第2条第10項 出向その3
なめらかに秒針が動いている。
八頭司邸2階、エヌオー・クリエイト社長室。人間工学に基づいた高級チェアにどっしりと腰を下ろした八頭司ルアは、いつものように仕事がはかどらず、イライラした様子で時計と、デスクトップのモニターを眺めていた。
モニターに表示されているのは、SNS「ウェイカー」のユーザー画面。大量のフォロワーを抱える名々瀬キッカの最新投稿には、引きつった顔のツトムとのツーショット写真が添えられている。
撮影所へ向かう車中らしい。画面の中の二人を眺めていると、なぜか心がささくれ立つような気がした。
「……ふーん」
自分が何にいらだっているのか。よくわかないまま、ルアはそのいらだちを吐き捨てるように目を細めていた。
「……守秘義務、ね……」
ぼそり、と小さくつぶやく。
本来、ツトムの出向は、ルアが状況をいつでも把握できることが条件だ。だから、前回の出向には合渡を着け、生で配信させていた。
だが、今回は映画撮影現場だ。
完成前の映画作品は、公開までに厳密な情報コントロールが敷かれている。
だから、キッカと、彼女の事務所による写真投稿を一時間に一回以上行うことで契約を成立させた。
関係者ではないツトムを入場させるだけでも、相当の例外だ。それだけの宣伝効果が出なければ、ウェイクウィンクの信用にも関わる。
「このために、どれだけわがままを通したのやら……」
主演女優であるキッカにとっても、気楽な決断ではないはずだ。
「……まったく」
イライラがますますつのる。仕事に戻ろうとしても、すぐにウェイカーを更新する始末だ。
「……だから出向はもうやめようって言ったのに」
自分だって、相手方との契約に合意したのだ。それは企業としての利益を優先してのことである。
ルア、キッカ、エヌオー・クリエイト、そしてツトム。全員が合意している。
止める権利も、いまさら条件を変える事もできない。
「……ああ、もう」
モニターに張り付いていたら、このまま時間が過ぎるだけだ。
ルアは立ち上がり、社長室の戸を開いた。
(合渡に、紅茶を淹れさせないと)
鎮静作用のある紅茶。きっとこんなイライラは消え去って、すぐに仕事に集中できるようになるはずだ。
たぶん、きっと。
📖
「おっはよーございまーす!」
広いスタジオの隅々にまで響くような、はつらつとしたキッカの声。
「お、おはようございます……?」
ぐいぐいと腕をひかれてやってきたツトムは、おそるおそる彼女の言葉を繰り返す。
「キッカちゃん、おはよう!」
「おはよう!」
「今日もかわいいね!」
いくつもの声が彼女を出迎える。
広々とした空間には、ツトムが見ても何に使うのかよくわからない機材が並んでいる。
一角に、調度を取りそろえた部屋……の2面の壁を取り除いたような場所。映画のセット、ということだろう。
その中に、何人もの男女が散らばっている。誰が何をしているのか検討もつかない。
映画のエンドロールで大量の名前が流れるのは知ってはいても、実際に幾人もが一カ所に集まっているのを目にすると、こんな大きな事業に関わる、というだけでも驚かされる。
もちろん、何百万人もが同時にアクセスするウェイカーは巨大事業なのだが、秘書室でルアのサポートをするだけではほとんど実感はない。
それでも、キッカが姿を表したとたんに場の雰囲気が変わるのがわかった。
キッカの声が人々の表情に明かりをつけて回り、その場の輝度が上がっていくようにツトムには思えた。
(華がある、っていうやつ、かな)
今自分の腕を引っ張っている、同い年の少女。彼女がこの巨大事業の中心にいる、ということが、今更のようにひしひしと実感できた。
「行こう、あたしの控え室」
「う……うん」
何人ものスタッフと挨拶を交わしながら、奥へ奥へ。ひんやりとした廊下をしばらく歩いて、「名々瀬キッカ様」と書かれた一室へ。
「おはようございまーす」
その中には、女性がひとり。
「おはよう、キッカちゃん。……なんで髪濡らしてるの?」
ジト目で聞かれて、キッカはつい、っと視線をそらす。
「いやー、いろいろありまして」
「まったく。乾かすからこっちいらっしゃい」
ドライヤーの本体に巻き付けられたコードをほどきながら、女性が告げる。キッカは「はーい」とだけ答えて、彼女の方に向かっていった。
「あ、紹介するね。あたしのスタイリストの
「は……はじめまして」
いつもの光景なのだろう。おとなしく椅子に腰を下ろすキッカの後ろに回り、髪を乾かすついでにヘアセットをはじめる正梶に、頭を下げる。
「見たわよ。袖森リンカに黒く塗られてた子ね」
「そ、そうですけど、そんなにはしょった表現しないでくださいよ」
「あー、あれ、よかったよ。仕上がりも、そんなに筋肉ついてるように見えなかったけど」
「モデルがよくないと、メイクだけじゃ限界があるのよ」
くすくすと姉妹のように笑い合う二人。仕事のために何度も顔を合わせているのだろう。ずいぶん気安い関係らしい。
「な……なんか、名々瀬さん、学校と雰囲気違うね」
「そう? ツトムくんとは、いつもこんな感じだけど」
「そう……だけど、みんなとは、そんなでもないっていうか」
キッカはふだん、クラスメイトと積極的に交流をしようとしない。近寄りがたい雰囲気だ。
「相手によって態度が変わるのくらい、普通のことでしょ」
器用にヘアブラシを操り、キッカの髪を整えながら正梶が静かに告げる。
「そう……ですね。じゃあ、今の名々瀬さんが本当の姿……なん、ですね」
「本当って。あたしが? ツトムくん、本気でいってるの?」
楽しげに目を細めるキッカ。その表情は、15歳の少女に似つかわしくない。突然、10歳以上も年齢が上がったかのような、妖しいものだ。
「私、女優だよ? 何が本気なのかなんて、ツトムくんにわかる?」
正梶の手で乾かされ、トレードマークの巻き毛ができあがる。
そこにいるのが同級生だとは、とても思えない。だが、確かに見覚えがあった。スクリーンで、液晶テレビで、幾度も見た女優、名々瀬キッカそのものだ。
「……今も、演技してるってこと?」
思わず、その雰囲気に飲み込まれそうになる。意識しないと、呼吸することも忘れてしまいそうだ。
「ふふ、どうかな。7歳のときからだもん。いろんな人と関わらなきゃいけないし、いっつも顔を作ってたら、私にもわかんなくなっちゃうかも」
ツトムの顔をおもしろがるように見つめ……それから、小さく舌を出した。
「なんてね。メイクも直さなきゃいけないし、少し待っててくれる?」
スイッチを切り替えるように、さっきまでの雰囲気がかき消える。16歳の少女に戻ったキッカが、鏡に向かって座り直した。
「わ、わかった。後ろ、向いてたほうがいい?」
「別に、見られて困るものじゃないし。そのままでいいよ」
部屋の隅の椅子に浅く腰掛け、見るでもなくその姿を眺める。
「……でも、よくやる気になったわね。ダブル主演なんて」
「別に、面白そうかもって思っただけだよ」
キッカと正梶の会話が聞こえてくる。
(……そういえば、どんな映画か聞いてないけど……)
「役者には、格があるんじゃないの? アイドルの子と同じ扱いは不満じゃない?」
「ダブル主演なんて、宣伝文句の都合でしょ? どう見たって、あたしのほうが主演だもん」
「女の子どうしの恋愛シーンがあるって聞いたわよ」
「面白いでしょ? 今までにない役だもん」
ツトムは我知らず、耳に神経を集中させてその話を聞いていた。
「そ、そういうときって、やっぱり自分の経験を元に演技……したりするの?」
好奇心が抑えきれず、聞いてみた。女優がどうやって演技をしてるのか、気になったのだ。
「そうだねー。自分の中に近い感情を探したりはするかも。でも、今回は難しいかも」
「その……女の子相手、っていうのが?」
「それもそうだけど。恋愛っていうのがねー。仕事ばっかりで、そういうのやってこなかったから」
「そ……そう、なの?」
意外な返事に、思わず目を瞬かせる。同い年とは思えない彼女に、恋愛経験がないなんて思わなかったのだ。
「ふふ、そうだねえ。役をつかむのに、何か工夫が必要だと思ってたところだったんだ」
「工夫……?」
「そう。私が心から、誰かを好きになった演技ができるようになる工夫」
キッカの表情が妖しく細められる。
「衣装、着替えなきゃ。ツトムくんも、一緒に来て」
その表情はなぜか、ルアが悪巧みしているときの、あの顔を思い起こさせた。
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