第1条第3項 意思

『労働基準法 第17条

 使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。』


 荒生が暗唱してみせた言葉の羅列がなにを意味しているのかわからず、ツトムは口をぽかんと開けたまま聞いていた。

「つまり、借金を理由に労働を強制することは、違法行為にあたります」

 テーブルの上に出された「労働契約書」を指さし、ぴしりと言い放った。


「……そうなの?」

「そうなりますな」

 腕を組んだままのルアが、後ろに控えた合渡に視線を送る。老人は、今までと変わることなくうなずいた。

「どうして言わなかったのよ」

「お嬢様が楽しそうでしたので」

 あっさり答える合渡に、ルアは「まあね」とうなずいた。


「たしかに、借金を盾にしてあんなことやこんなことをさせる計画をノート3冊分作るのは楽しかったわ。人生でも指折りの充実した時間だった……」

 何やら壮大なプロジェクトがすでに用意されていたらしい。

「それじゃ、私が彼を雇うことはできないってこと?」

 さらりと切り替えて、少女が荒生に向き直る。どうやら、あきらめてはいないらしい。

「いいえ。結論から言えば、双方の合意が交わされていれば可能です」

 荒生の目もとの光がますます強まっていく。


「労基法17条の目的は、労働者の『職業選択の自由』を守ることにあると考えられます」

「その労働者って、ぼくのこと、ですか?」

 おそるおそる問いかけるツトムに、荒生は大きくうなずいた。

「その通り。法律では、雇う側を『使用者』、雇われる側を『労働者』と呼びます」

「じゃあ、この場合、使用者は……八頭司さん、ってことですね」

「ルアよ。労働契約が成立すれば、そうなるわね」


 整理すると、労働者であるツトムと、使用者であるルアが労働契約を交わせば、正式に雇用関係になる、ということだ。

 しかし、今の契約内容には問題がある、と、荒生は指摘しているのである。

「職業選択の自由は、『労働者が自由に退職できるか』によって判断できます。債務があるからと言って強制的に働かせる状況は、これを侵害していると考えられます」

「でも、1億2000万なんて額、多少無理をしないと返済できないんじゃなくて?」

「どうやって返済するかはその債務者本人が決めることです。確かに、あなたには借金を取り立てる権利があるけど、それはあくまで『返済を要求する権利』であって、『返済のために働かせる権利』ではありません」

 弁護士の口調は、スタッカート気味に口早だ。口ぶりから察するに、相当にこの提案が腹に据えかねていたらしい。今更ながら、恐ろしい契約を迫られていたのだ、ということが、ツトムにもようやくわかってきた。


「さっき、合意があれば可能、って言ったじゃない」

「あくまで、ツトムくんが合意した場合のみ認められる、と言ったんです。たとえば、彼がやりたくないことをあなたが強制した場合、ツトムくんには即座に契約を打ち切ることも可能です」

「それで困るのは本人じゃない?」

「ツトムくんが、たとえ借金の返済ができなくなるとしても従いたくない、と思ったのであれば、法律は全力で彼の内心を守ります」

「……そのあと、私の債権も守ってもらうけど」

「それとこれとはまったく別の権利だ、ということがわかっていただけたみたいですね」 口元にしっかりと笑みを浮かべる荒生。さすが専門家、というところか。


「ええと、つまり……どういうことですか?」

「ツトムくんは、借金があるからと言って、八頭司さんの言いなりになる義務はないわ。もし彼女と契約したとしても、他にやりたいことが見つかれば、いつでも退職ができる」

「たとえば、犬のマネをしろ、と言われてもやらなくてもいいってことですか?」

 荒生が大きくうなずいた。

「えっ、それダメなの?」

「一般的には、名誉を大きく損なう命令ですな」

 向かい側の主従は何やら不満そうだが、とにかく、法律上はやらなくていいらしい。


「でも、彼が納得して働く分には問題ないってことでしょ?」

「もちろん、ツトムくんがあなたと合意を取り交わし、自分の意思で雇用されている限りは違法にはなりません」

「……なら、給与に関する合意を得てから、そのうちどれだけの額を返済に充てるかも交渉をしろ、ということね」

 荒生がふたたび、大きくうなずいた。

「彼の現在の保護者代理として、私も立ち会わせていただきます」

「いいわ。私が、この八頭司ルアが、素人の無知に付け込んで一方的に契約させたと思われるわけにはいかないもの」


 大きく胸を張ってみせるルアに、荒生は今が好機、とばかりに次の手を打った。

「では、交渉をはじめましょう。まず、労働基準法第56条に基づき、ツトムくんの雇用は4月1日以降、ということになります。また……」

 こうして。

 事務所の一室で、日が暮れるまで続く交渉が始まった。



   📖



 数時間ののち。

「……こ、こんなところね」

 ほつれかけた髪を手櫛で直しながら、ルアがうめいた。数時間にわたり、いくつもの項目について追及を受け、交渉し、労働契約の文書を修正し続けたのである。疲労の色は濃い。

「いいでしょう。のちに問題があった場合はまた交渉の場を設けてもらいます」

 一方、荒生にはまだ余裕があった。プロゆえか、それとも基本的に問題点を追及する側だったおかげか。ますます元気になったような印象さえ覚える。


「ええ、と」

 そして、ツトムはルア以上に疲れ切っていた。

 自分の労働条件について話しているのはわかっているのだが、ややこしい議論や法律の話についていけず、ほとんどを上の空で過ごしていた。それでも、緊張がほぐれるわけもなく、終始かちこちに固まったままこの数時間を過ごしたのである。疲れる、なんてものじゃない。

「なんだか、だいぶ話が進んじゃったような……」

 目のまえのテーブルには、荒生の追及によって修正され続けた労働契約書が置かれている。

 あとは、ツトムがサインさえしてしまえば契約成立、という状況になっているわけだ。


「……少し休憩にしましょう。ツトムくん、こっちへ」

 荒生が立ちあがり、応接室の外へ手招きする。ツトムはめまいを起こしそうな頭を押さえながら、そのあとについて行った。

「砂糖は?」

「はい?」

 不意に聞かれた質問の意味が分からずにききかえすが、彼女の手の中にコーヒーポットが握られているのが見えた。

「……お願いします」


 コーヒーの香りが、狭い事務所に広がった。ルアの甘いシャンプーの香り(だと思う)に慣れた鼻の緊張をほぐすかのようだった。

 砂糖入りの濃いコーヒーを口にする。ほう、と思わずため息が漏れた。

 荒生は熱そうなコーヒーを一気に半分ほど口に流し込んでから、唐突に、

「断っていいわよ」

 そういった。

「でも、あんなに時間をかけて直したのに?」

 思わず問いかえすツトムに、荒生ははにかむような笑みを浮かべる。


「つい、楽しくなっちゃって。やりすぎたわ」

「ええ……」

「とにかく、ここまでの話は、あなたと彼女が交渉をするための最低限の部分を決めただけ。私と彼女の労力は、あなたが彼女と契約したいかどうかってこととは関係ない」

 パンツスーツの弁護士が、改めてツトムに目を向けた。

「法律の世界で、最も重要視されるものが何かわかる?」

「え……ええと、罪と罰、とかですか?」

「刑法は、そうかも。でも、私の専門は民事だから、あえて言わせてもらうわ」


 そして、荒生は自分の目の下あたりをゆびさした。

「意思よ」

「意思?」

「すべての契約は、互いの合意によって成立する。つまり、二人が契約したなら、その二人が同じ意思を持っていることを表している」

 告げる荒生の口調は、スタッカート調だ。どうも、気分が乗ってくると早口になるらしい。

「あなたがあなたのやりたいことを偽ったら、法律は明示した方をあなたの意思としてみなすわ。だから、重要なのは『自分がどうしたいか』。そしてそれを、はっきりと伝えること」


 この時、ツトムには荒生がなにを語っているのか、よくわかっていなかった。

 ただ、はい、はい、とうなずいていた。

「これからの、あなたの長い人生のためのアドバイスよ。『意思を伝える』ことが、何より大事。どんなに自分勝手に思えても、互いの自分勝手をまとめるのが交渉であり、合意であり、契約だから。……わかった?」

「ええと、たぶん」

「それじゃあ、あのお嬢様にあなたの意思を伝えましょう」

 荒生がほほ笑み、ツトムはしばし考えてから、うなずいた。


 ふたりが応接室にもどってきたときも、八頭司ルアは相変わらず満面に自信をみなぎらせていた。

「それじゃあ、答えをきかせてもらいましょうか」

 女子高生社長の最後の問い。ツトムは彼女の前に腰を下ろし、修正された労働契約書を見つめた。

「ぼくは……」

 そして、15年の人生の中で、最も重大な決断を下した。

「契約します。働かせてください」

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