第1条第5項 ぼくの時間給

 私立紫楼館しろうかん学院高校。

 3月までごく普通の公立高校に通っていたツトムでも、その名をきいたことくらいはある名門校だ。

 教育のレベルの高さはもちろん、上流階級の子女が通うことで知られている。

 ちなみに、ここで言う上流階級とは、ルアのように高校生でありながら億単位の年商を上げる上流階級も含む。


 都心からは離れた場所とはいえ広大な土地に、名前にふさわしい校舎がそびえている。

 合渡の運転で10分ほどの距離にありながら、自分には全く関わりのない世界だと考えていたその場所に、ツトムはいた。

「ごきげんよう、ルアさん」

 ルアが車を降りるなり、それを見計らったかのように数名の女子生徒が声をかけた。

 いや、たぶん見計らっていたのだろう。

「ごきげんよう」

 と、ルアが返事をすると、彼女らは幸せそうに頬を染めるのだから。


(この学校のなかでも、特別な存在なんだ)

 そう、感じずにはいられない。明らかに場違いな光景に、ツトムは思いっきりビビッていた。

 恐ろしく大きく、頑丈そうな校門を前に、車から降りるのがためらわれる。

 通ろうとしたら、赤いランプが光って締め出されるんじゃないか、という思いが脳裏を駆け巡る。

「ほら、ツトム。降りていらっしゃい」

 背すじに冷たい汗が流れる感触を味わっているツトムに、不意に声がかけられた。


「は? あ、は、はい!」

 自分が呼ばれているのだと気付かず、しばらく間を開けてしまった。

 あわてて車から降りようとするが、膝にうまく力が入らず、車高の段差で思い切りバランスを崩し……

「あっ……!?」

 通学かばんが高く浮き上がり、ツトム自身の体も大きくつんのめる。

 輝きそうなほどに手入れされたレンガ舗装の道が、スローモーションでツトムに迫り……


 その時。白い手が視界に割り込み、その体を受け止めた。

「あ、えっ……!?」

「危なっかしいわね。平気?」

 何が起きたのかわからず、混乱する少年の顔を、ルアが間近で覗き込んだ。

 その時、ツトムは初めて、朝の日差しの中で彼女の顔を間近で見つめ、長い睫毛の奥の瞳がエメラルドのようなみどりであることに気づいた。


「あ、の、えぇと……」

 ようやく、転びかけた体をルアに支えられているのだと気づいて、言葉を詰まらせる。

 今の態勢は不安定で、胴に回されたルアが力を抜けば重力のなすがままに地面に後頭部を打ち付ける態勢である。不用意に身動きを取ることもできない。

「あっ」

「えっ?」

 その時、不意にルアが声を上げた。何かを思いついた、あるいは思い出したかのような、明らかに場違いな声音だ。


「ほら、もっとしっかりつかまって」

 あくまで表面上は凛然とした態度を保ったまま、ルアの腕に力がこもる。

 抱き寄せられたツトムの体が、少女の制服に包まれてなお曲線を描く体に引き寄せられ……

(あ、当たってるっ!)

 胸のあたりに、柔らかいものが押し当てられる感触。身動きするたびに、2人の体の間で弾み、少年の細い体にはない弾力を伝えていた。


「ルア様、えとっ!」

 これまで以上に慌てるものの、身動きが取れない。ルアは16歳の少女としては身長が高い方だが、さすがに小柄とはいえ人ひとりを抱えるのは楽ではないだろう。

「大丈夫……よ、ふ、ふふ……」

 ルアの声は震えていた。……苦しそうというよりは、思いっきりにやけそうなのを押さえているようにも見えたが、とにかく震えてはいた。

 柔らかいものが押し当てられるたわわな感触から逃れようとすれば、すぐさま重力のなすがままに(以下略)である。

「る、ルアさん、大丈夫ですか?」

 経過はどうあれ、校門で抱き合う男女に、生徒たちは騒然となっている。あるものは心配そうに慌てふためき、あるものは黄色い歓声を上げている。


「平気よ、ほら、起こすわよ」

「ひ、ひゃい」

 固まっているツトムの体が、ぐっと力強く引き起こされる。

「す、すみません、その……」

 いきなりの醜態に、思わず下を向く。通学かばんを腰のあたりで抱えながら、赤くなった顔を戻そうと、必死に荒くなる呼吸を押さえ込む。

「いいのよ、私も堪能したから」

 一方、ルアの顔はどことなく満足げだった。この状況が、楽しくて仕方ない、というかのようだ。


「あの、ルアさん、その方は……」

 周りを取り囲むように集まってきた生徒の1人が、恐る恐る問いかける。

 ルアは、乱れた髪を手で整え、周りの生徒に見せつけるようにツトムを示した。

「新入生よ。そして、私のペット」

「ええっ!?」

「はいっ!?」

 その場にいる誰もが驚愕の声を上げた。中でも、ツトムの声はひときわ大きい。


「……って、言ってみたいけど、怖い弁護士がついてるから正しく言い直すわ。うちの会社の従業員として雇ったの」

「ルア様、そういう冗談はやめてください」

 校門をくぐってたった一歩で注目の的である。この上、おかしな噂をたてられてはたまったものではない。

「いいじゃない、顔を知られてれば、いちいち名乗らなくてラクよ」

 くすくすと上機嫌に笑う雇い主に対し、『従業員』は恥ずかしくて消えてしまいそうだ。


 道すがら、奇異の視線とひそひそ話に囲まれながら、ツトムは自分に言い聞かせる。

(お金のため。お金のために耐えるんだ……!)



   📖



「それじゃあ、いちばん大事な話をしましょうか」

 優雅に肘掛に肘をつき、頬をささえながら、ルアは続く交渉を開始した。

「いちばん、というと……」

「もちろん、給与よ」

 少女の、余裕に満ちた口ぶりとは反対に、ツトムは自分の緊張が増していくのを感じていた。

 生まれてこのかた、まともに働いたことなどないのに、いきなり自分がいくら受け取って働くかの交渉についているのだ。

 親がどれだけの収入を得ていたのかもはっきりわかっていないというのに、交渉などできるのだろうか? 不安は増す一方である。


「法律上の規則は?」

「給与……賃金については、『労働契約法』に、定めがあります」


『労働契約法 第6条

 労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する。』


 荒生が条文を朗読してみせると、ルアは口元に三日月のような笑みを浮かべてみせる。

「金額については定めがないってこと?」

「適正な賃金は、社会状況や景気、その他さまざまな条件で変動しますから、法律で固定的に定めるのは難しいんです。ただし、『最低賃金法』という法律で最低賃金が定められています」


『最低賃金法 第4条

 使用者は、最低賃金の適用を受ける労働者に対し、その最低賃金額以上の賃金を支払わなければならない。』


「最低賃金は、都道府県が随時制定するものです。また、最低賃金の算出は、時給で計算するのが原則です」

「その最低賃金は、月給にしていくらになるわけ?」

 好奇心の光を瞳に浮かべながら、ルアが問いかける。

「ツトムくんは週に33時間、つまり一日平均5.5時間の労働力を提供します」

 電卓を取り出し、片手で操作しながら、計算結果を荒生が書きだしていく。

「正確な休日は後で詰めるとして、およそ288日働くとすれば、ひと月あたりの平均労働時間は132時間」


 ツトムは複雑な表情でその計算を眺めていた。これから毎月、130時間以上もこのお嬢様の言いなりにならなければならない、という前提での計算だ。

(漫画みたいに、地下に閉じ込められて働かされる、よりはマシかもしれないけど……)

 でも、どんなわがままを言われるか分かったものじゃない。それに対して、いくら払ってくれるのかも。

(荒生さんが、できるだけ高い額を引き出してくれたらいいけど)

経験も知識もない少年としては、交渉を見守ることしかできない。自分のことだというのに、歯がゆかった。


「東京都の最低賃金は958円(※注)ですから、最低賃金は……126,456円、ですね」

「そ、それだけですか?」

 思わず、裏返った声をあげてしまった。借金は1億円以上あるのに、自分が得られるお金は10万円ちょっと。返済に何年かかるのか、計算するのもバカらしい。

「それだけの額を出せば、働かせることができるわけ?」

「そう……なります。法律上は。ですが、八頭司さんが提示している作業内容が多岐にわたることを考えれば、最低時給にいくらかの上乗せは必要なはずです」

 荒生はツトムの労働条件をよくしようとはしてくれているが、その言葉遣いはいくらか苦しげだ。条文を読み上げるときのスタッカートな語調も鳴りを潜めている。


「いいでしょう。合渡、ペンを」

「はい、お嬢様」

 無効になった労働契約書を裏返し、砂糖菓子のようなきめ細やかな指が、細かい意匠が凝らされたペンを握った。そのまま、さらさらと金額を書きつける。

「これでどう?」

 そして、その紙をツトムの顔の高さに掲げて見せる。

 文字通り、白紙にされた紙に新しく書かれた数字は、こうだ。


『¥303,600/月』


 少女の性格を表すように、紙の幅いっぱいにまで大きく、しかししっかりとした筆跡だ。まるで、文字ですら「聞き逃すな」と主張しているかのように。

「これって、その……た、高い? です、よね?」

 両手でその紙を受け取る。数字から実感がわかないのだが、荒生が先ほど計算した最低時給の3倍に相当する額だ。

「ちょ、ちょっと待って。時給にして2300円? 大学院卒業程度の初任給よりずっと高いですよ?」

 荒生の声が震えている。安くこき使うつもりだろうと思っていたのに、それをはるかに超える額が提示されたからだ。


「私は1億2000万の負債を抱えているのよ。年利1.5%としても、年間180万は回収しないといけないわけ」

 ルアの厳しい口調に、ツトムは父の顔を思い浮かべそうになってあわてて打ち消した。

「賞与を考慮に入れても、これぐらいは稼いでもらわなきゃ。もちろん、3年間は利息にあてて、卒業後にはもっと働いてもらうけど」

「そ、それは、でも……」

 ふたりのやり取りをきくに、相当に不釣り合いな額が提示されているらしい。

 何かの間違いではないかと、思わずルアの顔を見る。

「これだけ払ってるんだから無茶なことをさせようっていう……つもりですか?」

 ツトムの質問に、少女が憮然とした表情を浮かべた。明らかに、機嫌を損ねている。


「いいこと?」

 腕を組み、背すじをのばしたままのルアが一段声を低くした。

 凛然、と呼ぶにふさわしい表情だ。

「この私が、八頭司ルアが、雇いたいって思ったの。その気持ちを安く見積もることは誰にも許さないわ」

 そして、肩をすくめる。

「まっ、私の余裕を増やすための仕事なんだから、これでも安すぎるぐらいだけど」


 そうして、自信に満ちた笑みを浮かべて見せる。

(本気だ)

 その顔には、からかおうという意思はまったく感じられなかった。

(じゃあ、本気で、この人は、ぼくの1時間に2300円払ってくれるって?)

 体が熱くなってくる。自分の時間にどれだけ価値があるのか考えたこともなかった。人に「自分の価値」を語られたのは初めてだった。


「さあ、私の意思は提示したわ。合意する気はあるかしら?」

 この時初めて、ツトムは感じた。

 運命の相手がいるとしたら、自分の時間をいちばん高く評価してくれる人だろう、と。






(注:本ページにおける最低賃金は、平成29年12月6日現在のものです)

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