第1条第14項 退勤
会議の進行は滞りなく行われた。
4月が始まったばかりだ。会社ができて1年、サービスが始まって半年。
ようやく軌道に乗せたところだ。ここで力を入れ過ぎても、緩めすぎても、コースアウトは免れない。
経営者としてのルアは、適切なビジョンを示し、従業員が全力を発揮できるよう、環境を整えなければならないのだ。
そのために必要なのが、状況の正しい把握。そして、余裕である。
「……と、いうわけで、今日から秘書を雇うことにしたわ」
ノートPCの前で胸を張って宣言するルア。一方、その隣に座った少年……メイド服の、ふわふわヘアの、少なくとも黙っていれば少女に見える少年を示した。
「一部にはすでに周知してあるけど、今後は私への連絡はここにいる若倉を通すように」
カメラ越しに、視線が集まってくる。向こうは10名ほど、こちらは2人だけが映っているから、余計に注目されているように感じられた。
「わ……若倉ツトムです。よろしくお願いします」
せめて、初対面くらいは普通に済ませたかった。顔を赤く染めながら、ツトムは頭をさげた。
モニタの中の男女があいさつを返す。興味深そうに眺めるものもいれば、感銘を受けたようにうなずく者もいる。呆れたように肩をすくめる者も、あまり関心なさそうに手元の資料を読み続ける者もいた。
反応は様々だが、誰も反対の声は挙げなかった。
ついでに言えば、「なぜメイド服を着ているのか」と聞くものもいない。さっきの一部始終を見ている間に、だいたい察したのだろう。
「で、問題は経営戦略。ユーザー数の推移は?」
「アカウント数は増え続けていますが、アクティブユーザーは伸び率が減少傾向にあります」
「初期の計画に、わずかですが届いていません」
議題が素早く切り替わる。わざわざ集まっているのだから、女装メイドどうこうに時間を割いていられないのだろう。
(そ、それはそれで、余計に場違いなような……)
秘書として同席しているとはいえ、この格好が浮いているのは間違いない。
「インパクトが必要ね。まだ届いていない潜在ユーザーにまでウェイクウィンクの名前が知れ渡るような……」
腕を組むルア。モニターの中の従業員たちも、難しい顔をしている。
10秒ほどで、高校生社長はぽんと手を打った。
「……それを考えるのは私の役割ね。問題を共有できたと考えましょう。何か思いついたことがあったら、ショートメッセージでいいから私……つまり、若倉宛に送って」
名前を呼ばれて、どきりとした。
「あ……よ、よろしく、お願いします」
この場で論じられているすべてのことは、もはや自分には無関係ではないのだ。
「『よろしく』は、さっきも言ったわよ」
ルアの冗談めかしたツッコミに、モニターの向こうで小さな笑いが起きた。
「それじゃ、私からの用件は終わり」
場の雰囲気が和んだのを見逃さず、ルアが締めにかかる。
「この場で報告することがあれば、言って」
その後、従業員たちからいくつかの報告があり、ルアはそれに対して「わかった」「考えておく」と短く答えた。
使用者。雇用主。そして、経営者。
自分のすぐ隣に座っている少女が、間違いなくそう呼ばれる人なのだと、改めて感じた。
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『通話終了』の文字が映し出され、会議室の光景が簡素なデスクトップに変わる。
「ふ、ぅ……」
我知らず、大木ため息が漏れた。
「緊張してたわね」
くすくすと、肩を揺らしてルアが笑う。
「当たり前です。ただでさえ慣れてないのに、こんな……」
自分の服を見おろす。コスプレそのものの服装で、真面目な会議に出席していたかと思うと顔から火が出る思いだ。
「よかった。仕事のプレッシャーにつぶされたわけじゃなさそうで」
「えっ……」
思わず、その顔を見返した。確かに、15歳のツトムが急に本格的な会議に出席すれば、そのストレスは半端なものではない。
女装のおかげで、かえってそのストレスを感じずに済んだのは、確かだ。
(まさか、そこまで考えて……)
「よかったわよ。すっごくよかった。うふふ……」
(……考えてないな!)
艶のあるピンクの唇をぐんにゃりゆがませて愉悦に浸る顔を見て、確信した。
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その後は、静かに時間が過ぎて行った。
ツトムは部屋に戻り、残りの時間を就業規則の確認にあてた。
その間もメイド服を着ていなければならない理由はわからなかったが、とにかく手当はつくらしい。
午後の散歩を終えたマックスが再び部屋に入り込んできたが、こんどはツトムを警戒することもなく、部屋の隅で丸くなったので、おたがいに静かに時間を過ごした。ツトムに慣れたのか、女装しているせいなのかは判断がつかなかったが。
そして、16時50分。
ノックの音とともに、ルアが姿を現した。
「終業の10分前には、軽くミーティング。報告することがなければ、打刻して終わりにするわ」
との、ことだ。
「で、何か報告することはある?」
「ええと……とくには、ない、と、思います」
「はじめてメイド服を着た感想は?」
期待と好奇心に目をかがやかせるお嬢様。
「は、恥ずかしいに決まってるじゃないですか!」
「ふふ、大丈夫。それがだんだん良くなってくるから……」
「どういう立場から言ってるんですか」
「あ、そうだ。ひとつ、アドバイスしてあげる」
ぴ、っと指をたてるルア。パンツスーツ姿で声のトーンを低くすれば、妙に絵になる。どこから見ても、現役のビジネスパーソンである。
「な……なんですか」
「座るときは、スカートをお尻の下に敷くようにしたほうがいいわよ」
が、残念ながらアドバイスの内容はビジネスとはあまり関係なかった。
「……期待した僕がバカでした」
「大事なことよ。椅子に直接肌が触れたら……あ、そういえば」
話しているうちに、回転の速い頭が何かに思い至ったらしい。
「……下着、どうなってるの?」
口元を押さえながら、好奇心に目をかがやかせるルア。
「ぎ、業務に関係ないので答えられません。これ以上はセクハラですよ!」
「……そうね、今のはよくなかった。謝罪するわ」
「わ、わかってくれたなら、いいです」
意外なほどにあっさり引き下がられて、かえってかしこまってしまう。
「でも、いいわよ。とてもいい。これがウェイカーで話題になればユーザー倍増も夢じゃない!」
「そんなわけないでしょ……」
あらためて、両手で親指を立てられて、がっくり肩を落とす。
「それじゃ、打刻しましょう。帰りは、合渡に送らせるわ」
また素早く議題を切り替えたルアが、タブレットにつながった機器を取り出す。
「はい。それじゃあ……」
ツトムが発光部に指を置くと、「ピッ」と小さな音が鳴り、「出勤」の隣に「退勤」の時刻が表示された。
こうして、ツトムの生まれて初めての勤務時間は幕を閉じた。
「着替え……て、いいんですよね」
「当たり前でしょ。なんなら、見ていてあげましょうか」
「そ、それは勘弁してください」
「私のは見たのに」
「見せたんじゃないですかっ」
「ふふ。それじゃ」
「あ……ええっと」
秘書室を出ようとするルアに、何か声をかけようと思うけど。こういう時、なんていえばいいんだっけ?
「『お疲れ様です』でいいわよ。私とあなたは、対等な立場なんだから」
ドアノブに手をかけたままの女社長が、とろけるような笑みを浮かべる。
「そ……そう、ですね。お疲れ様、です」
そのまぶしい笑顔から視線を伏せて、そのついでに頭をさげた。
ルアが満足げに扉を閉め、こんどこそ本当に、ツトムの『出勤初日』が終わったのだった。
……その夜、ツトムは慣れない携帯電話を操作して、弁護士の荒生に短いメッセージを送った。
『なんとか、やっていきたいと思います』
返事は、10分ほどで帰ってきた。
『お疲れ様。困ったことや不満があれば、相談するように。ところで君、すごく話題になってるわよ』
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ルアの投稿は、SNS『ウェイカー』を通じて、広くシェアされた。
犬に押し倒されてもがく少年。その少年がメイド服を着て、くるりと回る、たった6秒の動画。
もともと、ルアはウェイカー内で指折りの有名人だ。
起業してからの派手な振る舞いで、ファンも多い。もちろん、その反対も。
彼女が何かを投稿すれば、たちまちシェアがひろがっていく。自己プロデュースのたまものだ。
しかし、この日の投稿はいつも以上の速度で拡散された。
理由は、投稿後についたあるコメントだ。
その短いコメントが話題を呼び、ふだんはルアの投稿を気にしないユーザーにまで届いたのである。
そのコメントは、こうだ……
『かわいい! うちにもこんなスタッフがほしいな♪
――名々瀬キッカ』
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