第2条第2項 キミが欲しいの

 放課後を知らせるチャイムが聞こえてくる。

 今日は月曜日。ツトムたち一年生にとっては、この学院で過ごす最初の週が終わり、いわゆる「学園生活」が幕を開ける日だ。

 と、そんな風に言えば楽しげだが、実際には特別なイベントが過ぎ去り、毎日の授業が始まるだけだ。

「毎日違うことを勉強してるはずなのに、どうして授業ってつまらなく感じるんだろう……」

 ツトムは埋めていていた。一日ぶんの授業内容をたたき込まれ、頭がずっしり重たい。


「世の中には授業が楽しくて仕方ないっていう生徒もいるんだろうけどな」

 ツトムの言葉を聞いていたのかいないのか。同級生、矢永やながシュウトがいつの間にか近くにいた。

「よっ。部活、もう決めた?」

「……へ?」

 不意打ちの質問に、ツトムは思わず目を瞬かせた。

「ああ、若倉はいろいろ急に決まったから、詳しくないんだっけ。うちは部活が多くてさ。少子化で使われてない部屋が多いから、少人数でも部室がもらえるせいで……」

「あ、ううん。そうじゃなくて……」

 丁寧に説明を始めようとする同級生に、ツトムは言いにくそうに身をよじる。


「16時からは仕事、っていう契約になってるから。たぶん、部活はできない、かな……」

「ああ、そっか……」

 授業が終わってから16時までは、多少時間に余裕がある。それは、ツトムの「学業」を優先するためだ。

 授業時間だけが学業ではない。学校内での活動時間として、16時までを荒生が確保してくれたのだ。法定代理人であり、保護者であることを考えても、彼女がツトムのことを考えて契約を決めてくれたことには感謝するべきだろう。

 とはいえ、それだけの時間では部活動に十分とはいえない。労働契約に従えば、ツトムが部活動に参加することはできない。


「俺は、もうちょっと考えるよ。でも、決めるなら早くしないとな」

「ブカツの話? 青春だね」

 軽く肩をすくめるシュウトの脇をすり抜けるように、別の人影が会話に参加してきた。

 長い巻き毛。柑橘の香り。はっとするほど整った顔立ち。

 名々瀬キッカだ。

「あたしも、なにかやってみたいけど。来年までスケジュール押さえられちゃってるから」

 みずみずしい唇からため息を漏らしつつ、キッカはツトムの机に片手をついた。


「そ、そう……なんだ。タイヘン、だね」

「タイヘンさなら、キミも同じでしょ。あたしたち、苦労を分かち合える仲だね」

 自分の胸を二度、指でたたいてからツトムに指の腹を向ける。なんてことのない仕草が、自分の目がカメラになったかと思うほどに決まっていた。

「な、名々瀬さんも、部活できないんだ?」

 同級生だというのに、シュウトがたどたどしくなるのも無理はない。相手はいまや、国内で一番有名な映画女優だ。

「その分、おカネになるからいいけど」

 小さくほほえんで、キッカの視線がツトムに向けられる。


「昨日、見たよ。あのメイド服、キミのために用意したのかな?」

「うっ……」

 キッカの声は、格別によく通る。一言しゃべっただけでも、クラスメイト全員にいまの言葉は届いたに違いない。

 それ以前に、生徒の仲にも、ウェイカー、そしてウェイクウィンクのユーザーは少なくない。もちろん、ツトムの「あの」姿を見た同級生もいるはずだ。おおっぴらに口にしないだけだ。


 そんなわけで、教室に残っている生徒全員が耳をそばだてているのを感じながら、ツトムは目を泳がせ、ちいさな声で答えた。

「そ、そのことは、気にしないでほしいなって……」

「どうして? すっごくかわいいよ」

 キッカの声は、明るく弾んでいる。ツトムがボリュームを下げた意図を見事に蹴飛ばしていた。

「あ、ああいうのは、恥ずかしいから……」

「でも、たくさんシェアされてる。CEOの投稿じゃ、一番じゃない?」

 CEO、というのは、ウェイクウィンクでのルアの通称だ。運営の最高責任者だから、そう呼ばれているらしい。


「それは、名々瀬さんがシェアしたからって、ルア様は言ってたけど」

「あ、そうかも」

 SNS上でも屈指のフォロワーを持つ女優は、あっさりと頷いてみせた。

「だって、ツトムくんみたいなかわいいスタッフがいるなんて、うらやましいじゃない?」

「そ、そうやってみんなでおもちゃにするの、やめてよ」

 ツトムの言葉に、キッカは不満げに眉をはねさせた。

「ふざけて言ってるように見える?」

 ずい、と上半身を突き出し、ツトムに顔を寄せる。まさに、息がかかる距離まで。


「う、わ、ちょっと……!」

 長い巻き毛がツトムの胸にかかる。

 柑橘の香りは、シャンプーか、香水か。もしかしたら本当に彼女の体から発されてるのかもしれない……なんて、そんなことを考えてしまいそうだ。

「私が欲しいって言ったら、本当に欲しい時」

 身を引くツトムをさらに追い詰めるように、キッカが身を乗り出す。

 スレンダーなキッカではなく、ルアだったら、きっと胸がぶつかっているほどの距離だ。

(……って、何を考えてるんだ、ぼくは!)

 ますます混乱する頭を振り、助けを求めるようにシュウトに目を向ける。


「あ、あんなの、みんな面白がってるだけ、だよね?」

「え? あ、うーん、そうだな……」

 キッカの会話に割り込むのがはばかられるからだろう。腕を組んで眺めていたシュウトは、急に話題を振られて視線を巡らせた。

「……面白がってるやつもいるだろうけど、喜んでる人も多いんじゃないかな?」

 矢永シュウトは正直を美徳として育てられた。だから、難を逃れようとするツトムを助けるよりも、正直な感想を口にする方が大事だと考えた。


「そのとーり! 矢永クンはよくわかってるねー」

 にっこり笑顔を向けるキッカの魅力に抗えず、膝から崩れ落ちそうになるシュウト。それにかまわず、キッカはツトムの耳元に唇を寄せた。

「私、本気なんだよ」

 今度こそ声を小さくして、少女は少年にささやいた。

「キミが欲しいの」

「っ、そ、それって……」

「同年代のスタッフが現場にいた方があたしも気が楽だもん」

 いたずらっぽくほほえみながら、キッカはくるりとスカートを翻した。


「あたし、そろそろ行かなきゃ。今日も撮影があるから」

 そして、香りだけを残して教室を去って行った。

「……なんか、まだ夢みたいだ」

 思わず心の声が漏れた、とでもいうような言葉に振り向くと、シュウトがほおをつねっているのが見えた。

 そのとき、ツトムの胸が大きく震えた。

「うわっ!?」

 心臓が飛び出した、のかと一瞬思ったのだが、そうではなかった。

 胸ポケットに入れておいたケータイが震動したのだ。キッカの助言に従って、マナーモードにしていたのだ。


「は、はい」

『遅い! いつでも出られるように、常に耳元に当てておきなさいよね!』

「ほかのこと、何もできませんよ!」

 もちろん、通話の相手は八頭司ルアである。

『今日も16時から仕事だけど、私は今日、部活があるから』

「部活、してるんですか?」

『ワーク・ライフ・バランスよ。わかるでしょ?』

「いや、さっぱり……」

 通話の向こう側で、大きなため息が聞こえた。


『私が学生らしく青春を謳歌できるようにするのも、あなたの仕事のうちってこと!』

「わ、わかりましたから!」

 大きな声に耳をふさぐ訳にもいかない。音漏れが聞こえているだろうシュウトの視線が痛かった。

『とにかく、部室棟の2階! 207番の部屋の前で待ってて。16時までには、私も行くから』

 一方的な指示を残し、通話は終了した。

「……部室棟って、どっち?」

 疲れた顔で聞くツトムに、シュウトは同情とも羨望ともつかない、微妙な表情で廊下を指さした。


「青春も、いろいろだよ」

 どう反応していいかわからず、勤労少年はうん、とだけ頷いて、指さされた方向へ歩き出した。



  📖



 紫楼館学院の部室棟は、生徒数が増加した時期に旧校舎を改築して作られた。

 当時は部員が多い部活動に優先的に部室が割り当てられていたため、新入生勧誘は熾烈を極めたらしい。しかしその後、少子化による生徒数の減少により、むしろ部室が余るようになってきた。

 そのため、現在では少人数で部活を立ち上げ、部室を自由に使う生徒が多いのだという。


 部室棟は本校舎よりはいくらか雑多な印象だ。

 壁には何年前から張られているのかわからないポスターが掲示され、廊下に並んだ扉にはそれぞれが好きに部活動名を掲げている。

 ツトムが向かった207号室には、「ポップカルチャー研究部」と、なぜか毛筆で書かれた紙が、ラミネート加工されて貼り付けられていた。

「……ポカ研……」

 土曜日、たしかにルアはそう言っていた。

 状況を考えれば、ルアがこの部に所属しているのだろう。さすがに、学校で乗馬だとかゴルフだとかをたしなんでいるとは思っていなかったが、案外に緩そうな部活名である。


「……前で待ってろ、と言われたけど……」

 部活棟の長い廊下で、一人ぽつんと立っているのは、居心地がいいものではない。扉に近づいて、中の様子をうかがってみると……

「……にあたたかくなって……」

「……せをかくから、着替えないと……」

 中からは、誰かの声が聞こえる。話し込んでいるらしい。それに、ごそごそと衣擦れの音。

(誰か、いる……)

 中の様子はわからないが、あまり入りやすい雰囲気とはいえない。

「やっぱり、ここで待ってる方が……」

「あれ、入部希望者?」

 不意に、背中から声をかけられた。

 振り向く。女子生徒が一人、立っていた。

 小柄なツトムよりもさらに背が低い。濡れ羽色、というのだろうか。真っ黒な髪を腰まで伸ばし、後ろで一本にまとめている。


「あ、いや、ぼくは……」

「まあまあ、立ち話も何やし、中で話そ」

 女子生徒は、そう告げて、ひょいとツトムの手首をつかんだ。

「ウチら、男子がおらへんから、ちょうどよかったわ」

「い、いえ、本当に……」

 あまり聞き慣れないイントネーションでしゃべる女子の手を振り払おう……と、するが。


(……あれ?)

 手首をつかんだ手を振り払った、と思った直後、腕の力が抜けて、再びつかまれている。

「ええからええから、話だけでも」

 女子生徒はそう告げて、長い髪を揺らしながらドアノブに手をかけた。

「ち、ちょっと、いまは!」

 さらに手を引こうとしたとき。

「ほら、一名様ご案内や」

 女子生徒がそう言うと同時に、ツトムの体から力が抜け、ぐい、と信じられないほどに力強く腕を引っ張られた。


 扉が開き、明るい部室の光景が目に飛び込んでくる……

「あっ」

 女子生徒が、どこか気の抜けた声を漏らした。

「えっ」

「ん?」

 答えるように、声がふたつ帰ってきた。

 その声の主は、二人とも女子で……

 ついでに言えば、半裸だった。

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