第2条第8項 ユーヴ・ガット・メール
「出向の件だけど」
部活を終えて、八頭司邸へ向かう車中。
スケジュールの確認を終えたとたん、ルアが翠の瞳でツトムを見つめ、言った。
「……今後は、あんまりやらない方がいいわね」
ぽつりとつぶやく声のトーンが低い。冗談で言っているわけではなさそうだ。
「さっきみたいに、出向先にからかわれるからですか?」
先ほどの余韻だろうか。不機嫌そうな視線を秘書に向け、ゆっくり首を振った。
「そうじゃなくて、私の仕事の都合」
「仕事の……って、ルア様のお仕事に余裕があるから、出向させたんじゃないですか」
ツトムの仕事はルアの負担を減らすことだ。だから、ルアの仕事が立て込んでいたら、雑事をこなして重要事に集中できるようにしなければならない。
今回、出向することになったのは、ルアの仕事が立て込んでおらず、特に時間的余裕の多い土曜日には秘書の役目が必要ない、と判断されたからだ。
「そりゃ、私は普段の仕事ぐらいこなせるけど」
髪を指で整えながら、ふいと視線をそらす。
「……あなたの状況が気になって、仕事が手につかないから」
ぽつり、と、窓の外に視線を向けながら少女がつぶやく。
「そ、それってどういう……?」
「あ、あなたの配信を編集しなきゃいけないから、編集点を考えててほかの仕事ができないってこと!」
唇をとがらせ、いらだちをむき出しにしている。それでも、わずかに紅潮した頬が普段とは違った表情を彩っているように思えた。
(それなら、自分で編集しなきゃいいのに……)
と、心の中では思ったけど、これ以上反論してルアの不興を買っても面倒だ。ひとまず、今のところはやり過ごすことにする。
「とりあえず、私の目の届くところにいた方が安心だし」
「目の届くところにいなくたって、変なことはしませんよ」
「どうかしら。みんなずいぶん気に入ってたみたいだし、カメラが回ってないところで、誰とどんな話をしてたのやら」
ルアの言葉に、思わず休憩時間にリンカと交わした会話を思い出しかけ(ついでに深い谷間がフラッシュバックして)、ツトムの顔が引きつった。
「……ほんとになにかしたわけ?」
「い、いや! そんなことないですよ!」
「とにかく、今後はよほどのことがなかったら、出向なんかさせないから。わかった?」
ずい、と顔を寄せて迫られ、コクコクと人形のように頷く。
「は、はい……」
「よろしい」
このとき……
その「よほどのこと」が起きようとしていることを、二人はまだ知る由もなかった。
📖
月曜日、火曜日、水曜日。
順調に時間は過ぎ去り、業務は滞りなく進んだ。
ルアは可能な限り、会議はしない主義だ。ルアが会議に参加できる時間は放課後、つまり業務時間外か、あるいは終了直前に行うことになる。
終了時間を気にしながらの会議は、無理やり結論を出すためのものか、あるいは結論を決めきれないものになることがほとんどだ。
「チームの成果を上げるためには、まず個人のパフォーマンスを高めること」
……というのが、ルアの経営方針らしい。
そのため、個人が自分の業務に集中できる時間とスペースをできるだけ増やす。ツトムのように、一部屋丸ごとを与えられているのは極端にしても、一人あたりのワークスペースはかなり大きくとってあるようだ。
ツトムも週に時折、Web会議などを通じて本社の様子を見ることがある。明るく、清潔で、広い。そんな印象だ。
「もしかしたら、ルア様が単に一人でいるのが好きなのかもしれないけど……」
「わっふ」
ツトムのつぶやきにこたえたわけでもないだろうが、秘書室で丸まったマックスが小さく鳴いた。
その場所はすっかり彼の定位置になったようだ。いや、正しくは、もともと彼のための部屋にツトムが後から入ってきたのだが。
木曜日の夜。もう少しで業務終了、という時間帯。
ツトムが休憩を終えるころには、ほとんどの従業員が退勤している。残業も、可能な限りさせないのがルアの方針だ。
この日も、社内ネットワーク上でオンラインなのはツトムとルアの二人だけだ。
ポン、と短い電子音と共に、グループウェア内でルアからメッセージが届いた。
『問題はない?』
「CEO」と顔の下に書かれているルアのアイコンが、そう話しかけてきている。
返信のため、ツトムは慣れないながらも、ノートPCのキーボードをたたく。
『特にないです。平和ですね』
ちなみに、ツトムのアイコンは例のメイド衣装を誰かがファンアートとして投稿したものだ。
気づいたらすでに設定を変えられていて、何度聞いてもアイコンの変更方法を教えてもらえていない。
『ちゃんと試験勉強もするのよ』
『学校の中間試験はまだ先ですよ』
『そうじゃなくて、資格試験のこと』
そこまでメッセージ上で会話を交わし、ツトムが返事をする前に、さらにルアからもメッセージが届いた。
『まあ、学校の勉強もしてもらわないと困るけど』
『でも、土曜まで仕事だから時間がないですよ』
目下、ツトムの最大の悩み事はそれだ。
学校が終わったらすぐに仕事で、帰宅したらすぐに入浴して寝る。土曜日も午後は働く契約だから、学校内での学業は確保されているものの、自主的に勉強する時間がない。
紫楼館学院は、はっきり言って生徒のレベルが高い。一方、ツトムの学業は、平均的な15歳、と言ってしまっていいだろう。
「もし留年、なんてことになったら……」
ツトムの借金返済は20年かかる見込みだ。それはもちろん、最初の3年で高校を卒業し、その後はさらに広範囲の仕事をルアの元で行い、収入が増えることが前提だ。
だから、留年したら返済はそのまま1年増えることになるし、ルアの計画だって狂うだろう。
「……なんとか、時間を作らなきゃいけないんだけど」
日曜日を使うとすれば、一週間のすべてが学業と就業にささげられることになる。15歳の少年にとっては、楽しみがあまりに少なすぎた。
その時、ノートPCが別の音声を鳴らした。
《ユーヴ・ガット・メール》
低い男性の声。その音声は、社外の「重要な取引先」のアドレスからメールが着信したときにのみ鳴るもので、声は合渡が吹き込んだらしい。彼によれば「ちょっとしたお遊び」らしいが、ツトムには何が「お遊び」なのかはよくわからなかった。
「こんな時間に……って、メールは時間関係ないけど」
自分以外にも、22時直前まで働いている誰かがいるのだ、と思うと、安心するような同情するような、不思議な気持ちだ。
メールが着信したら、重要度を判断して振り分けるのがツトムの仕事だ。
有機的な曲線を描くマウスを操作してメールを開き……
「ん、ん……?」
数秒。そのメールの意味を理解するのに、時間がかかった。内容を理解するには、さらに数十秒。
それから、グループウェアに切り替えて、ルアへメッセージを送った。
『緊急事態です』
📖
退勤の打刻を押すために社長室を訪れた時、ルアはメールを表示したモニタを見つめながら、眉間にしわを寄せていた。
「……それ、どうするんですか?」
おそるおそる問いかけると、翠の瞳がツトムに向けられる。
「それは、こっちのセリフよ」
怜悧な瞳はその問いを、まっすぐにツトムに返していた。
「名々瀬キッカがあなたを一日雇いたい、ですって?」
どことなくいらだったような表情は、月曜に車中で見たのと同じものだ。
「そういう形で、撮影中の映画の宣伝をしたい、ってことだと思います、けど……」
「そうね。でも、取引相手の本当の目的がいつもわかるわけじゃないわ」
ツトムのあまり知らない顔。経営者としての顔。その中でも、従業員に見せるやさしい表情ではない。
何が利益になって、何が不利益になるかを見極めようとする、ビジネスパーソンとしての顔だ。
「あなたの出向は反響も大きかったし、それに乗ってウェイカーの拡散力を利用したい、っていうのも筋が通ってる……」
「な、なにを警戒してるのか、ぼくにはわからないですけど。名々瀬さんは、警戒するようなことは考えてない、と思いますよ?」
ツトムが知っているクラスメイトの少女は、確かにイタズラ好きではあるけど、人をだましたり、陥れたりするような人物ではない。
提示している報酬額は、ツトムの目から見ても充分だと思えたし、断る理由がルアにあるとは思えなかった。
(まさか、名々瀬さんがぼくを引き抜こうとしてる、なんて思ってるわけじゃないだろうし)
気楽に構えているツトムを、再びルアの瞳が見据えた。
「私にも、わが社にも、断る理由はない」
打刻機を差し出しながら、経営者が従業員に告げる。
「問題は、あなたの意思だけ。やりたいかどうかは、あなたが決めなさい」
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