第1条第8項 就業規則
アロー法律事務所の応接室には熱気が立ち込めてきていた。
熱の発生源は、主に弁護士の荒生だ。
ただでさえ例外的な契約の上に、雇用者も、被雇用者も未成年だ。代理人の立場もあり、目のまえで法令違反の契約を交わされてはたまったものではない。
そしてもちろん、「借金のカタに言うことをきかせる」なんてことを言う世間知らずのお嬢様(少なくとも、荒生はそう思っている)に労働契約について思い知らせてやろう、というつもりだ。
「就業規則については、もちろん作成してありますね?」
「当然でしょ。うちをなんだと思ってるのよ」
「念のため、確認しただけです」
荒生の、いくらかトゲのある語気が伝わるのだろう。ルアも腕を組み、防御姿勢を作るように胸をそらして見せる。
「就業規則……と、いうのは?」
「いい質問ね。知らないものを確かめておくのは、契約ではとても大事よ」
一転して、ツトムの質問には笑顔である。弁護士らしいといえばらしい態度だ。
「『労働基準法』、および『労働契約法』には以下のように定められています」
『労働基準法 第89条
常時十人以上の労働者を使用する使用者は、(中略)就業規則を作成し、行政官庁に届け出なければならない。(中略)変更した場合においても、同様とする。』
『労働契約法 第12条
就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については、無効とする。この場合において、無効となった部分は、就業規則で定める基準による。』
「その使用者がどのように労働をさせるか、労働条件や遵守事項についてまとめたものです」
「でも、労働条件はさっき、決めましたよね? 時間とか、賃金とか……」
「そう、いいところにきづいたわね」
ツトムは、向かいの席に座っている八頭司ルアが不機嫌そうに髪をいじっているのを感じていた。しかし、あまりに荒生が調子よさそうに喋るので、そのスタッカート気味の語りを止められなかった。
「就業規則は、労働の『最低条件』を定めたものです。もし個別の契約と就業規則に差異があれば、契約の方が優先されるわ。でも、契約においても、就業規則より悪い条件の契約はできません」
「言っておくけど、ほかの従業員に比べて不利益な契約ではないわよ。まあ、特別高給ってわけでもないけど」
「それをツトムくんが自分で確かめられなければ、意味がありません。『労働基準法』106条に基づき、使用者は就業規則を従業員に周知する義務があります」
ふたりの間に、ぴりりとした空気が流れた。
「ツトムくんも、覚えておいて」
縮こまっているツトムの肩を、ぽんとたたいた。
「あなたが労働契約の当事者なのよ。この契約はおしつけられたものでも、ましてや相手の言うことをすべて引き受けなければならないものでもないわ。だから、不満があれば確認すること」
「不満……ですか」
荒生は大きくうなずいた。
「あなた以外に、あなたの契約の不備も不満も見つけてくれる人はいない。そして、契約したあとより、先に意思を表明した方が、修正はしやすいのよ」
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後部座席のシートベルトを締めたことを確認して合渡が車を発進させる。
その途端、ルアが青いファイルをツトムの胸元へ差し出した。
「就業規則よ」
「は、はい」
両手で受け取り、ファイルを開く。閉じられた紙束は、両面刷りで20枚ほど。つまり、40ページほどだ。
「初日からいきなり仕事が始められるほど単純な作業じゃないんだから、まずは職務を理解してもらうわよ。内容がわからなければ聞くこと」
「はい……け、けっこう、多いですね」
いきなりこれだけの量をすべて理解しろ、と言われると、なかなか気が重い。
「今日の業務時間はそれに使っていいわ。5時間だから、17時まで、ね」
車はのんびりと、しかしあまり停車せずに進んでいく。
ツトムは荒生の言葉を思い出しながら、じっと並んだ文字に目を向けていた。さいわい、合渡の運転は静かなもので、揺れはほとんどない。車酔いの心配はなさそうだ。
ルアはタブレットを取り出し、
車内が沈黙に包まれる。ツトムがページを繰る音がやけに大きく思えた。
「ほかの従業員は土日休み、なんですね」
「合意に基づいて変更する場合がある、と書いてあるでしょ」
タブレットに目を向けたまま、ルアが答える。確かに但し書きがされている。ツトムの土曜出勤も、規約違反ではなさそうだ。
「私は平日に学校に通ってる分、土曜につみあがっているタスクを消化してるの。だから、秘書であるあなたも土曜にいてくれた方がいい。問題ある?」
聞かれて、ツトムはしばらく考えた。
「……いえ、わかりました」
「よろしい」
就業規則には様々な内容が書かれていた。
休暇のこと。採用と退職のこと。安全と健康を維持するよう、従業員と企業が努力すること。ツトムに関係ありそうな内容もあれば、どれだけ関係あるのか、すぐには判断がつかないものもあった。
「機密保護……」
項目名を、ぽつりと読み上げる。
「秘書業務には、私充てのメールや書類を確認することも含まれるわ。あなたはわが社のほとんどすべての情報にアクセスできる」
「は、はあ」
それがどれだけ重大なことなのか、すぐに想像できるほど『情報』について考えたことがないのも事実だ。
「サービスの開始時期、プロモーションの内容、従業員や顧客の個人情報……どれも、やりようによっては数百万……ううん、一千万円以上のお金に変えられるわ」
「そんなに、ですか」
「1億2000万の負債ほど、大きな問題じゃないけど」
「あ、あはは……」
思わず苦笑いを浮かべるツトム。ルアは、ふう、と小さく息をつき、どことなく挑発的な笑みを浮かべた。
「あなたが変な気を起こさないように、給与を払ってるのよ。目の前の数百万と、私からの信用、どっちが価値があるかぐらいは、見分けられると信じてるわ」
信用。
その一言が、やけに重く胸に響いた。
経営者である彼女が、同じ車の隣に座らせ、数百万にも変えられる情報を自由に見せる立場につかせるという。
それだけ信用されるほどのものが、自分にあるのか。
今更ながらに、荒生に任せていた労働交渉の重みがわかってきたような気がした。
(この人は、いったい何を考えてるんだろう?)
就業規則から顔をあげ、ルアの横顔を盗み見る。
労働交渉の際は顔を突き合わせていたが、今は隣に座っている。そういえば、朝はその横顔を見る余裕もなかった。
(……きれいな人だ)
白い頬に明るい色の髪がかかり、ことさらミステリアスに見えた。
その頭の中で何を考えてるのだろう。考え方の根本から、自分とは違うんじゃないかと思えた。
ふいに翠の瞳が動いて、こちらに向けられた。
「あっ……!」
一瞬の見つめあい。ツトムの胸がゴムで思い切りはじかれたように、大きく跳ねた。実際に、背すじに大きな緊張が走り、座席に思い切り背中を押しつけて顔をそらす。
「す……すみません」
「謝られるようなこと、されてないけど」
その反応を面白がるように口元に手を当て、雇用主が目を細める。
「いや、その……つ、つい」
つい見とれてた、とは言えず、口をぱくぱく動かす。言葉が追いつかない。腹話術の人形みたいだ。
そんな様子を気にしたふうもなく、ルアは自分のシートベルトを外す。
「着いたわよ。早く降りなさい」
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