第1条第11項 ドレスチェンジと指揮命令

「ごちそうさまでした」

 食事をはじめたときと同様、ルアは白い掌をゆっくり合わせた。

「13時までは休憩時間だから、自由に過ごしていいわよ。合渡もね」

「は、はい」

「承知しております」

 慣れた様子で、食事を終えた老人が席を立つ。

 ルアは上階へ、合渡は別の部屋へ、それぞれ向かっていった。


「それじゃあ、片付けちゃいますねぇ」

 エプロンをつけなおして、臼井が各自の食器を洗い場へ運んでいく。

 手持無沙汰なのは、ツトムだけだ。初めて訪れた家で、自由に休めと言われてもできるわけがない。

「あ……て、てつだいますよ」

「いま、お嬢様が休憩って仰ったじゃないですか」

 あわてて席を立とうとするツトムに、臼井はぴしりと指をたてた。

「それに、私の仕事は私のものです」

 細めの目もとには、真剣な色が宿っている。


「じゃあ、臼井さんは……休憩は、あとで?」

「ないですよ」

「えっ?」

 あっさりと答えるメイドの顔を、思わず見返した。

「ふふ。びっくりさせちゃいました? 『決まった休憩時間はない』ってことです」

「そ……そうなんですか。でも、それって……いいんですか?」

 労働時間に関しては、ツトムが契約するときに荒生が強くこだわったポイントだったはずだ。

「そういう決まりがあるんですよぉ」


『労働基準法 第116条第2項

 この法律は、(略)家事使用人については、適用しない。』


「労働基準法が、全部適用されないんですか?」

「決まりとしては、そうですねえ。使用人が住み込みで働くことになる場合、いつ働いていつ休んでいるのかの区別が難しいので、労働基準法の範囲外になるみたいです」

 臼井はのんびりした口調だが、ツトムにとっては大きな驚きだ。

 自分がここにいて、働くことができるのは労働基準法(と、もちろん荒生)のおかげである。それが、彼女には適用されない……となると、どうやって労働条件を決めたのか。


「心配しなくても、好きに休んでますよ。毎日泊まり込んでるわけじゃないですし」

 言いながら、洗い物のためだろう、ゴム手袋を取り出している。

 彼女が着ける手袋の下に隠れる指輪のことを考えれば、確かに毎日ここにいるわけにはいかないだろう。

「お嬢様には、家事のことはすべて任されていますから。いつ何をするのかも、いつ休むのかも、私の自由にしてます」

「そう……なんですか」

「そうなんです。会社の方も、ほとんどがそういう方針みたいで」


 水が流れる音。洗い物をつづけながら、メイドは軽く肩をすくめた。

「いつも言ってます。『専門は専門家に任せればいい』って。人を信じすぎるのもよくないって、私は思うんですけどね」

 ふっと、臼井の目が下をむいた。何か、昔あったことを思い出すような、そんな陰が、のんびりした造作の顔を一瞬覆う。

「確かに……そう、かもしれないですね」

 会ってまだ一か月も経っていない自分に、重要機密を扱う秘書業をさせるつもりらしい、ということを思い出し、ツトムは小さくつぶやいた。


「だから、私から離れるより、私についてるほうが得になるようおカネを払ってるわけ」

 と、後ろから声。

 いつの間にか、ルアがダイニングのドアから顔をのぞかせていた。

「あらぁ……すみません、勝手なことを」

 さすがにしまった、という表情で、臼井が眉を寄せた。

「いいわ、別に。それより、終わったらコーヒーを淹れて私のワークルームに来て」

「はい。かしこまりました、お嬢様」

 ふたりは互いに表情を切り替えた。これぐらいのやりとりは、慣れているなのかもしれない。


「あの、ぼくはどうすれば?」

 おそるおそる問いかけるツトムに、ルアは高い位置にかけられた鳩時計をちらりと見てから答える。

「後で声をかけるから、それまで秘書室で待機。就業規則を確認しておきなさい」

 早口ではあるが、聞き取りやすいはっきりした声だ。

(そういえば、最初に会ったときも、声がどうこうって言ってたな)

 あの時は大して気に留めなかったが、この声で指示を出されると身が引き締まるような、そんな気がする。

 ……もしかしたら、単なるフェチズムの可能性もあるのだけど、それは心の隅に追いやっておくことにする。


「上司から指示されたら、返事! もしくは、何か気になることがあるなら聞きなさい」

「は、はい。待機します!」

「よろしい」

 満足げに、ルアは大きくうなずいた。

 ちょうどそのとき、ダイニングに置かれた鳩時計から小さな作り物の鳥が一度飛び出した。

 『クルックー』と鳩時計が音を立てるのに答えるように、部屋の隅のケージの中でマックスが「わふ」と低く鳴いた。


 1時。休憩終了だ。



   📖



 がらんとしたワークルーム。さっきはひたすらマックスにのしかかられただけだったが、一人になると持て余すほどの空間だ。

 デスクが一つ、奥に置かれている。そのうえにはノートPCが置かれていたが、勝手に触って後で面倒になるのも困る。

 デスクの下の引き出しを開けてみると、表紙に大きく「秘書検定」と書かれた本が一冊、入っていた。

 ページを開くと、「ヒマな時に勉強しておきなさい!」と、メッセージが挟まっていた。


「……やっぱ、冗談とかじゃないんだな」

 秘書なんて名目で、マックスをけしかけて遊ぶつもりなのでは、とちょっと思ったりもしたのだけど。どうやら、『ビジネス』を手伝わせるつもりなのも本気らしい。

 資格を取ろうなんて、考えたこともない。せいぜい英語検定だとか漢字検定ぐらいだ。それだって、本気で勉強するつもりにならず、挑戦したこともない。

(ここで、勉強していいのかな)

 学校が終わったあとにすぐに仕事に移る契約だ。22時まで業務についているのだから、ここ以外で勉強している時間など取れそうにない。

 だとしたら、勉強しながら給料をもらうことになる。


「……聞いてみた方が、いいかな」

 荒生の言葉が思い出される。


《『意思を伝える』ことが、何より大事。どんなに自分勝手に思えても、互いの自分勝手をまとめるのが交渉であり、合意であり、契約だから》


 ここで何も言わずにおいて、後から決めていなかった、ということになったら、ルアだって困るはずだ。

「……うん。聞いてみよう」

 勉強をしている時間にも、給料を払ってほしい、と。それがダメなら、学校にいる間、なんとか時間を見つけるしかない。

 じっとしているのがもどかしくて、部屋を出た。

 廊下を奥に進んだ場所に、扉。『PRESIDENT』と書かれた銀色のプレートがかけられている。


「う……」

 社長室。中にいるのはルアに違いないのだが、肩書が加わるとさすがに緊張が高まる。

 が、扉の前で立ち止まっているわけにもいかない。

 大きく深呼吸をして、ドアをたたいた。

 コン、コン。

 固いノックの音に続いて、数秒の沈黙。

「若倉です」

 緊張しすぎて、思わず苗字を名乗った。

「いいわよ、入りなさい」

「失礼します」

 ドアノブに手をかけて、扉を開く……。


 白い肌が見えた。


「ぅえっ!?」

 ばたんっ。

 反射的に、扉を閉める。

 一瞬。部屋の中央に立ったルアは、制服を脱ぎ去って、赤みがかった下着を身に着けただけの恰好で、長い髪をアップにまとめ上げて、そのおかげで首筋から肩へのすらりとしたうなじを隠すものもなく、左右のストラップでしっかり支えられたふくらみの、深い谷間がうっすらと汗ばんで明るい照明の白い光を照り返し、またバイオリンのようにくびれた腰をつつむぴったりした下着が、上品にうがたれたへそとの間のつるりとした白い空間と健康的な柔らかさをうかがわせる腿との間に窮屈そうに収まっているのが見えた気がした。

 ……そこまで見ておいて、「気がした」では済まないような気もする。


「何よ、用があるんじゃないの?」

 部屋の中からは、平然とした声。

「い、いや、だって、いま……!」

「私は忙しいの。着替え中だからって時間を無駄にできない。用事があるなら入りなさい」

「でも……」

 3度目。もう次はない、とばかりに、強い口調だ。


「……はい」

 ふたたび、戸を開ける。

 中では、臼井が掲げたブラウスにルアが袖を通すところだった。

「それで、何?」

 ブラウスのボタンを上から留めながら、ルアが平然と問いかける。

(い、いや、まずいって、こんな……!)

 下着の色がうっすらと白いブラウスに浮かぶ。

 思わず視線を下に動かすと、裾にショーツが隠れて、まるで下に何もはいていないようだ。もっと下に動かせば、肌荒れひとつ見つからない、真っ白な長い脚。

 目のやり場に困る、とはまさにこのことだ。


「え、ええと、あの……」

「もしかして、私に会いたかった?」

 目の前の光景に気を取られ、すっかり聞くべきことが頭からすっ飛んでいるツトムに、からかうような笑みが向けられる。

 チェアに腰掛けるルアの足元へ、臼井が手慣れた手つきでストッキングをはかせていく。白い肌が黒みがかった化学繊維に覆われていく。

 女性が服を替えるのがこんなに艶めかしく見えるなんて、考えたこともなかった。

 目の前で別の人間に変わっていくような、劇的で、それでいて生々しい光景。


「あ、あの、これ……」

「ああ、秘書検定。せっかくだから、技能を身に着けたほうが良いでしょ?」

 ツトムが持ってきた本を掲げると、ルアはなるほど、とばかりにうなずく。

 ストッキングの中に手を差し入れてゆっくりと位置を直す。ぴったり、下半身が薄布に覆われているのはどんな感触だろう、と若い少年の脳は思わず連想してしまっていた。

 別のことをかんがえようとする頭をなんとか落ち着かせて、ルアの頭の上あたりを見つめることにする。

「こ、これって、資格の勉強は……業務の一部、ってことで、いいんでしょう、か」

 荒くなりそうな息をなんとか押さえるのに必死だ。


 一方、ルアは平然とパンツに足を通す。臼井がうやうやしくベルトを通していく。

「構わないわ。判例から見て、私から指揮されたことは業務の一部。つまり、私が業務に必要だと判断した技能を身に着けることは仕事の一部になる」

「……じゃあ、ここにいる間に、勉強しておく、ってこと、ですか?」

「ええ。給与も支払うわよ。その代り、きっちり資格を取ること」

 ジャケットに袖を通せば、『社長』の肩書にふさわしいビジネスルックの完成だ。が、レディススーツの下にさっき見た体があるのだと、どうしても想像してしまうのは避けられない。


「わ、わかりました。ありがとうございます!」

 ばっと頭をさげ、ツトムが飛び出すように部屋を去った。

「……今の反応、見た?」

 ぽそり、と小さくつぶやくルア。

「見ました」

 ルアが脱いだ学校の制服を畳みながら、臼井が答える。「困った人だ」とでも言いたげに、眉根が寄せられている。


「……なんて初々しいのかしら」

「お嬢様、セクハラで訴えられますよぉ」

「だって、どんなリアクションをするか見てみたくて……うふふ……」

 鉄の精神力で押さえていた表情筋がゆるみ、ルアの口元がだらしなくひくついていた。

「……ティッシュ、いりますか?」

「鼻血なんか出してないわよ!」

「……私、これからのツトムさんが心配です」

「大丈夫よ、うふふ……私がついてるから……うふふ……」

 びしっと決めたビジネススーツでにやける雇い主を見ながら、「それが心配なんです」とは返せない臼井であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る