第1条第10項 履行すべき義務

「お昼にしましょうー」

 1階から、のんびりした臼井の声。

 かれこれ5分以上は大型犬にのしかかられて身動きが取れないツトムと、その様子を動画で撮影していたルアはようやく我に返った。

「……私としたことが。つい、時間を忘れてしまったわ」

 マックスがぶんぶん尻尾を振りながらツトムにじゃれつく姿をたっぷり記録したスマホを、そっと懐にしまい込む。


「どうして助けてくれないんですか……どうして……」

 体重30キロを超える大型犬に全身をこすりつけられ、疲弊しきったツトムにはもはや抵抗する力も残っていない。ただカーペットの上に崩れおちて、マックスにおなかを見せた自分を恨むばかりだ。

 ブラッシングが行き届いているおかげだろう。毛が制服にびっしり、という事態になっていないのだけが幸いだ。

「噛んだりしないわよ。マックス、おいで」

 ぽん、とルアが手を叩く。途端に、ツトムに覆いかぶさっていた金色の毛並みの大型犬は、ぱっと顔をあげてルアの足元へ駆け寄っていった。


「よし、いい子ね」

 耳の裏から顎へ向けて、お嬢様の白い指が毛並みを撫でる。

 マックスは気持ちよさそうに目をとじ、「クゥン」と喉の奥を鳴らした。

「は、はじめからそうすればよかったんじゃあ……」

 よろよろと立ちあがりながらうめく。

「同じ職場の仲間なんだから、コミュニケーションが必要でしょ? 気に入られたみたいで、よかったじゃない」

「これ、気に入られてるんですか」

「熱烈にね」


 ルアがかがみこんで、両手でマックスの首をささえる。

 主人に命じられて、さっきまでのふてぶてしい態度はどこへやら。マックスが「すっく」と頭を持ち上げる。

「し、失礼します」

 なぜか敬語で、その首輪にリードをつなぐ。今度は、うなり声で警戒されることはなかった。

「犬は、集団の上下をはっきり決めるっていうけど……」

 何か言いたげに、ルアがつぶやいた。


「……それ以上は、言わなくていいです」

 ルアの足元に座ったマックス。その前にしゃがみ込んでいるツトム。

 あまり、直視したい現実ではなかった。

「今から1時間、休憩にするわ。食事も、臼井に用意させたから」

「い、いいんですか?」

「あなた、一人暮らしでしょ? 偏った食事で体調崩されると困るもの」

(それって、今後も食事付き、ってこと?)


「栄養士の資格もありますから、安心してくださいね」

 ツトムが疑問を口にするより先に、部屋の入口から臼井が覗き込んでいた。細めの目元に笑みを作って、エプロンでゆっくりと手を拭っている。

「ツトムさんは、アレルギーや食べられないものはありますか?」

「い、いえ……とくには」

「よかった。早く降りてきてくださいね」

 言うだけ言って、メイド服の裾をひるがえす。


「さ、行くわよ、マックス、ツトム」

「わっふ」

 名前を呼ぶ順番について何か言いたい気もしたが、あまり突っ込んで事態を悪くしたくない。

 ルアについて階段を下っていくマックスのリードを握ったまま、少年はそのあとを追いかけた。



   📖



 八頭司邸の一階、ダイニングルーム。

「はい、マックスさんはこっちですよぉ」

 広々とした部屋の一角を区切ったケージを開けて、臼井が手招きしている。

「わっふ」

 素直すぎるほど素直に、大きな体をケージの中へもぐりこませていく。

「……さっきの態度はいったい」

 首輪からリードを外すツトムが思わずつぶやいてしまうのも、無理からぬことだろう。

 来客を想定してだろう。大きな長方形のダイニングテーブルの上には、4人分の食事が用意されていた。

 広い部屋の中に、料理の温かいにおいが漂っていた。

 においが温かい、というのも不思議な気がするが、とにかく、ツトムはそう感じた。


「初対面で、緊張しておられたのでしょう」

 と、合渡。

「そ、そうなんでしょうか」

「打ち解けられたんだから、よかったじゃないですかぁ。上着、お預かりしますね」

 と、メイドの臼井がブレザーに手をかけた。

 少ないとはいえ、ブレザーにはマックスの長い毛がついている。たしかに、このままテーブルにつくよりは、脱いだ方がよさそうだ。


「は、はい……」

 他人に服を脱がされるのに、慣れていない。

 12歳のころから、身の回りのことは自分でやってきた。いや、やらざるを得なかった。

 他の誰かがいる家。テーブルを囲むこと。人に服を脱がされること。

 何もかも、慣れていない。

 が、それはそれとして。

(ち、近い……っ!)

 臼井が正面からブレザーを脱がせようとするから。

 腰のあたりで締められたメイド服の、エプロンの上からでもわかるような「どーん」とした胸が、今にもツトムの胸に押し当てられてしまいそうだ。

 それに気づいたツトムが胸をそらして体をこわばらせるから、ますます脱がしにくそうに爪先立って……


「袖を抜いてください……あっ」

 爪先立った臼井がバランスを崩し、ふくよかな体が、ツトムの細い胴をつつむようにおしつけられる。

 むにゅんっ。

 と形容するのがふさわしい、沈み込んでいきそうな肉感が、胸板に強く押し付けられ……

「う、わ、わっ……!」

 全身をこわばらせて、倒れてしまわないように力を込める。


「そのまま、動かないでくださいねぇ。すぐ脱がせちゃいますから」

 当の本人は気にも留めていないようで、そのままツトムのブレザーを脱がせ続けている。

 その左手の指輪がきらきらと照明を反射するのと、紺色のワンピースの中で二つの丸みが形を変えていくのが視界を埋め、脳に流れてくる情報がパニックを起こしそうになって……

 そのとき。


 カシャッ。

 また、あの電子シャッター音が鳴った。こわばった首をむけると、冷めた目のルアがスマートフォンのカメラを向けている。

「な、なんで……」

 震える声。

「はい、これでよし。早く座ってください」

 その間に、臼井はツトムのブレザーを脱がせてしまった。


「知りたい?」

 スマホを掲げて見せながら、ルアは挑発的にほほ笑んだ。『労働契約』のときに見せた、あの表情だ。

「ちょうどいいから、食べながら話しましょ。いまの茶番で時間かかっちゃったし」

 妙にとげとげしい言いように閉口するツトム。それをよそに、ルアは合渡が引いたイスに悠然と腰かけた。

「はい、マックスさんもどうぞ」

 その後ろで、臼井が大きな給餌器に乗せたドッグフードをケージの中に差し入れる。わふ、と返事をするように鳴くのが聞こえた。


「……わかりました」

 けっきょく、この家を支配しているのは彼女で、自分は今日はじめてやってきた部外者に過ぎない。一緒に食卓を囲むのも、単にそれが効率的だからだ。

 ツトムは小さくため息をつき、椅子を引いた。

「待ちなさい」

 ぴしゃり、と鋭い声がその手を制止する。

「な……なんですか」

 緊張と、疎外感と、警戒をにじませた目。


 しかし、ルアはそんな感情より大事なことがある、とばかりに、軽く肩をすくめてみせた。

「手、洗った方がいいわよ」



   📖



「いただきます」

「い、いただきます」

 手洗いを終えて、4人全員が着席したテーブル。ルアに合わせて、手を合わせた。

 目の前には、塩焼きにしたニシンに、春野菜のおひたし。茶碗に盛られた白米と根菜の味噌汁。それに小鉢がいくつか。

(……普通だ)

 一汁三菜、というやつだろうか。まさか、懐石料理やフランス料理のフルコースが出てくると思っていたわけではないけど、思ったよりもずっと「普通」な食事だ。


「株式会社エヌオー・クリエイト」

「はい?」

「私の会社。あなたの勤め先」

「は、はい」

 いきなりの言葉に、反応が遅れてしまった。あわててうなずくツトムに、ルアはうなずいた。


「事業内容は、わかってるわね?」

「ウェブサービスの開発と提供、ってことくらいは……。ルアさんは、プログラム、とか、得意なんですか?」

 目の前の美少女と、事業内容のイメージがうまく合致しない。おそるおそる問いかけてみる。

「まったくわからないわけじゃないけど、自分でサービスを一から作ったりはできないわよ」

 あっさり、というのがぴったりな口調だ。


「え、じゃあ……どうやって?」

 社長なのに? 意外な答えに、大きく目を瞬かせる。

「役割分担よ。サービスの開発も維持も、わが社が抱える専門家の担当。私の役目は企画、人事、経営、それに広告」

 鮮やかな手つきで塩焼きの骨を取り除きながら、ルアは言葉をつづける。

「広告、ですか」

「そう。SNS『ウェイカー』と提携したわが社のサービスは、動画配信を始めとした各種クリエーションによって開けた世界をユーザーに提供……って、これじゃわかんないか」

 なめらかな口調を一度止め、いつもの自身に満ちた表情を浮かべる。


「つまり、世の中にはいろんな面白い人がいて、人生を楽しんでるんだってことを広げていくのが、私の戦略」

「は、はあ」

 漠然としたイメージしか持てないが、誰かが面白いことをして盛り上がるほど、サービス利用者が増えてルアの会社は儲かる、ということだろう。

「だから当然、その提供者である私が、自分の人生をオモシロおかしく過ごすことが一番の広告になるってこと」

「……はい?」

 なんだか雲行きが怪しいぞ。ツトムの胸の奥でざわめきがひろがっていた。


「おいしいものを食べて、楽しく仕事して、おしゃれして、いろんなところに行って……その一部をウェイカーを使ってみんなに伝える。私自身が楽しんでいる姿を見せれば、みんなにサービスがひろがっていく、ってこと」

 胸を張るお嬢様を見て、ツトムはなるほど、とうなずいた。

 そりゃあ、誰だって思うに決まっている。若く、美しく、自信に満ちて、ついでにお金がたくさんある……そんな風ならいい、って。

 彼女のサービスに登録して、少しでも近づきたいって、そんな風に思う人がいてもおかしくない。

「今じゃ有名人やクリエイターもたくさん利用してるから、私がひとりで支えてるわけじゃないけど」

 冗談めかしてそういってから、おひたしを口に運ぶ。思わず、その血色のいい唇を注視してしまいそうになって、ツトムは目を伏せた。


「だからよ」

「えっ?」

「だから、あなたも私の側近として、面白おかしい人生を送るべきってこと。莫大な借金を抱えて、勤労する高校生男子! ……なんて、面白いでしょ?」

 にっと目を細め、さっきの言葉通りに楽しそうな声音。

「ぼくは、ぜんぜん楽しくなんか……」

「だったら、私が楽しくしてあげる」

 ふてくされたようなツトムの言葉をさえぎって、ルアはそういった。


「私のそばで楽しんで、努力して、幸せな姿をみんなに発信すること。それが本当のあなたの仕事よ」

 あの、宝石さえ溶かしてしまいそうな笑みがそこにあった。

「『労働契約法』第3条第4項! 『労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない。』……私と契約した以上、楽しむのは義務だからね」

「は……はい」

 思わず、うなずいていた。

 ツトム自身も、胸の奥に思いが湧き上がるのを感じていた。この人に近づきたい、と。


「ってことで、私のフォロワーへあなたを紹介するから。さっきのはアップしていい?」

 スマートフォンの画面に、マックスにのしかかられている姿と、臼井と体が密着している姿(自分でも驚くほどだらしない顔をしていた)を映すルア。

「え、ええと……」

「楽しんでる姿を配信するのは義務だからねー」

 間違いなく、人生を楽しんでいる声と表情である。


 ……こうして。

 女子高生社長の側近として、大型犬とたわむれるツトムの姿が、SNSを通じて全世界へ広がることになった。

 なお、もう一つの方は必死に頼んでアップロードを止めた。

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