労基ラブコメ ぼくとツンベアお嬢様

五十貝ボタン

第1条 労使の合意

第1条第1項 さあ、はじめるわよ

 若倉わかくらツトムは、困惑していた。

 正確に言うと、困窮していた。

 もっと正確に言うと、していた。


「お父様が亡くなりました」

 と、告げられたのが1月13日。中学校の卒業を目前に控えた、15歳の多感な時期に聞くには、相当にショッキングなニュースだ。

 だけど、そのあと告げられた言葉はそれ以上の衝撃があった。

「お父様は、およそ1億2000万円の借金を遺しています」


「はぁ?」

 頭が真っ白になって聞き返すと、荒生あろうと名乗った女性……弁護士だという……は、沈痛そうに息をついた。

「冒険家であったお父様は、深海に眠る超古代都市の探索のために各方面から資金を集めておられました。結果として、その夢は叶わなかったのですが……」

「ええと、つまり、その借金が、ぼくに?」

「もし、ツトムさんが相続を希望すれば、そうなります」


 寒い日だった。雪が降っていた。

「相続放棄を選ぶことも可能です。その場合、不動産なども含めて遺産はすべて相続できないのですが……」

 冬休みが終わったばかりで、まだ夜更かしの癖も抜けていない時だ。回転のにぶい頭で、ツトムは必死に話を理解しようとしていた。

「不動産、ってことは、この家は手放さなければならない、ということですか?」

「そうなります」

 父は、この一軒家に帰ってくることはまれだった。一年のうち、ツトムと顔を合わせるのは50日もない。


 12歳の時に母親が亡くなってからの3年間、ほとんど一人で過ごしてきた。

 暗い空から降る雪が、この家を覆い隠してくれないだろうかと思った。もちろん、そんなことは起きようもない。ツトムの住む街まで寒気団が湿度を保ち続けることは少ない。雪が降るのだって珍しいぐらいだ。もちろん、寒気団を恨む筋合いなんて、ツトムにあるわけがない。

「ツトムさんのほかには、親類はおられませんから、遺産はすべて相続することになります。もっとも、大部分が債務ですが……」

 その声も、まるでどこか遠くで話しているように聞こえた。曲がりくねった金属の管の中を、何度も反響して伝わってきたかのようだ。


「それ……いつまでに、決めればいいんですか?」

 なんとか、渇いた喉からそれだけを絞り出した。

「3ヶ月以内、ということになっています。法定代理人を決めるなど、決めることはたくさんありますが……少し、時間をおいた方が良さそうですね」

「しばらく、考えさせてください。整理が……つかなくて」


 一人になると、家は今まで以上に広く感じた。

 3年前には、この家でツトムの帰りを迎えてくれる人がいなくなったことを知って泣いた。

 そして今、ツトムがこの家で誰かの帰りを待つ事もなくなったのだ。

 それでも、両親との思い出の大半はこの家の中にあった。

 立ち上がる気力もなく、ソファの上にずっと座っていた。くしゃみをして、ようやく体が冷え切っていた事に気づいた。

 ベッドに入るまで、涙は出なかった。ただ、寒かった。



   📖



 卒業式までは、あっという間だった。不安に支配された2ヶ月半。

 勉強はなんとかなったけど、同級生と一緒の時間を楽しむ余裕はなかなか持てなかった。

 友達はみな優しくしてくれて、喪失感は癒えたものの、カレンダーの2月を破り取ったとき、決断のときが目前にまで迫っていることに気づいた。

 夜ごと、眠れる時間は減っていった。頭の中はぐるぐる回って、それなのに考えは一向にまとまらなかった。


 親類はほかにはいなかったから、葬儀はささやかだった。

 父の最期は、海上での飛行機事故だったらしい。「確率上、もっとも事故が少ない乗り物だ」といつも言っていたのだが、宝くじを当てるよりも低いその確率を身をもって体験したことになる。

 母だけが眠っている墓の前に立ったときが、いちばんつらかった。暗澹あんたんたる、というのは、ああいうときに使うべき言葉なのだろう。


 法律上の手続きは、そのほとんどを弁護士が引き受けてくれた。1月にツトムを訪ねてきた彼女だ。

 ツトムの身の上に、よほど同情してくれたのだろう。何かと意思を確認されるのはあまり嬉しくはなかったが、こちらを尊重してくれているからだということはわかった。

「相続放棄がツトムさんのためです。まだ若いんですし、このあとの人生を考えれば……」

 何度か、そう聞かされた。でも、今までの人生だって、これからと同じように大事だ。すぐにやり直す腹を決められるわけじゃない。


(でも、たぶん……放棄、することになるんだろうな)

 何度も考えたが、それしかなかった。今は保留できるから保留しているだけだ。1億2000万円なんて、目もくらむような借金は、十五歳の少年には大きすぎる。

 同級生たちと卒業の喜びを分かち合うつもりにもなれず、孤独な帰り道を歩き出したとき……


 校門前に、一台の車が停まっているのが見えた。黒い車体はぴかぴかに磨き上げられ、早春の日差しを受けて輝き、まぶしいほどだ。

 その傍らに、黒いスーツを着た男性が立っていた。白髪はくはつをきっちりと整え、黒縁の眼鏡をかけている。老年に見えたが、背筋はぴんと伸び、180センチ以上はある。

(誰かを迎えに来たのかな……?)

 そう、思いながら、横を通り抜けようとしたときだ。


「失礼。若倉ツトム様ですかな?」

 その老人が、声をかけてきた。

「は、はい!?」

「お乗りください。荒生様のご了解は得ております」

 老人は流れるような仕草でドアを開け、中を示した。指の先まで振り付けられているかのような、堂に入った仕草だ。


「ぼ、ぼくに、何か?」

「あなたとお話したいという方がいらっしゃいます」



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 車は静かに走り出した。さっぱりした車内インテリアは、まるで今日完成したばかり、と言われても信じてしまいそうだ。

 ツトムは後部座席でシートベルトをかけ、靴あとがついてしまうのもなんだか悪い気がして身じろぎ一つできないでいた。

「気楽にしてください。きっと、あなたにとっていいお話ですよ」

 老人はそう言って、オフィス街へと車を走らせた。


「あの、どこに向かって……」

「すぐに着きます。ほら」

 走り出したときと同じように、ほとんど揺れを感じさせることもなく車が止まった。

「ビルの3階です。私は車を停めて参りますので、お先にどうぞ」

「あ……は、はい」

 なんてことのないオフィスビルの前で降ろされて、ほっとしたような、拍子抜けしたような、微妙な心地だ。


 エレベーターに乗る。3階。操作盤のそばに、こう表示されていた……「アロー法律事務所」。

(なんだ。呼んだのは、荒生さんか)

 いきなり車に乗せられたからビクビクしていたのだけど。顔見知りが相手だとわかって、ますます気が抜けた。

 チン、と軽い音を立てて、エレベーターが3階に停まった。

 ゆっくりと戸が開く。すぐ前に磨りガラスのドアがあり、「アロー法律事務所」のプレートがつけられていた。


「失礼します」

 中に声をかけながら、そっとドアを開く。

 手狭なオフィスの壁一面には大きな本棚があった。荒生弁護士は本棚に場所を取られてしまったかのように、奥まったデスクのノートパソコンに向かっていたところだった。

「こんにちは。いきなりで、驚いたでしょう?」

 立ち上がりながら、荒生が言った。整った顔立ちは、どことなく緊張しているように見えた。

「いえ、そんな。でも……」

 どういう用事で? そう聞こうとしたツトムの声は、別の声によってかき消された。


「ようやく来たわね!」

 キン、とよく通る声のした方を見る。事務所の一角、パーテーションで区切られたブースから一人の少女が姿を現した。

 茶色がかった明るい色の髪。大きな瞳と整えられた眉、すっきりとした鼻筋に薄紅色の唇。

 白いシャツに淡い色のシフォンスカート、黒いタイツ。体型を隠してしまいそうな服装だというのに、それでも、くっきりと服を持ち上げる胸元と、反対に驚くほど引き締まった胴回りがよくわかる。


 最新の撮影技術を駆使して、美しく見えるように加工されているのに違いない、と思うような少女だ。現実に目の前にいるのでなければ、だが。

「私は八頭司やとうじルア。はじめまして」

「は、はじめまして。ぼくは……」

「若倉ツトムね。知ってるわ。私が呼んだんだもの」

 胸を張ったまま告げる美少女の勢いに、ツトムはすっかりのまれている。


「さあ、はじめるわよ」

「はじめるって、何を?」

 ルアと名乗った彼女は、宝石でも溶かすことができそうな笑顔を浮かべ、こう言った。

「労働契約よ!」

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