第2条第6項 出向その2

 ケイとのボルダリングは2時間30分に及んだ。

 ツトムは彼女から手ほどきを受けながら、初心者用のルートに挑戦し、何度か失敗をしながらも、多少の自信をつけることができる程度にはボルダリングを楽しんだ。

 もっとも、その後ケイが恐ろしく高い場所まで悠々と登っていく姿を見せられて、格の違いと、日ごろの鍛錬の必要性を感じたりもしたのだが。


「もう、そんな時間か」

 出向終了の時間が来ると、ケイはあのハスキーボイスでそう言ってくれた。

「もう少し、成長を見ていたかったけど。機会があったら、別のトレーニングにも付き合ってほしいな」

 ツトムはかしこまって何度も頭を下げながら、その場を去ることになった。

 恐ろしいことに、ルアの立てたスケジュールは、一日で3か所の出向先を巡るものだ。

「同じ絵ばっかり続いたら、視聴者も飽きるでしょ?」

 ……と、いうことらしい。


 そして、16時。

 合渡の運転する車で移動した先は、広々とした作りの道場だ。

 木造の天井と床。カラフルに色付けされた畳が敷き詰められている。

 数十人は同時に使えそうな広々とした空間にいるのは、今は3人だけだ。

 一人は、胴着と袴に着替えたツトム。真新しい生地はひやりとして落ち着かない感触だ。

 一人は、先ほどと同様にタブレットを構えて、生配信している合渡。


 そして、もう一人はツトムよりもさらに小柄な女子。

 着慣れた雰囲気の白い胴着と黒い袴。ぴしりと背筋を伸ばし、長い髪をまっすぐに後ろに垂らした姿は、見た目よりもさらに幼く感じられる。

「ルアが好きなように使ってええって言うてたから、ウチとこの道場の宣伝させてもらおうと思ったんやけど……」

 頬に指をあてながら、ウメがゆったりした口調でしゃべりだす。


「さっきの配信、見とったよ。あんなに体動かしたあとで、また稽古いうのも、かわいそうや」

「は、はい……お手柔らかにお願いします」

「せやねえ。稽古の基本は肉体鍛錬と精神修養や」

 ぴっと立てる指の先まで健康的だ。

「は、はあ。つまり……」

「体の次は心を鍛えるってことよ」

 そして、その指を振り下ろして、床を指さした。


「座禅や」



   📖



 無音の時間。

 どこか遠くで聞こえてくる車の音が、ますます静寂を加速させる。

 ツトムはあぐらをかいて座り、その向かいには同様にウメが座っている。

「……あ、あの」

 見よう見まねで座っているが、さすがに向けられたままのタブレットで、無言で座っているところが延々流されているのは、あまりに退屈なのではないか、と思ったのだ。

「さすがに、何かしゃべったほうがいいんじゃ……」


 ちらりと、ウメが片目を開ける。またしばらくの間があってから、

「そしたら、ツトムくんにも説明するから、聞いといてや」

 身じろぎ一つせず、ウメは再び目を閉じる。名前と同じ色の唇がゆっくりと動いて、言葉を紡ぎだした。

「座禅は、単なるスピリチュアルな儀式やあらへん」

 ツトムも彼女をまねて、両目を閉じた。耳に届くウメの声は、甘い響きを持ってこそいるが、芯が通った力強さも感じさせる。


「リラックス効果、って言うても実感しにくいけど、人間、自分の内側に意識を向けることってあんまりないやろ? 内側って言っても、記憶や思考にハマったらあかんで。座禅中は、自分の体を意識するんや。背筋を伸ばして、自分の体についてる筋肉をちゃんと自分が動かしてることを感じる。次は、呼吸や。普段は別に意識して吸ったり吐いたりしてないやろうけど、座禅中はそれを意識してやるんや。ゆっくり息を吸って、ゆっくり息を吐く。普段は何にも考えへんとしてることやけど、意識してやろうとすると、案外うまくいかへん。それを、自分の意識でやるまで続けるんや。そうすると、精神と肉体が一体になる。その状態こそ、意識を内に向けてるってことなんや」


 ゆったりしたウメの口調は、非常に聞き心地がいい。

 聞き心地がいいので、ツトムはその言葉の内容を半分も理解せず、耳なじみのいい音楽のように感じていた。

 ……というか、ボルダリングで疲れ切った体は、座ってゆっくり呼吸していると、徐々に温かくなってくる。

 この感触を、ツトムはよく知っている。

 眠いのだ。


「雑念を振り払うっていうのは、そういうことや。何にも考えない状態ってことやなくて、自分の体と意識を一体化させる。自分の体のどこにどんな風に骨があるか、ちゃんとイメージしたことって、案外ないやろ? まずは骨、その内側にある五臓六腑、骨の外についとる筋肉、肌、毛の一本まで、自分の肉体をイメージ、つまり意識する。意識っていうんは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識とは別に働く、その人自身のすべての感覚のまとまりや。座禅を通じて、自分の身体を通じて意識を、意識を通じて身体をる。そうすると、外界に惑わされへん本来の自分を素直に感じられる。それを、リラックスっていうてるんや」


 そこまで、ウメが語るころには、すでにツトムは「正しい姿勢」どころか、頭を重たそうに垂れ、こっくりこっくりと船を漕いでいた。

「……聞いてはる?」

 こっくり。こっくり。

「……それがキミの正しい姿勢?」

 こっくり。こっくり。

 あきれたように息をつくウメは、仕方ない、とばかりに、膝立ちになってツトムの耳元に顔を寄せた。


「……ウチのパンツ、見たやろ?」

「っ!?」

 視聴者には聞こえないよう囁かれたその言葉に、一瞬で血の気が引いた。

 真っ青になった顔を上げて、どっと冷や汗を浮かべながら、白黒に点灯しそうな目でウメを見返した。

「おお、一気に目ぇ覚めたね。でも、雑念にとらわれたらあかんで」

 くすくす笑いを浮かべながら、ウメが足を組んで座りなおす。


「今の、みんなに聞かれたくなかったら、もう寝たらあかんよ」

「は……はい……」

 背中にじっとり冷たいものを感じながら、ツトムは声だけで答えた。

 もちろん、リラックスなどまったくできなかったのは、言うまでもない。



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「そぉ。いつもは、ルアちゃんと一緒にごはんを食べてるのね♡」

 18時30分。

 こざっぱりしたビルの2階にあるレストランで、ツトムは最後の出向先経営者……袖森リンカと向かい合っていた。

 オーガニック野菜をふんだんに使った料理は、いつもの家庭料理然とした臼井の料理とは、また違った味わいだ。


「え、ええ。業務がある時は……ですけど」

 簡素なシャツとパンツに着替えたツトムは、緊張しながらも答えた。それにしても、よく着替える日だ。

「業務があるときって、日曜日以外はずっと一緒ってことでしょ?」

「そ……そう、ですね」

 新しい生活が始まって2週間。

 考えてみれば、そのほとんどの時間をルアと一緒に過ごしている。


「羨ましいわ。ルアちゃん、とってもかわいいから♡」

「あ、はは……そ、そうですかね」

 休憩時間だから、今は配信はされていない。プライベートだ。にもかかわらず、ツトムの心は一切休まらない。

 ……というのも、今日もリンカは胸元を大きく開けて深い谷間をさらし、そこに描かれたフェイクタトゥー……フクロウの大きな瞳がまっすぐにツトムを見つめていた。


「気になる?」

 ツトムの視線に気づいたのだろう。いたずらっぽく問いかけられて、慌てて首を振る。

「い、いや、その……す、すごいなと思って。ご自分で……描いてるんですよね?」

「そう。顔だけじゃなくて、体へのメイクもしてるの♡ 私自身がメイク技術を配信するのが、一番の宣伝になるから」

 にっこり笑顔で答えるリンカ。同じ高校生とはおもえない雰囲気だ。ましてや、制服姿ではないからなおさらである。


「ちゃんと、下まで描いてあるのよ」

 胸元を示して見せながら、リンカがつぶやく。

「そ……そう、なんですか」

 示されると、自然と目を向けてしまう。目を向けてしまえば、思わずその質感を想像してしまうのが本能というものである。

 大きい。ルアと同じくらいか、もしかしたらもっと。深い谷間は、ツトムの指くらいなら飲み込んでしまいそうだ。


(……って、何考えてるんだ、ぼくはっ!)

 慌てて首を振るツトムを、リンカは楽しそうに眺める。

「……見たい?」

「へぅっ!?」

 突然の問いかけに、思わず口に含んでいた紫キャベツを噴き出してしまう。

「ふふ、冗談よ♡ もっと仲良くなってから、ね」

 白い肌と見事なコントラストを描く赤い唇が楽しそうに弧を描く。


「な、仲良くなったらいいってものでもないです……」

「そうかしら。私は、私の美しい身体を人に見せて上げたいくらいだけど」

「も、もう、冗談はやめてくださいよ」

 視線を逸らすツトム。リンカはそれ以上追及せずに、メニューに視線を落とす。

「次は、牛肉のタリアータ。肌も髪の毛もタンパク質でできてるんだから、肉料理もたくさん食べないと、ね?」

「そ、そうですね……」

 タリアータというのがどういう料理なのかはわかっていなかったが、彼女が並の人物でないことは、ツトムにもわかってきた。



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「じゃ、脱いで♡」

 19時30分。レストランと同じビルにある撮影スタジオにツトムを連れてくるなり、リンカはそういった。

「は、はい?」

「言ったでしょ。実際に私がやって見せるのが一番の宣伝だって」

「め、メイク配信……ですか。でも、僕に?」

 すでに、合渡がタブレットのカメラを起動している。ツトムは映りがよさそうな白布の前に立つように指示された。


「上だけでいいわよ♡」

「わ、わかってます」

 と、答えたはいいものの。さすがに、何人が見ているのかもわからない配信中の画面の中で、自分がシャツを脱ぐ姿が大写しになるのを想像すると、なかなか手が動かない。

(……インセンティブ手当のため。そ、そうだよ。メイド服を見られるよりはましだ……!)

 強引に自分を納得させて、シャツのボタンを外していく。


「まだまだ、これから、ね」

「し、仕方ないじゃないですか」

 細身で、筋量の少ないツトムの身体を眺めて、リンカがつぶやいた」

「一枚、撮るわよ。ビフォーアフターがわかるように」

 リンカがデジタルカメラを向ける。どうしていいかわからずに棒立ちのツトムが撮影された。


「……ど、どうするんですか?」

「ボディメイクよ♡ ツトムくんの身体が引き締まって筋肉質に見えるように陰影を描いたり、ラインを作ったりするの」

 がちゃり。

(……がちゃり?)

 てっきり、様々なメイク小道具を取り出すのだろう、と思っていたツトムの予想を大きく超えて、リンカは工業製品に使うようなエアブラシを取り出した。


「そ、それ、どうするんですか?」

「まずは引き締まって見える肌色をつけるわ♡ ゴーグルとマスクをつけてね♡」

「こ、これ、ちゃんと落ちます?」

「へーきへーき♡ 2時間しかないから、効率重視でいくわよ♡」

 かくして……

 ツトムの身体が稀代のメイクアップアーティストによってもてあそばれる姿が、ウェイクウィンクを通じて広く配信されることになった。


 ちなみに、荒生はこの日、一度も静止をかけることはなかった。

「本人の意向を無視した、といえるほどの状況はなかった」という判断である。

 言い換えれば……

「ツトムくんも、けっこう楽しんでたみたいだから」

 こうして、長い土曜日は幕を閉じた。

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