第2条第9項 春雨
第三土曜日。
すでに四月は半ばを過ぎていた。
その日は雨が降っていた。しとしとと、静かだがなかなかやまない雨。
ツトムは駅からほど近い道端に傘をさして立っている。
12時55分。ツトムのすぐそばに、白い車が止まった。恐る恐る中を覗き込もうとしても、スモークガラスで中は見えなかった。
何か声をかけるより先に、内側からそのドアが開く。
「乗って。見つかったら、面倒だから」
車中から、小さく抑えた声と共に柑橘の香りがツトムに届く。ツトムは慌てて傘を閉じて乗り込んだ。
「時間通りでよかった。真面目だね」
すぐ隣で、きっちりシートベルトを締めた名々瀬キッカが口元に笑みを浮かべていた。
「あ、当たり前ですよ。会社の名前を背負ってきてるんですから」
急ぎ、シートベルトを締めるツトム。白い車は、合渡の運転に比べればややせわしなく発進する。
「今日は敬語?」
「し、仕事だから……」
「いいよ、そんなの。うちは大きい事務所でもないし、アットホームが売りだから」
ルアと同じ車に乗るのには慣れてきたのだが、さすがに隣に座っているのが当代きっての映画スターとなれば、いつもと同じというわけにはいかない。
「今日は、一日付き人ってことで。はい、業務開始の証拠」
キッカが腕を大きく伸ばして、自分にスマートフォンのカメラを向ける。
「ほらほら、表情カタいよ」
楽し気に笑うキッカが、ぐい、と身を寄せてくる。ツトムにとっては、彼女の巻き毛が肩にかかるだけでも、恐れ多いくらいだ。
「あ、あんまりくっついたらまずいよ」
「平気だって。ほら、ピース」
「し、仕事だから……」
自撮りの角度も完璧なキッカと、大河ドラマの最終回もかくやというほど顔をこわばらせたツトムがフレームに収まる。それをすぐさまウェイクウィンクにアップロードして、キッカは微笑んだ。
「こうやってウィンクを使えば、私は宣伝になって、CEOはユーザーの注目が高まる。いい考えでしょ?」
「そ……そうだね。えっと、僕は、何をしたら?」
「んー、あたしと一緒にいてくれたら、いいよ。あ、ただし」
ぴしり、と、作り物のように整った指が立てられる。長すぎず短すぎず……ただし、水晶のように艶めいた爪。
「守秘義務、忘れてないよね?」
「も、もちろん」
「じゃ、よかった。とにかく、あたしから離れないでね」
これからキッカ(と、ツトム)が向かうのは、新作映画の撮影現場だ。
映画の内容はもちろんのこと、配役やスタッフ、小物の一つでも映画の一部である。その内容を誰かがもらしたら、興行に大きくかかわる恐れがある。
だから、ツトムはこの日知ったことをWeb上に書き込むのはもちろん、ルアにも伝えてはいけないことになっている。
今日は撮影係の合渡もいない。ウェイカーへの配信は、キッカか、彼女のスタッフが行う、ということらしい。
事前に、出向同意書と守秘義務契約書にサインしてある。もし守秘義務を破れば、エヌオー・クリエイトに多額の請求が回ることになる。
(そんな大事な現場に僕なんかを入れないほうがいいと思うけど……)
と思う一方、普通に暮らしててできる体験ではない。どんな場所へ向かうのか、楽しみでもあった。
キッカはスマートフォンを操作して、ウェイカーにつぶやきを乗せ、そのまま画面を眺めている。
カーステレオ代わりの端末からは、はやりのアイドルソングが流れている。車の外の雨の音は聞こえなかった。
(……何か、話したほうがいい、かな)
同級生でもあり、会社にとっては取引先でもあるのだ。できるだけ、打ち解ける努力をすべきかもしれない。
でも、話題が思い浮かばない。立ち入ったことを聞くのはまずいが、かといって「雨だね」なんて話しかけてどうしようというのか。
さんざん考えた末、ツトムの頭にある条文が浮かんだ。
『労働基準法 第56条第1項
使用者は、児童が満十五歳に達した日以後の最初の三月三十一日が終了するまで、これを使用してはならない。』
荒生が第17条の次に指摘した内容だ。だから、15歳のツトムは4月1日からの勤務になったのである。
「名々瀬さんは、子供のころから映画に出てたんだよね?」
「7歳の時からね。それがどうかした?」
「ええと……なんていうか、ぼくは、4月まで働けないことになってたから。法律に違反じゃないのかな、って思って」
「法律の話? さすが、詳しいねー」
にっこり笑う女優。どれが自然な表情でどれが演技なのやら、ツトムに区別がつくわけもない。
「映画は特別措置。子役を使わないと撮影できないシーンもあるからね。えーと……」
手元のスマホで検索をかけ、ヒットした条文をキッカが読み上げた。
『労働基準法 第56条第2項
(略)児童の健康及び福祉に有害でなく、かつ、その労働が軽易なものについては、行政官庁の許可を受けて、満十三歳以上の児童をその者の修学時間外に使用することができる。映画の製作又は演劇の事業については、満十三歳に満たない児童についても、同様とする。』
ただ条文を読み上げるだけなのに、耳なじみのいい声色に、思わずずっと耳を傾けていたくなる。キッカが読み終えたことに一秒立ってから気づき、ツトムはあわてて返事を探した。
「そ、そっか。問題ないんだ」
なんてつまらない返事だ、と自分でも思ったが、キッカの気には召したらしい。
「そう。なんなら、ツトムくんもやってみる?」
「い、いやいや。ぼくにはムリだよ」
慌てて首を振る。だが、蝶を追いかけて遊ぶ猫のように、キッカは目を輝かせていた。
「見た目はいいと思うけど。あとは度胸と技術かな? あたしが教えてあげよっか?」
「お、教えるって……そんなにすぐに、できるものじゃないでしょ」
「若いんだから、時間はいくらでもあるでしょ?」
キッカにとっては、何でもない一言のつもりだったのだろう。
だが、ツトムがうなずけるはずもない。
「……それこそ、無理だよ」
「あっ……」
口に出してから、気づいたのだろう。ツトムの労働は、借金の返済のためだ。
「ご、ごめん。私……」
珍しく焦るように、手を膝の上にさまよわせる女優の姿を見て、ツトムは場違いにも、
(きっと、これは演技じゃないよね)
なんてことを考えていた。
「ううん。どっちにしろ、ぼくにはムリだと思うし。でも、ちょっと嬉しかった」
彼女ほどうまくはできないけど、なんとか笑みを浮かべて答える。
キッカはしばらく口をつぐんでから、何かの決意を固めたようにうなずいた。
「よし。じゃあ、今日はツトムくんがちょっとでも楽しめるようにしてあげる」
「い、いいって。仕事なんだから、そんな気を使わなくても」
「いいからいいから。一日いっしょなんだし、楽しもうよ」
車がゆっくりとスピードを落とし、広い駐車場に入っていく。
「……あ、着いたみたい」
スモークガラスから外を眺め、キッカがつぶやく。
大きな建物。「スタジオ」の文字が見えた。どうやら、今日の撮影はこのスタジオの中、ということらしい。
駐車場の一角に車を止める。
「シートベルト外して。行こう」
頷いて、ベルトを外す……そのとたん、キッカの白い手がツトムの手首をつかんだ。
「ほら、早く」
「ちょ、ちょっと待って、傘を……」
手を伸ばして傘をつかもうとするが、それよりも早く、ドアを開けたキッカに体を引っ張られる。
「名々瀬さん、濡れちゃうよ」
「濡れたほうが、ツトムくんの思い出になるでしょ?」
ツトムをドアから連れ出したキッカが、スキップするように軽い足取りで歩き始める。
こうなったら、仕方ない。ツトムも腕をひかれるまま、スタジオに向かって走るしかない。
「春雨じゃ、濡れてまいろう!」
「こ、ころんじゃうって!」
塗れた足元を気にせずに、軽快に進むキッカ。引っ張られる腕と、濡れた髪の感触は、確かに忘れられそうになかった。
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