第1条第4項 労働時間
そして、4月が来た。
カーテンの隙間から注ぎ込む陽光が、目覚まし時計よりも早くツトムの目を開かせた。
「うぅん……」
まだ、頭が重い。3月のあの「労働契約」から、またいろいろな手続きをしたり、書類を書いたり、説明を受けたり……とにかく、やることはたくさんあった。
昨晩も、あのお嬢様……八頭司ルアから送られてきた「就業規則」とやらを、頭痛がしそうな心地で読んでいた。
何もかも、慣れないことばかりだった。
顔を洗い、歯を磨いて、作り置きのサラダとトースト、ベーコンエッグの簡単な朝食をとる。
ここまでは、今までの生活と変わりない。だが、今日は入学式であり、そして勤務初日でもある、ということになる。
(今日から、新しい生活……)
新生活。いままでとは何もかもが違う。
冷蔵庫の中で冷え切ったサラダの、豊富な食物繊維を口の中で噛み切りながら、ぼんやりと窓の外を眺める。と、ピカピカに磨き上げられた車が近づいてくるのが見えた。
唐突に、頭の中にルアから告げられた言葉が思い出される。
『最初のうちは、学校まで送ってあげるわ。迷子になられて私の評判が下がるのも困るし』
「は、早すぎっ!」
あわてて朝食の残りをかきこみ、流しに食器を放り込んで、ツトムは立ちあがった。
📖
「この私を待たせるなんて、いい度胸ね」
ツトムが車に乗り込むなり、後部座席で隣にいるルアが言った。
「こんなに早くいらっしゃるとは思わなくて」
「余裕をもって行動するのは社会人の基本でしょ? 今日からわが社の従業員になるんだから、自覚を持ってほしいわ」
「す……すみません」
うなだれるツトムをよそに、合渡がしずかに車を発進させる。
新品の制服は、ツトムの体格に対して少し大きめだ。もう少し背が伸びるかもしれない、という期待をもって選んだのである。それでも、なんだか着慣れなくて、体がこわばるような心地がした。
「お嬢様が若倉様に会うのを楽しみにしすぎて、5時には準備を整えていたもので」
「なっ……! い、言うなって言ったでしょ!」
ルアの整った顔が急激に赤く染まり、きっとツトムを睨みつけた。
「ま、まあいいわ。まだ業務は始まっていないんだし。今は、あなたが1年生、私が2年生、同じ学校に通う先輩と後輩ってことね」
「先輩、ですか」
「はっう!」
突然、ルアが胸をおさえて苦しげにうめいた。
「ど、どうしたんですか?」
「ルアよ。そう呼びなさい!」
息をあらくしながら、有無を言わせぬ口調で叫ぶお嬢様。
何が何だかわからないが、いまはまだ就業時間ではない、と言われても、ツトムにとって彼女は雇用主だ。おいそれと逆らうわけにはいかない。
「る、ルアさん?」
「さっきのを!」
「る……ルア先輩」
「くはぅっ!」
今度は両手で顔を覆って、苦悶とも歓喜ともとれない声をあげる。
「あ……あるわね」
「ほ、本当にどうしたんですか?」
「満喫されているところですので、どうかお気になさらず」
車体をぴくりとも揺らさない見事な安全運転をつづけながら、合渡がしずかな声で言った。こういうことにも慣れているのかもしれない。
「そ、そうおっしゃるなら、いいんですけど……」
「今のは、あまり多用しないように。私への負担が大きすぎるわ」
ルアはふくよかな胸をおさえていた。呼吸を落ち着けたらしい。
「業務中と業務外で切り替えるのも面倒だし、『ルア様』でいいわ」
「さ、様、ですか」
「何よ、文句ある?」
「いえ……わかりました、ルア様」
「くっ……! で、でもこれくらいなら、耐えられる……!」
なぜか重心を落としてぶるぶる震えているルアを不思議そうに眺めながら、ツトムはあの日の「労働交渉」を思い出そうとしていた。
📖
「まず、労働時間および休日について決めましょう。ここを適当に済ませるわけにはいきませんから」
荒生は交渉をそう切り出した。
「労働時間、および休日についての原則は、次の通り定められています」
『労働基準法 第32条
使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。』
『同 第35条
1 使用者は、労働者に対して、毎週少くとも一回の休日を与えなければならない。
2 前項の規定は、4週間を通じ4日以上の休日を与える使用者については適用しない。』
「第36条の定めにより、労働組合との合意があれば、週40時間以上の労働、いわゆる時間外労働を指示することもできます」
「
交渉が始まったばかりでまだまだ元気だったルアに、荒生がうなずく。
「そう。ただし、第60条にてこう定められています」
『労働基準法 第60条
第32条の2から第32条の5まで、第36条及び第40条の規定は、満十八歳に満たない者については、これを適用しない。』
「32条の2から5は変形労働制などの労働時間の例外を定めたもの。40条は特別な事業に関しての例外を定めたものです」
「つまり、どういうことですか?」
「ツトムくんは15歳だから、時間外作業や休日出勤をさせてはいけない、ということよ」
ツトムもまだ、自分が働くことについて、あまり実感を持っていなかった。だからこそ荒生が保護者として交渉に参加しているのだが。
「八頭司さんは、ツトムくんを学校内でも働かせるつもり、ですね?」
「ルアよ。私のビジネスは私の就学中も進行しているもの。秘書として働くなら、私が学校のなかにいる間も働くことになるわ」
「はっきり言うと、それは認められません」
荒生はこれまで以上に強い口調だ。
「どうしてよ。学費については、こっちでもいくらか負担するつもりよ」
「それでも、です。お金の問題ではなく、権利にかかわります」
『日本国憲法 第26条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。』
「つまり、ツトムくんが誰のおかげで通学していようと、教育を受ける権利はツトムくんのものです。就学時間内に八頭司さんにどんなトラブルが起きようと、ツトムくんを従わせるのは違法どころか違憲です」
「……つまり、学生として授業を受けている時間は就業させるな、ってこと?」
「就業させてはならない、ということです」
ルアが、額を押さえて大きく息をついた。
「また、第61条では午後10時以降の深夜労働も禁止されています。なので、あなたがツトムくんに対して業務を命じることができるのは、学生としての活動が終わる午後4時から10時までの6時間、ということになります」
「そ、それだけぇ?」
思わず語尾を上げるルア。だが、荒生の表情は涼しいものだ。
「ツトムくんの年齢を考えれば、夕食を取るために1時間ほどの休憩も与えるべきでしょう」
「ぐぅう……」
ルアののどから、甲高いうなり声。
「ま、まあいいわ。この程度で私の夢、自由に使える下僕、じゃなかった、従業員がいる学園生活をあきらめたりしない!」
政治的に正しい表現に言い直しているが、その『従業員』候補を目の前にしてなかなか言えるセリフではない。
「さっき、一日の労働は8時間、休日は週1回が原則、って言ってたわね」
「言いました」
「なら、月曜から金曜に一日5時間、合計25時間に加えて、土曜日に8時間勤務を命じるのは基準範囲内ってことよね?」
「そうなります。もちろん、ツトムくんが合意すれば、ですが」
ふたりの視線が、黙って話をきいていた少年に一斉に向けられた。
「ど、土曜日、ですか」
もちろん、貴重な休日をつぶされたくはない。しかし……
「週25時間じゃ、いつまで経っても借金が減らないわよ」
ルアのいうことももっともだ。ルアが提示しようとしている時給は相当高い。週25時間と33時間では、収入は大きく変わってくる。
しばらく考えたのち、ツトムはゆっくりうなずいた。
「それじゃあ、決まりね。平日は16時から22時、土曜は13時から22時。いずれも、休憩は18時半から19時半!」
交渉は、まだはじまったばかりだ。
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