第1条第12項 女装手当

 臼井の淹れたコーヒーを口にして、いくつかのメールを片付けながら、ルアはちらりと時計を見た。

 14時前。

「あんまり、スタッフさんを待たせちゃダメですよ」

「わかってるけど、彼の心の準備も必要でしょ」

「心の準備って言っても、まだ15歳で難しいですよぉ。お嬢様なら、お着替えすれば切り替えられるんでしょうけど」

「そうね…………ん?」


 ふと、何かに思い至ったように、ルアがじっと臼井の顔を見つめる。

「はい?」

 きょと、と首をかしげる臼井。その眼前で、ルアは「何かを思い出した表情」から、「何かを思いついた表情」に、そして「明らかに悪巧みしている顔」に変わっていった。

「そうね。そうだわ。ふ、ふふ…………」

「お嬢様、念のために聞きますけど、人権を侵害するようなことはダメですよ」

「失礼な。臼井、聞きたいのだけど」

 じっ、と頭からつま先まで、ルアの目が上下した。


「あなた、身長いくつ?」



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「び、びっくりした……」

 ツトムは部屋に戻って椅子に座り、たった今まで呼吸を忘れていたことを思い出した。

 胸を押さえて、ドクドクと鼓動のたびに飛び出しそうな心臓を落ち着かせる。

「あー、もう。もう少し待てばよかった……」

 ぐるぐると混乱する頭を背もたれに乗せて、もう一度深呼吸。ため息を漏らすように、自分の手にまで息がかかるのを感じる。


「……本人がいいって言っても、こっちは気にするってば」

 次から次に、後悔がわいてくる。扉の前で、今何をしているのかを聞くべきだったのでは? それとも、命令を受けようと、用事は後回しにしたいという意思を表明すべきだったかも知れない。いや、待機を言われたのだから、聞きに行ったりはせずに、部屋の中で待っているべきだったかも……

 ずーんと重いモノが頭にのしかかってくるような気分のとき。


 ココココッ。

 駆け足気味のノックの音が、扉から聞こえてきた。

「私よ。入ってもいいかしら?」

 続けて、ルアの声。

「は、はい! ど、どうぞ!」

 その場で立ち上がり、背筋をぴしりと伸ばして答える。返事を聞いてすぐに、扉が開いた。


「15時から会議を始めるわ」

「か、会議、ですか?」

 いかにも仕事、を連想させる言葉に、思わず声がうわずった。

「そう。あなたを主要スタッフに紹介する。従業員の顔と名前を、早く覚えてほしいし」

「う……わ、わかりました」

 ルアの相手だけをしていればいい、とは思っていなかったけど。これから一緒に働く相手のことを考えると、さらに緊張が増す。


 当然、自分たちよりずっと年上の相手が何人もいるだろう。

 うまくやっていけるのか。下に見られたりはしないだろうか。

 不安が脳裏を駆け巡る。だが、その不安は、次のルアの一言で一蹴された。

「というわけで、着替えておいて」

「……はい?」

 思わず、聞き返した。

「ビジネスの場では、ビジネスにふさわしい服装! 本当なら、この部屋に入ってすぐに着替えるべきなんだけど……」


 ぐるり、とルアがまわりを見回した。

「あなた、スーツは?」

「な、ないですよ。合渡さんみたいな、立派なのは」

 改まった場では、基本的に制服で通してきた。それがどういう場面だったかを思い出すと、あまり愉快な気分にはならないので、できるだけ意識から追い出しておく。

「そう。困ったわね。『我が職場にいるのにふさわしい格好』をしてもらわないと……」

「す……スーツ、用意してあるんですか?」


「ないわよ。採寸もしてないのに。でも、そうね。フリーサイズで袖を通せそうなモノなら、心当たりがあるわ」

「それって……」

「臼井」

 一礼して、メイドが姿を現した。その手には、きっちりたたまれた衣服。

 紺と、白。臼井が着ているメイド服と、同じ色である。

「え。……い、いや、冗談、ですよね?」


「……会社ってね、前例がとても大事なの。スーツ以外では、社長室に出入りした実績がある服装はこれしか……」

「ちょ、ちょっと待ってください。これが、仕事に絶対に必要だとは思えません!」

「労働契約に基づき、私にはあなたへの業務命令権があるわ」

 だから、細かいことはいいから従え、ということだろう。

「労働契約は労使の合意が必要なはずです。僕は、こんなことに合意はしてません」

「……確かにね。どうしてもイヤ、というのなら、強制はできないわ」


 ふっと、ルアが大きく息を吐いた。

「……なら、あなたが合意したくなるようにしてあげる」

 にやぁり、と。その口元が大きく歪む。

「ど、どういうつもりですか……」

 ぞくりとしたものが背筋に走る。

「それはね……」

 つかつかつか、と足早にルアが近づいてくる。そして、ツトムのデスクの上に置かれた就業規則を拾い上げた。


 そして、あるページを開き、突き出す。

「手当よ!」



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「手当は、いわゆる基本給のほかに支払うものよ。たとえば通勤手当、役職手当、時間外手当……は、あなたには原理的に発生しないけど」

「は、はあ?」

 突然、メイド服の話がおカネの話に変わって、ツトムはますます混乱するばかりだ。

「就業規則に定めることで、企業は自由に手当を渡すことができる」

「法律で決まったものじゃなくて、労使で決めるもの……って事ですか」

 うん、と大きくルアが頷いた。


「我が社では、上長があらかじめ定めた目標を達成した場合、インセンティブ手当を与える事ができるわ。額は内容に応じるけど……」

「ちょ、ちょっと待ってください。目標って言ったって、服装は仕事の内容とは関係ないじゃないですか」

「あなたが私の求める格好をすれば、私のやる気が高まるの。報いて当然よ!」

「は、はいぃ?」

 猛烈な勢いで叫ぶルアに、思わず身をひいた。


「お嬢様、本音がおかしな風に漏れていますよ」

「……おほん。条件を見直しましょう」

 咳払いするルアが、座りなさい、と手で示す。

 ツトムは控えめに頷いて、チェアに腰を下ろした。

「あなたの言うことはもっともだわ。これは職務には直接、関わりはない。一方で、私の動機付けに大きく寄与しうる」

「……と、お嬢様が判断しています」

 ルアの言葉を、臼井がフォローする。ルアは大きく頷いた。


「だから、私が服を着替えるよう命令しても、あなたにはそれに従う義務はない。もし拒否したとして、それを理由に懲戒を受けたり、罰則を受けたりすることはないわ」

「ほ、本当に?」

「不当な扱いを受けたと判断したら、すぐに弁護士と労働組合に連絡していいわ」

 きりりと眉を寄せて、お嬢様が真剣なまなざしで言った。

「一方で、私の動機を高める事ができるのは、報酬で報いるだけの価値がある、と私は判断します」

 使用者の言葉。瞬きしながら、ツトムは頷いた。


「女装の価値は、時給の20パーセント」

「女装しかないんですか……」

 突然ごろりとした本音を口からこぼしたルアに、思わず突っ込んでしまったが。彼女としては、後半の方が重要なポイントらしい。

「私の指示した服装で職務に従事した場合、その間の時給には20パーセントを加算するわ!」

「ちょ、ちょっと待ってください。考えさせてください」


「もちろん。会議までに決めてくれればいいわ」

 そう言って、ルアは立ち上がった。ビジネススーツ姿で、再び社長室に戻るのだろう。

「今の内容は、あとで書面にして渡すわ」

 そう、言い残して。ぱたんと扉が閉められる。

 部屋に残ったのは、ツトムと臼井だけだ。

「……ほ、本気なんでしょうか」

「たぶん。……コーヒーを入れますから、ゆっくり考えてください」

 そっと告げて、メイドは彼女が着ているのと同じ着替えを残し、部屋を出る。


「……時給の20パーセント……」

 ぽそり、とつぶやく。

 ツトムの時給は、2300円。女装して従事すれば、460円がそれに加算されることになる。

 一日どれぐらいの時間が対象になるのかははっきりとは言えないが、3時間くらいだろうか?

 3時間女装すれば、1380円。

「……ほしい」

 ぽそり、と声が漏れた。


 ツトムの額面上の給与は303,600円、ルアがあの日提示した通りだ。

 しかし、その額には税金や保険がかけられる。さらには、月15万円の返済。ツトムが自由にできるお金は10万にも満たない。

 さいわい、ツトムには自分自身が所有する家があるから、なんとかやりくりして生活する計算だ。そんな状況で、追加の報酬が出るとなれば……


 かちゃり、と扉が開く。

「コーヒーをお持ちしましたよ。ミルクと砂糖は、どうしますか?」

 のんびりした様子で、臼井がトレイに乗せたコーヒーをデスクに置いてくれる。

「……決断するなら、早いほうがいいですよね」

 時給に関わる問題だ。迷っている時間が惜しい。

「……なんでもお嬢様の言うとおりにしなくても、いいんですよ?」


 ツトムははにかむように笑ってから、自分の意思を告げた。

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