第2条第7項 ベア

 ツトムは翌日を筋肉痛と共に過ごした。

 ボルダリングで全身を使ったのに加えて、座禅で姿勢を保つために体幹の筋肉にも負担をかけたからだ。

 ふだん、自分の姿勢が悪かったことを改めて思い知らされ、ツトムはちょっぴりショックだった。

 ついでに、エアブラシで塗られた上半身の小麦色はまだうっすら残っている。


「今日は……部活があるんだっけ」

 放課後。学業が終わると、16時までにルアと合流しなければならない。そうでなければ、打刻ができないから遅刻になってしまう。

 ちなみに、どうしても外せない用事がある場合は業務開始までにルアに連絡する決まりだ。

(って、言っても、用事なんてほとんどないけど……)

 ツトムに「家庭の都合」はほとんどないし、この時期に居残りだとか、学校の用事が起きることもないだろう。16時までのわずかな時間は、ちょっとした休憩時間だ。


 ルアが部活動に参加できる日を確かめるのは、今ではツトムの仕事だ。

 ポップカルチャー研究部の部員はスケジュール共有アプリで各自の予定を入力しているから、それを確かめる。ルアの仕事の切迫度を判断し、余裕があるなら参加予定にしておくのだが、その日参加できるのがルアだけでは部活のしようもない。

 また、仕事の都合があるのはほかの部員も同じだ。だから、参加できるのが二人だけのときなどは、両方の状況を確かる。アプリに入力してくれている場合もあるが、場合によってはメッセージで連絡し、確かめる場合もある。


(……気づいたら、全員のスケジュールをぼくが調整しているような……?)

 あくまで部活に限っては、なのだが。

(……ま、まあ、でも、ルア様のスケジュールのために必要なことなら、仕方ない、のかな?)

 秘書の業務範囲は広い。相手方とのスケジュールの調整などは一般的な業務だとテキストにも書いてあったし、逸脱しているとまでは言えない。


「今週は……今日は全員参加。あとは木曜なら、部活ができそう、かな? 金曜は……リンカさんの状況を確かめておかないと」

 ぶつぶつつぶやきながら、ケータイの画面を見つめる。この小さな画面では把握が手いっぱいだ。

(ルア様が使ってるようなタブレットがあれば……それともノートを持ち歩くとか。でも、セキュリティ上、あれは動かさないほうがいいのかな……)

 自分でも気づかないうちに「仕事」について考えるようになっているツトムが考えているとき。


「もしもーし?」

「ひゃ!?」

 とつぜん、耳元で声がして、意識を引き戻される。

「あはは、耳が敏感なタイプ?」

 すぐそばから、柑橘の香り。長い巻き毛をふわりと揺らして、名々瀬キッカがツトムの向かいから顔を覗き込んだ。

「鈍感なタイプってあんまりいないと思うよ……」

 思わず片耳を押さえて答える。四月も半ばだ。キッカと話すときの緊張も、少しずつ薄らいできた……といっても、どうもキッカはツトムをからかったりサプライズを仕掛けるのが好きらしく、なかなか落ち着いて話すことはできないのだが。


「見たよ、土曜の」

「あ……あれ、名々瀬さんも見てたの?」

「リアルタイムじゃないけどね。日曜に、CEOが15分くらいに編集した動画を上げてたから」

「……ルア様って、忙しいんだか余裕があるんだか……」

「けっこう再生されてるから、CEOのビジネスの得でもあるんじゃない?」

「だったら……いいけど」

 ツトムをおもちゃにして楽しんでいるのと、業務の方向性が一致しているから文句をつけにくい。手当が支払われているから、ツトムも同意したことになっているし。


「けど、CEOもよくやるよね。大事なスタッフを出向させるなんて」

「まあ……話題づくりってこと、かな」

「秘書なのに、タレントの真似みたいなことさせられて。ツトムくん、かわいそう」

 気づけば、キッカの瞳がじっとツトムを見つめている。黒い瞳に自分の顔が映り込んでいるのまでわかってしまいそうだ。

「そ、そんなことは……確かに、疲れるけど」


「私なら、そんなこと、絶対させないのに」

 普段よりも低い声。トーンが変わるだけで、ぞくりと何かが背筋に走るような迫力。

「私なら、大事なスタッフにはずっと一緒にいてほしいって思う」

「だ、大事なんて……ぼくは、単なる従業員だから」

「大事に思ってないなら、雇わなきゃいいのに」

 ツトムの逃げ道をふさぐように、キッカが机に上半身を預ける。

 まるで、ツトムの視界を自分で覆うように。


「ねえ、私なら……」

 ぶるるるっ。

 キッカがさらに言葉を続けようとしたとき、ツトムのポケットの中でケータイが振動した。

 始業開始の15分前を告げるアラームだ。

「ご……ごめん、名々瀬さん。もう、行かないと」

 冷えた背筋を伸ばし、急いで立ち上がる。鞄をつかんだ。……今日は、部室で合流だ。


「そう。……じゃあ、また明日ね」

 キッカが小さく肩をすくめる。元の口調に戻っていた。

「あたしも、ウェイカーで現場のこととかつぶやいてるから。CEOには内緒で、フォローしてもいいよ!」

「う、うん……」

 控えめに手を振ってこたえる。ツトムはまだウェイカーにアカウントを作っていないのだが……

(ルア様に秘密で登録しろってこと?)

 見つかった時にどうなるかを考えても恐ろしい。身震いしながら、ツトムは教室を飛び出していった。



   📖



 ツトムが部室に着いた時には、すでに部員たちは集まっていた。

 てっきり、活動を始めていると思ったのだが、彼女らは中央のテーブルに座り、何かを話していたらしい。

 ピリリとした雰囲気に足を止めるツトムに、ルアが手招きした。

「……来たわね。こっちに座りなさい」

「え、ええと……」

「とりあえず、打刻から」

 有無を言わさぬ口調のルアに従い、指紋認証打刻機に指を置き、テーブルの一角に座る。


「……な、何かあったんですか?」

 口をつぐんでいた部員たちを見回し、恐る恐る聞いてみる。

 まず、ケイが身を乗り出した。

「ボクのトレーニングパートナーになってほしい。キミは筋がいいし、小柄で身軽だから、鍛えればいい演技ができる」

 次に、ウメが。

「ウチの道場で働いてみぃひん? ウチの女子会員がキミのこと気に入ってなぁ、まずは下働きになるけど、ウチが直接指導するで」

 そして、リンカも。

「前から、男の子向けの製品も考えてたから。君がイメージモデルになってくれたら、アピールしやすいと思うの」


 当のツトムは、寝耳に水もいいところだ。

「ちょ、ちょっと待ってください。ほ……本気ですか?」

「ああ」

「うん」

「ええ」

 ぐ、っと力強くうなずく部員一同。

「……つまり、この人たちは私から、八頭司ルアから従業員を引き抜こうってつもりなわけ」

「ルア様は、その……いいんですか?」

 恐る恐る問いかける。


「いいわけないでしょ。ようやく仕事も少しずつ覚えてきたところなのに。まったく、こんなことなら出向なんかさせるんじゃなかったわ」

「だったら……」

「『民法』第627条♡」

 とつぜん、リンカが告げた。

「『当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。』」


「は、はい?」

 いきなり条文を読み上げられて困惑するツトムに、

「せやから、ツトムくんが退職を申し出たら、2週間でルアの秘書を辞められるってことよ」

 と、ウメ。

「荒生先生が言ってたでしょ。あなたが別の仕事をしたいと言ったら、私にそれを止める権利はない」

 不機嫌そうにつぶやくルア。


「だから、あなたが一番働きたいところで働けばいいわ」

 突き放したように、そっぽを向く。

「……と、いうわけで、ボクは、今キミがもらってる時給にプラス20円は払っていいと思ってる」

 ケイが口火を切って、交渉を開始する。

「せやったら、ウチは50円足してもええよ。男手は増えて困ることあらへんし」

「私は月給で出すわよ。315,000円でどうかしら♡」

 リンカが提示した金額に、空気がぴりりと変わるのが感じられた。


「318,000」と、ケイ。

「320,000」すぐさま、リンカが額を吊り上げる。

「323,500や」すかさず、ウメが宣言する。

「ちょ、ちょっと、いきなり、そんな……」

「雇用も市場と同じ。希少価値のあるものは、高く値をつけられて当たり前よ♡」

「君も、今決めてしまったほうが、来週の月曜から転職だからわかりやすいだろ?」

「で、でも……」

 自分に希少価値がある、なんていわれるのは悪い気はしないが、あまりに展開が急すぎる。

 ちらりとルアのほうに視線を向けた。不機嫌そうに頬杖をついて、我関さず、という表情だ。


「325,800」

「326,000!」

「326,500」

「326,800♡」

「327,000」

「あ、あの、えっと……」

 誰がいくら提示してるのやら。まるでオークションのように激しいやり取りに、ツトムが飲まれかけていたとき……

「349,800」

 いきなり引き上げられた提示額。その場にいる全員の視線が声の主に集まった。


「……私より高い額をつける人はいる?」

 不機嫌そうな調子のまま、ルアが一同をねめつける。

 返事はない。ルアは大きく胸を張って、ツトムへまっすぐに向き直った。

「『労働契約法』第8条。『労働者及び使用者は、その合意により、労働契約の内容である労働条件を変更することができる。』」

「……?」

 ぽかんとするツトムに、ぐい、とルアが身を乗り出した。


「あなたに話してるのよ。わかってる?」

「い、いえ、何をおっしゃってるのかわからなくて……」

「だから、あなたの賃金を上げるために労働契約を変更するから、合意しなさいって言ってるの!」

「は、はい!」

 勢いに押されて頷くツトム。その様子を眺めて、リンカとケイはアイコンタクトをかわし、かるく肩をすくめた。


「雇用者が賃上げベアを迫るところ、初めて見たわ♡」

「けっきょく、一番求めている人が一番いい条件を付けることになるってことだね」

 二人の間で両肘をついたウメが、くすくすと小さく笑っていた。

「ツトムくんが、これで自分の価値に気づいてくれたらええけど」


 こうして……

 この日、4月の第3月曜日、この日を待ってツトムの時給は350円、月給にして46,200円上昇した。

 雇用契約が効力を発揮した4月1日から、2週間と少しの出来事であった。



   📖



 同じころ。

 撮影現場に向かう車中で、名々瀬キッカがため息をついていた。

「……私なら、だって。ひどい言い方」

 スマートフォンを取り出してウェイカーを眺める。

 大量の通知。新しく増えたフォロワーの一覧を眺めてみる。本名を名乗るアカウントのほうが少ないのだから、だれがそうか、なんてわかるわけがない。


 八頭司ルアがウェイクウィンクに投稿している動画をシェア。

 どんなコメントをつけようか、考えていた時……

「……いいこと、思いついちゃったかも」

 キッカはくすりと微笑み、ごく短い文章を入力し始めた。

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