第1条第13項 対等の立場

 株式会社エヌオー・クリエイトの事務所には、社長室はない。

 代表取締役社長、八頭司ルアの多忙さゆえ、社長室を設置しても無駄な空間デッドスペースになるからだ。

 代わりに、八頭司邸の2階はほとんどが企業活動のためのスペースになっている。

 社員とのコミュニケートのほとんどはメールやショートメッセージを用いて行われる。対面の必要がある場合はビデオ通話だ。ルアの携帯電話が鳴るのは、相当の緊急事態のみである。


 その、社長室。八頭司ルアはノートPCの画面右下に表示される時間を見つめていた。

 14時53分。

 Web会議の開始まで時間はあとわずかだ。果たして、「秘書」の決断はいかに。

「こういうときに限って、差し迫った仕事もないんだから……」

 なぜだか、妙にいらだちを感じる。

 何度もカメラの設定を確認していた。


 ルアは待つのが苦手だ。

 幼い頃から、人並みのことはなんだってできた。欲しいものは手に入れてきたし、目の前に掲げられた課題も目標も、人が取りかかる前に終わらせてしまう。それが当たり前だった。

 だからこそ、ルアは知っている。自分がとうていかなわない相手がいることを。

 才能。専門性。熱意。経験。呼び方は何だっていい。

 相手がそれを持っているなら、それが彼女の最も欲しいものになった。


 欲しいものは、手に入れてきた。

 そして、待つのが苦手だ。

 だから、起業に踏み切った。欲しい才能に、誰よりも高く根をつけて集め、自分の望むサービスを実現した。

(でも、まだ。まだ、これから)

 SNS「ウェイカー」との連携は始まったばかりで、ユーザーの反応は未知数だ。

 作ることより、続けることはもっと難しい。ハンドル操作を誤ればすぐにクラッシュするレースマシンのコックピットに、体を曲げて収まっている気分だった。


 コン、コン。

 ノックの音で、加速しかけていた思考を中断する。目を閉じて、眉間を両手の親指で押さえながら深呼吸。心を落ち着けて、座り直した。

「いいわ、入りなさい」

「……失礼します」

 うわずった声。ツトムだ。ごく短い間。加速した思考のせいで、扉が開くのがやけにゆっくり感じられた。唇の裏側を噛んで、自分が緊張していることに気づき、ルアはもう一度、目を閉じた。


 がちゃり、と、戸が閉まる音。

「……お、お待たせしました」

 ゆっくりと、目を開いた。最初に目に入ったのは、フリルのついたクルーソックス。

 いくらか骨張ったスネは、少年の、若々しくもどこか不安定な生命力を体現しつつも、不安げに定まらずこすり合わされている。

 膝下の長さのスカートの感触にまだ慣れないのだろう。不器用な立ち姿で、もじつくように腰と腿が小さな身じろぎを繰り返している。そのたび、半端な長さの裾から、膝蓋骨が作るくぼみがほんの少しのぞく。


「……る、ルア様?」

 戸惑うような声。まぶたが開ききると、その顔が目に入った。

 臼井の仕業だろう。少年の髪は先ほどよりも柔らかくセットされてボリュームを増し、小さな飾りだけがついたカチューシャで押さえられている。

 紅潮した顔は、羞恥と、それを押さえ込もうとする意思との葛藤が、常にバランスを変えて現れる。ルアの視線に晒されたことで膨らんでいく恥ずかしさを、エプロンをぎゅっと握ってこらえるのがわかった。

 ぎゅっと、だ。


「……こ……」

 ルアの細い喉が震え、か細い声を絞り出した。

「こ……?」

「これはかなわないわ……」

 肺の奥から漏れ出したような力のない声とともに、崩れ落ちそうになる額を掌で受け止める。危うく、キーボードにおでこをぶつけてしまうところだった。

「え、ええと……」


「そう、それよ! これこそが私の求めていたモノ!」

 チェアから勢いよく立ち上がり、ビジネススーツのルアは叫ぶ。

「な、何がですかっ?」

 少年性を隠しきれていない。ギャップを残しつつの異性装。スカートで動くのになれていないのか、一歩の幅が極端に狭い。

「くっふ……ぅ」

 自分の喉から漏れる行き場のない感嘆を止められない。


「自分から望んでしているわけでも、ムリヤリ強制されたわけでもない……納得しつつも、抵抗を残し、意思を尊重した女装……このニュアンス! 実在感! 素晴らしいわ!」

 しゃっ! 西部のガンマンもかくやという速度でスマホを取り出し、カメラを向ける。

「ちょ、ま、まさか、これも!?」

「当然、シェアするわ! 私の掌には収まり切らない!」

「何言ってるのかわかんないですよ!」

 カシャッ、カシャッ、カシャカシャカシャッ!

 連射モードを起動して、ベストショット探求の短い旅へと乗り出すルア。


「裾をつまんで、アニメとかで貴族の女の子がやるやつ!」

「えぇえ……」

 こんな格好をさせられて、頭がぐつぐつ煮えたぎりそうなツトムは、すでに混乱寸前だ。目を落ち着きなく泳がせながらも、雇用主の命である。

「こ、こう、ですか?」

 戸惑いながらも、両手で裾をつまみ、小さく頭を下げて、ルアの反応を伺う。

「おうっふ……!」

 本人が全く意図していない上目遣いに、思い切りのけぞりながら口元を押さえる。


「なんという破壊力……。こ、これは刺激が強すぎるわ。適切に段階を踏まないと……」

「あ、あのぉ……」

 ツトムは会ったその日から、このお嬢様の「こういう」感じを知ってはいたけど、自分の状況と相まって、思いっきり反応に困っていた。

「そこでくるっと回って。もうちょっとゆっくり!」

「は、はい……」

 耳が燃え上がっているんではないかと錯覚するほど熱くなって、あまりに高まった血圧で頭がぼうっとしてきそうだ。ツトムは必死に酸素を取り入れようと大きく呼吸していた。


「じゃあ、次は、動画で!」

「も、もういいじゃないですか、これぐらいで……」

「これが最後だから! こっちを見て、『よろしくお願いします、ご主人様』と一言だけ、ちょうだい!」

 荒ぶる呼吸を押さえ込みながら、高々とスマホを掲げるルア。

「う、ぅう……」

 うなりながらも、ツトムは社長室のドアを背に、ルアに向き直る。


 部屋の照明よりも輝いているんじゃないかと思えるような、わくわくの光を浮かべるルアの瞳を伺うように見つめ、そっと頭を下げる。

「よろしくおねがいします、ご……」

 そのとき、ふと、ツトムの声が止まった。

「どうしたの、早くしなさい!」

 興奮気味に促すルアに、ツトムは背を伸ばして向き合った。


「……言えません」

 二人の視線がぶつかり、部屋に突然の静寂が訪れた。



   📖



「言えない?」

「はい。……その、ルア様は、僕の雇用主です。でも……主人では、ありません」

「演出よ、それぐらい……」

 言いかけて、少年の目の奥にある意思の光が、自分に向けられていることに気づいた。


「こ、言葉の意味は、それほど変わらないのかも知れません」

 10秒前とは、まったく違った緊張が全身に走る。舌の根元がしびれるように、うまくしゃべれない。それでも、なんとか、言葉を選び、必死に吐き出す。

「でも……それは、違う、気がするんです」

「私の指示に従いたくないってこと?」

 整った顔が険しさを増していく。

「納得できれば、従います。でも……」


 15歳のツトムよりも、16歳のルアは背が高い。彼女の顔をまっすぐに見るために、ツトムは胸を反らし、眉間に力を込めた。

「アップロードするつもりなら、なおさら……ぼくが、納得して『ご主人様』なんて言ったと思われたら、困ります」

「……そう」

 短い言葉。ルアの顔が、いつもよりも白く見えた。

「ぼくは……あなたのものじゃありません」

 勇気を振り絞って、あるいは自棄やけを起こして、ツトムは告げた。

 部屋の中に、再び沈黙が降りる。


「……『労働基準法』第2条第1項。『労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである。』」

 とつぜん、ルアが条文を暗唱した。

「……はい?」

「あなたが私と対等な立場にいるのであれば、あなたは自分の納得できない命令について不服を申し立てる権利を有している事になるから……」

「ええと……?」

 ルアの言おうとしていることをつかみかねて、ツトムは首をひねった。臼井にセットされた髪が、ふわりと揺れる。


「だ、だから! あなたの言い分のほうが正しいって言ってるの!」

「そ、そう言いました?」

「私が言ったって言ったら、言ったの!」

「あの、社長」

 不意に、別の声が響いた。

「……えっ?」

 振り返ったルアの視界に、モニタいっぱいに会議室が映し出されたノートPCが入った。


「もう、会議の時間です」

 モニタの中の会議室には、数人が並んでいる。そのうちの一人がこめかみを掻きながら言った。

「……み、見てた?」

「音も」

 モニタの中の従業員たちが小さく頷き、あるいは目をそらしていた。


「……どこから?」

「『これは刺激が強すぎるわ。適切に段階を踏まないと』のあたりから」

「こ、声くらいかけなさいよ!」

「取り込み中だったようですから……」

 今度は、ルアが顔を赤くする番だった。

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