第1条第2項 それ、違法ですよ

 法律事務所をパーテーションで区切って、向かい合わせにソファを置いた応接室。ツトムは居心地悪そうに座っていた。

 ふたつ、わかったことがあった。

 ひとつは、事務所がやけに狭く感じられたのは、応接室にかなりのスペースを取っているせいであること。ふだんは、来客をここに通して対応しているのだろう。

 もうひとつは、目の前にいる美少女(「絶世の」とつけてもかまわない、とツトムは思った)が、彼をここに呼びつけ、を求めていることだ。


「その……お話を整理させてほしいんですけど。八頭司……さん?」

「ルアよ。合渡ごうと、説明してあげて」

「はい」

 明るい色の髪をかき上げるルアの背後に控えた老人がしっかりと背を伸ばしたまま、きっかり15度の礼をした。ツトムをここまで連れてきた、あの老人だ。

「若倉様の債務に関しては存じ上げております」

 老人が低く、落ち着いた声で話し始める。ツトムとしては、この2ヶ月間目をそらし続けてきた話題だから、あまり聞きたくはないのだが、ここで耳を塞ぐわけにもいかない。


「その貸主についてはご存じですかな?」

 老齢の山羊のような、物静かながらも力強い目がツトムに向けられる。

「え? えーと……」

「ツトムくんの代理人として申し上げますが、まだ、彼は相続を決めていません」

 返答をためらうツトムの代わりに、その後ろに控えた荒生が進み出る。

「ですから、『ツトムくんの債務』ではありませんよ」

「むろん、承知しております」

 合渡が頷き、荒生に向き直った。


「彼は貸主についてはご存じなのですかな?」

「いいえ。まだ、これからです」

「では、お話を」

 老人が穏やかだが迫力のある笑みを向けると、荒生は大きく息を吐いた。

「ツトムくん、よく聞いて。お父様は様々な方面から資金を借り入れていたのは話したわね?」

「そ、そう聞いた気がします」

 イヤな予感だけがしていた。


「その債務の約半分、5800万円は、ここにいる八頭司さんの企業が債権者なのよ」

「この八頭司ルアさん……の、家族の会社から父が借金をしていた?」

 不意に、その少女……ルアが首を振った。明るい髪がふわりと揺れて、甘い匂いが部屋の中に広がった。

「ふたつ、勘違いがあるわね」

 自信に満ちた笑みを浮かべて、ルアは自分の胸に手を置いた。豊かなバストが、柔らかそうに弾むのが服の上からでもはっきりわかった。


「まず、『私の家族の会社』ではないわ。『私の会社』よ」

「えぇ!?」

 どこかのお嬢様らしい……とだけ考えていたツトムの目が丸く開かれる。

「まあ、父に出資してもらったのは確かだけど」

 そのリアクションが心地いいらしく、ルアはますます笑みを濃くした。

「それから、故若倉イズル氏の残した負債については、すでにで整理して、一本化してあるわ。つまり、あなたが遺産を相続するつもりなら……」

 二人の視線が交錯する。


「あなたは、我が社に1億2000万の借金がある、ということになるわね。どう、シンプルでしょう?」

 互いに座っているのに、あまりに堂々とした話しぶりのせいで、どこか上から語られているように感じてしまう。ツトムは身を揺すって、ますます感じられる居心地の悪さを振り払おうとした。もしくは、背筋を冷たいものが走ったのかも知れない。

「もちろん、相続すれば、の話よ」

 荒生がすかさずフォロー。もちろん、その話は何度も聞かされているからわかっている。


 だが、だからこそ、ツトムの疑問は深まっていた。

(なのに、この人はぼくに何を言いに来たんだろう?)

 ツトムの50倍くらいは自信に満ちていそうな少女の表情は、明らかに、「まだまだ言いたいことがある」とつたえていた。

「そこで、あなたにとってもいい話を持ってきたわ。合渡、あれを」

「はい」

 脇に控えていたスーツの老人が、静かにクリアファイルを取り出し、そこに挟まれた紙を二人の間のテーブルに置いた。


 その紙のいちばん上に、こう書かれていた。

『労働契約書』

「あなたの借金返済のために、この私が雇ってあげる」

「は、はい?」

「世間では女子高生社長なんて言われてるけど、学業と経営の両立って、半端なことじゃないのよ。毎日働きづめで、疲れるし、心の余裕もなくなるし……」

「そ、そうなんですか。でも、それとぼくと、何の関係が?」

 きらり、とルアの瞳が光った。


「だから、あなたは公私ともに私のサポートをするの。言ってみれば、特別な秘書ね。学年は違うけど、同じ学校にいれば何かと便利でしょ? 合渡やほかの社員を学校に入れるわけにもいかないし……」

「ちょ、ちょっと待ってください。なんでぼくに?」

「知りたい?」

 にまぁ、と女子高生社長の口元が大きな弧を描いた。

「そ、そりゃあ」

 知らずに契約だの秘書だの、決められるわけがないじゃないか。そう言いたい気持ちをぐっとこらえた。あまりにルアが話したそうにしていたから、水を差すのも悪いと思ったのだ。


「だって、借金のカタに私の言うことをなんでも聞いてくれるなんて、アニメみたいで最高じゃない!」

 ぐ、っと拳を握って、これまでで一番のボリュームでルアが叫んだ。

「まあ、会ってみて感じが悪かったらこの話はナシにしようと思ってたんだけど。でもけっこう、顔もかわいいし。あっ、それは写真で知ってたんだけど、やっぱり声よね。声は知らなかったし。声も合格ライン。ちゃんと発声練習をさせたらもっと良くなるでしょうね。そうだわ、試しに何か言わせてみようかしら。『お許しくださいお嬢様!』っていうのはどう? さあ!」

 一息にまくし立ててから、ぐい、とルアが身を乗り出す。目をキラキラ、というよりはギラギラ輝かせて、ツトムを期待に満ちた目で見つめていた。


「は、はぁ……?」

「あっ、その困った感じの顔、なかなかいいわね。母性本能? っていうのかしら。くすぐるタイプって言われない? うふふ、そのキャラを大事に育てれば、うふふ、私のそば仕えとして、うふふ、なかなか……」

 息もだいぶ荒くなり、近所の怖い犬みたいな勢いだ。美少女の外見を持ってしても、だいぶアブない領域である。

「……この子、こういう人だったの?」

「ええ、まあ」

 頭上で、荒生と合渡の落ち着いた声が聞こえた。



   📖



「とにかく、話をまとめると……」

 合渡の差し出した「沈静作用の香りのハーブティ」を口にしながら、ルアが落ち着いた調子で言う。こうなるまでに30分ほどかかっている。

「あなたが遺産相続をするつもりがあるなら、私が雇ってあげる。そうすれば、だいたい20年ほどで返済できるはずよ」

「に、20年……」

 思わず、うめいてしまった。20年。この条件を受ければ、20年はこのお嬢様の奴隷扱いを受けることになる。


(でも……)

 1億2000万。中学生のツトムでもわかる大金だ。

 一生かけても返せるかどうかわからない額を返済できるのなら、むしろたった20年、と言うべきかも知れない。

 今まで自分が生きてきたすべての時間よりも、さらに長い年月を、まるごと彼女に売り渡す……ということになるのか?

(でも、そうすれば、家を人に渡す必要もない……)

 思い出の詰まった家だ。いまはもういない、たった3人の家族が一緒にいた場所は、あそこしかないのだ。


「相続放棄したところで、あなたには将来の展望はないんじゃない?」

 ぐさり、と、その言葉が胸に刺さった。

「これから就職先を探すつもり? 学校に行きながら働くのなら、私の条件が一番いいと思うけど」

 その通りだ。

 相続放棄で1億2000万の借金を受け継がないとしても、父から送られてくる生活費を頼りに今まで生活してきたのである。

 借金がないからといって、今までなかった収入が生まれるわけではないのだ。


「決めるなら、早いほうがいいわよ。さあ、どうする?」

 答えは決まってる出しょうけど、という言葉は口にせず、ルアが決断を迫る。

「ぼ、ぼくは……」

 じ、と、示された契約書と、ルアの顔を交互に見る。

 少女は、人に指示をすることに慣れた顔で、ツトムの返事を待っていた。


 そのときだ。

「ひとつ、よろしいですか?」

 ツトムの背後からの声。弁護士の荒生だ。

「なにかしら」

「代理人として、ツトムくんの意思を尊重するためにお話を最後まで聞かせてもらいました。ですが、これは代理人としてではなく、弁護士として言わせていただきます」

 荒生の瞳が光るのが見えた気がした。ルアのように、自信と興味の光ではない。知性に裏打ちされた、怜悧な光だった。


 そして、その怜悧な瞳の下で、きりりと結ばれた口が開かれた。

「それ、違法ですよ」

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