったよ。だってシィラはこんなに優しいのに」

 仕方なく本心を口にすれば、気恥ずかしさで顔が熱くなった。

 当たり前のように話をしてくれる、常識に囚われずにゼジッテリカを連れ出してくれる、そんなシィラが魔物と疑われるなんて。まるで自分のことのように苦しい。どうしてそんなひどい考えが浮かぶのかと、憤りたくなる。

「優しいからといっていい人ではない、ということを大人は知っているんですよ。上辺だけの優しさの方が、怖いこともあると」

 シィラの手がまたゆっくりと、ゼジッテリカの髪を梳いた。その指先に母の面影を感じて、ゼジッテリカは瞳を細める。

 この手がゼジッテリカを殺そうとするなど考えられない。急に抱き上げられた時は驚いたが、それでもシィラの腕の中は温かかったし、何より安心した。決して見かけだけの優しさだとは思えなかった。

「……それは、私も知ってる。私の顔を見に来る大人たちがみんなそうだったもん。お父様に会いに来る人たちも、みんなそうだった」

 ゼジッテリカはつと視線を下げた。嫌な光景を思い出すと、目頭まで熱くなる。

 今までずっと与えられてきたのは表面だけの優しさだった。耳に心地よい言葉ばかりが、繰り返し並べられた。子どもだからわからないだろうと、皆はすぐに決めつけてしまう。だから大袈裟でよそよそしい言動ばかりが浴びせられた。

 全て過剰な、子どもだましの、見かけだけを整えた偽りの愛情だ。

 ただ挨拶をして可愛らしいと褒め称えて、時折贈り物なんかを持ってきて。そして陰で罵っているのだ。愛想のない子どもだと嘆き、これからが思いやられると愚痴をこぼしている。

 大人になるには、あのように取り繕わなければならないのか。それがファミィール家の人間として生きることなのか。そう思えば思うほど笑顔など作れずに、ゼジッテリカはますます部屋に引きこもるようになった。

「リカ様は小さいのに大変ですね。それなのに、私のことは信じてくださってるんですか?」

 すると、シィラはくすりと笑い声を漏らした。その指摘に、ゼジッテリカははっと顔を上げた。窓硝子に映る自分の横顔を目に入れたくなくて、そのまま廊下へと目を逸らす。

 シィラは違う。きっと違う。でもそう思いたいだけなんだろうか?

「うん。だって、シィラは変な笑い方しないもん。強ばった笑顔じゃないし、嘘っぽい大げさなこと言わないもん。それに、シィラの手は優しいし」

 まるで理由を探しているようだと、自分でもそう思った。だが、あの大人たちとシィラは違う。機嫌をとろうとする人々と、シィラは違う。時には耳に痛いことも口にするシィラは、上辺だけの人間ではない。

 ちらりと横目でシィラの方をうかがえば、先ほどと変わらぬ静かな微笑をたたえていた。シィラが頭を傾けると、緩く結わえられた黒髪がたおやかに揺れる。

「リカ様は純粋ですね。作り笑いも慣れてくれば自然なものになるんですよ?」

「……え?」

 そこで放たれたのは、思わぬ言葉だった。予想外なことに動揺して、ゼジッテリカはまじまじとシィラの顔を凝視してしまう。今のはどういう意味だろう。まさか信じるなと、そう言っているのだろうか?

 だが混乱は長くは続かなかった。すぐにシィラは悪戯っぽく片目を瞑り、さらに口角を上げる。

「ふふっ、冗談が過ぎましたね。ごめんなさい、リカ様。信じてくださって嬉しいですよ。私はリカ様が大好きですから」

 ごく自然と、当たり前のように紡ぎ出された言葉に、ゼジッテリカは頭を殴られたような気分になった。

 今まで誰かに「大好き」などと言われたことがあっただろうか? 両親はそんなことを言っていたかもしれないが、それ以外の人から聞いたことなどなかった。それなのに出会ったばかりのシィラがそんな風に口にするのは変だ。

「ど、どうして?」

 動揺から声がうわずった。しかしシィラはまた何を尋ねられているのかわからないといった顔で頭を傾けた。まるでゼジッテリカの方がおかしいかのようだ。

「何がですか?」

「だって、好き……だなんて。シィラとは、会ったばかりなのに」

 答える声が尻すぼみになる。自分で「大好き」と口にするのは、どうしてもできなかった。シィラのことは信じたいが、シィラの言葉はたまに理解が追いつかない。

「ああ、そこですか。理由なんてありませんよ。好きだという感情に理由なんてないんです。ただその事実があるだけで」

 シィラは深々と頷いた。しかしそう説明されても、ゼジッテリカには飲み込めなかった。それでもシィラが嘘を吐いているとは思えなくて。そう感じてしまう自分に首を捻りたくなる。

「リカ様にも、きっとすぐにわかります。先にあるのは気持ちで、理屈は後からついてきます。私がリカ様を好ましく思うのは、リカ様だからです」

 視界の隅で、シィラがふわりと顔をほころばせた。じわりと胸が温かくなっていくことを、ゼジッテリカは自覚する。同時に、この言葉がずっと欲しかったのだと気づかされた。

 ファミィール家の娘だからではない。損得からではない。ただ自分という存在を好きだと言ってくれる人がいることが、こんなに嬉しいとは。

 子どもに向かってこんなことを言ってくるシィラが普通ではないと理解はできるが、それでもやはりシィラを疑る人たちの方が変だ。魔物がこんなことを口にするわけがない。

「……ありがとう」

 この気持ちを伝えなければ。そう思うのに、言葉はすべて喉に張り付いてしまって、思うように唇が動かなかった。かろうじて音になったのは小さな礼の言葉だけだ。

 それでもシィラは嬉しそうに笑って首を縦に振る。まるで全て許されているような気持になる、温かな表情だった。

「それでは、そろそろ部屋に戻りましょう。今日は疲れましたよね? お茶の時間まで少し休みましょう」

「――シィラ!」

 そう言ってシィラが腕を伸ばしてきた、次の瞬間だった。聞き覚えのある女性の声が、背後から聞こえた。同時にばたばたと駆け寄ってくる靴音が響く。

「ああ、マランさん」

 そちらへと双眸を向けたシィラがその愛称を口にした。確かマラーヤというのがその女性の名前だったと、ゼジッテリカは思い出す。

 ゼジッテリカがゆっくり振り返ると、青いドレスの裾が揺れた。明るい廊下の向こうから、大柄な女性が近づいてくるのが見える。

「いたいた! あんた気を小さくするのも得意なのね。探しちゃった」

「どうかしましたか?」

 走り寄ってくるマラーヤの顔は強ばってはいなかった。悪い話ではないに違いないと察して、ゼジッテリカは胸を撫で下ろす。

 正直、シィラと二人きりでなくなったことにほっとした。あんな告白を聞いてしまった後、どんな顔をすればいいのかわからない。

「屋敷内だったら歩き回ってもいいって、テキア様から許可が出たから。その伝言」

 腰に手を当てたマラーヤは、何故か自信たっぷりに胸を張った。眼を見開いたゼジッテリカは声を上げる。まさか正式に許されるとは思ってもみなかった。自然と口角が上がってしまう。

「あら、そうですか。さすがテキア様、話が早いですね」

「話が早いって……あんた、何で許可されたかわかって言ってんの?」

「ええ。その方が安心だからでしょう? 当然の判断かと思います。でもこれで叱られずにすむので助かりますね。散歩以外にも色々できそうです」

 ちらとマラーヤがこちらを見た。その眼差しに「大人」の気配を感じて、ゼジッテリカはさっと体を強ばらせる。また気遣われた。そのことを咄嗟に察した。きっと言いにくい事情があるに違いない。

「わざわざ教えてくださりありがとうございます、マランさん」

 それでもシィラは意を介した様子もなく微笑んでいた。マラーヤは半ば呆れたように苦笑したが、そのことにも気分を害した様子はない。一体、何があればシィラは怒るのだろう。

「あーもう、あんたがそんな調子だからみんな怪しむのよ」

 肩を落としたマラーヤは、赤い髪をがしがしと掻き上げた。怪しむという響きに、ゼジッテリカの鼓動は再び跳ねる。

「怪しまれてるのに堂々としてるから、ますます変に思われてんのよ。わかってる?」

「ええ、それはもちろん。いつものことですから、大丈夫です。ご忠告ありがとうございます。マランさんって、そういうところ人が好いですよね」

 ふふとシィラは笑い声を漏らした。目を丸くしたマラーヤは、そこで自分が何をしていたのか自覚したようだった。彼女が慌てて辺りを見回すと、防具がかちゃかちゃと軽く音を立てる。

「ち、違うって。あたしはただ、面倒ごとが嫌いなだけ」

「それなら私にわざわざ教えてくださる理由はないですもの。マランさんに気遣ってもらえるなんて嬉しいですよ」

 さらにくつくつと笑うシィラは、半分面白がっている様子だった。赤くなって狼狽えるマラーヤを見ていると、ゼジッテリカの気持ちは逆に落ち着いてくる。

 シィラは大人だから、自分は子どもだから翻弄されているのかと思ったが、違うようだ。シィラが特別なのだ。

 以前、愛情の押し売りに慣れていると口にしていたのも納得した。シィラは好意の表明が得意なのだ。受け入れられるかどうかは気にしない。嬉しい時は嬉しいと言う、その素直な態度が周りを困惑させる。普通は、そんなに真っ直ぐはっきりとは宣言できない。

 マラーヤを見ていると、自分が普通なのだと思えて安心する。それはシィラと話している時に感じる安堵感とは別種のものだった。

「あーもう、本当にあんたは調子狂う人ね。それに付き合うこっちの身にもなって欲しいわ。リリーも嫌ってるし、本当やりにくい」

 ぶつぶつとぼやいたマラーヤは、大きくため息を吐いた。強い技使いと聞いて想像していた者のような人間はほんの一握りらしいと、ゼジッテリカにもわかってきた。強面の屈強な男たちばかりではないようだ。

「リリーというのは、リリディアムさんですか? まだお話したことはないはずですが」

「何でそれだけでわかるのよ。それが怖いんだって。そうだけど、まああっちが見かけたんじゃない? あんたは有名人だから」

 マラーヤはもう一度嘆息すると、静かにゼジッテリカを見下ろしてきた。急に内心を探られたような心地になり、ゼジッテリカはすぐにシィラの傍へ寄る。やはり大人の視線は苦手だ。

「それではマランさん、リカ様もお疲れのようですからこの辺で。また何かあれば教えてくださいね」

 シィラの手が、おもむろにゼジッテリカの頭を撫でた。まるで全てお見通しのようだった。

 マラーヤは何か言いたげに、少しだけ後ろめたそうに苦笑いすると、ゆっくりと頷く。そして一礼すると、すぐさま踵を返した。

 遠ざかっていく赤い髪を見送りながら、ゼジッテリカは息を吐く。護衛のいる生活は始まったばかりなのに、既に長い時を過ごしたような心地になっていた。

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