第2条第13項 職業選択の自由
撮影所のセットの中と外で、ふたりがにらみ合っている。
屋敷の内装を模したセットの中で、キッカは黒いワンピースのまま。
ルアはパステルカラーのセーターとロングスカート。落ち着いた衣装には似つかわしくない、気力満面の表情である。
「契約を見直しに来たって、どういうことですか?」
先ほどまで吸血鬼だったキッカの声は、さらに低くなっている。撮影を中断されたのは、当然女優にとって嬉しいことではない。
「その前に……ツトム!」
「は、はいっ!?」
いきなり水を向けられて、ツトムの背筋がぴしりと伸びる。
「あなた、自分の契約内容は自分で覚えておきなさい。私がここまで来るハメになっちゃったじゃない」
「なにか、不備がありましたっけ……?」
おずおずと問いかけるツトム。ルアは髪をかき上げて、じ、っとツトムに翠の瞳を向けた。
「自分が今、どういう格好しているかわかる?」
「セーラー服……です、けど」
改めて聞かれると、何人もの人の前で、しかも映像のプロの前でこんな格好をしていることを思い出して、ツトムの顔に朱がさした。
「そう。あなたと私の契約では、女装した場合はインセンティブ手当として時給の20%が支払われることになっている。そうね?」
「は……はい、そうですね」
「でも、今は出向中ですよね」
キッカが、横から割り込むように声を上げる。
「そう。出向中は、報酬はあなた側から発生することになってる。ただ、その契約はエヌオーと若倉の契約に準じる事になってるから、このインセンティブ手当も同様と考えていいでしょう」
「つまり?」
「だから、若倉にはあなたに対して手当を要求する権利がある!」
大きく胸を張って、バーン! と、ルアが宣言する。
「その話、してないでしょう?」
「し……してない、ですけど」
「権利不履行は問題よ。契約した以上、権利者にも義務を履行させる義務があるんだから」
「……女装した場合には、追加の報酬が発生するって、それだけ言いに来たんですか?」
呆れたように、キッカが鼻から息を抜く。すっかり、吸血鬼の雰囲気は抜けている。
「そう。我が社は土曜日が所定休日だから、私しかいないもの。仕方なくね」
「それぐらい、あとで連絡してくれれば対応しましたよ」
「契約の大事さを、大事な社員に教育してあげようと思ったの」
「それは、ご苦労様です」
キッカの口調は、いくらかとげとげしい。彼女のことだから、苛立ちを隠してしゃべるぐらいはできるはずだ。ということは、わざわざ怒りを表出させていることになる。
「とにかく、若倉を女装させて業務させた場合は、インセンティブとして時給に20%上乗せしてもらう。同意してくれないと、この動画は公開できないわ」
「そんなところで経費をケチりません」
「よろしい。では、合意は得られたわね。続けてちょうだい」
「この撮影、本番までの時間がないから一発撮りだったんですけど」
「ウェイクウィンクに投稿するんだから、私の権限上問題はないわ。うまく編集して使ってちょうだい」
二人が言葉を交わした後、再びにらみ合う。
「ええと……じゃあ、今の撮影は、もう終わり、ですか?」
恐る恐る聞くツトムに、キッカが疲れを振り払うように首を振る。
「不本意だけど、そうなっちゃうね。もうすぐ、本番の時間だから……ですよね、監督?」
キッカがカメラのそばの加賀見に目を向ける。その名前で呼ばれることになれていないらしく、彼は一度周りを見回してから、大きく咳払いする。
「オッケー、とりあえず素材は撮れたから、あとはこっちでなんとかするよ」
「一番、いいところが撮れなかったですけどね」
「まあまあ、それは本編でのお楽しみってことでさ」
加賀見が手を大きく振る。不満げなキッカの機嫌を取ろうとしているらしい。
「そ、それより、役作りのほうはどう? うまくいきそうかな?」
「だいぶつかめた気がする。最後までできれば、もっとよかったけど」
ちらりとルアのほうへ視線を投げかける。納得していない、という意思表明だ。
「ほ、ほら、名々瀬さんは本番なんだし、演技に集中できるように、ね?」
ツトムには、二人の間に漂う緊張感の正体がわからない。ビジネス上の不和が起きないよう、キッカに声をかける。
「……」
じい、っと。ツトムを見つめるキッカ。カラーコンタクトレンズを着けたままだから、瞳は赤い。
「な、なに?」
怒りの矛先が自分に向けられるのかと思って、ツトムの顔が引きつる。
「ねえ、ツトムくん。あたしの事務所で働かない?」
「へっ!?」
とつぜんの提案に、ツトムの声が裏返る。
「ほ……本気?」
驚くツトムに、キッカは微笑みを向ける。ルアに向けるものとは、明らかに違う表情である。
「だって、そうすればいつも一緒にいられるし。あたしの演技の向上のためには、その方がいいもん」
口調は悠然としたものだ。まるで、最初からその提案をすると決めていたみたいに。
「な、なんでぼくがいると演技にいいのかわかんないよ」
「受けてくれたら、あとでゆっくり教えて上げる」
「私の目の前で引き抜きとは、いい根性してるわね」
こめかみをひくつかせて、ルアが目を細める。
「転職の自由を妨げたりはしないですよね、社長さん」
「当然。でも、私よりいい条件が提示できるとは思えないけど」
胸を張ってこそいるが、ルアの声はわずかに震えている。
出向条件を提示した際に、大まかな契約条件は伝わっている。だから、キッカはツトムの給与を知っているはずなのだ。
「インセンティブ手当が、20%だっけ? じゃあ、私はそれを含めた額を払うよ」
「上乗せ……ってこと? じゃあ……」
提案に、ツトムが頭の中で計算をはじめる。今の月給が349,800円。20%を足せば……
「419,760円!?」
「計算しにくい? じゃ、42万円にしちゃおうか」
一足飛びに額の上がった給与に、目玉が飛び出しそうだ。
「経験なしの未成年に、なんて額つけてるのよ!」
「八頭司先輩にだけは、言われたくないですよ」
じと、とにらみつけるキッカ。
「い、いや、でも……その」
いきなりの提案に、ツトムの額に汗が浮かぶ。
チラチラとルアのほうに視線を向けるが……
「42万……なんて」
ブツブツと呟くルアも、それ以上額を上乗せするのは難しいようだ。
ツトムには知るよしもないが、エヌオー・クリエイトにも役員がいる。会社経営のすべてを、ルアが自由にできるわけではない。
ツトムを雇うのには、かなりの元手がかかっている。ましてや、
『これ以上の出費は、許さない』
そう告げられている。
(それに……)
ルアの心中には、別の思いもある。
(それに、借金を早く返せたほうが、ツトムが喜ぶに決まってる)
自分のわがままではじめたとはいえ、ツトムにとっては、人生がかかっていることだ。
彼のためを本当に思うなら、よりよい労働条件をえらばせるべき、なのだ。
「2週間だっけ? いま、辞めますっていえば、私のセカンドマネージャーにしてあげられる」
上機嫌に、キッカが微笑む。
「ルア様……」
不安げに呟くツトムに、ルアは胸を張り、鼻を鳴らした。
「債務は、私のものだからね。きっちり、毎月返してもらうから」
威勢を張る……しかし、その声は震えていた。
「でも、ルア様が……」
「私のことはいいの。あなたの権利と、新しい契約のことを考えなさい。そうだわ、弁護士にもきちんと連絡するのよ。あなたの保護者なんでしょ?」
「そうですけど、でも」
「自分の利益を一番に考えないと。私は、これ以上の額を貴方に払うことはできない」
目を閉じて、ルアが顔を背ける。長い睫毛に、光るものが見えた気がした。
「……わかりました」
ごく小さく告げて、ツトムはキッカの方へ向き直る。
「労働条件を確認したいんだけど……」
「ちょっと待ってね。マネージャーも呼んでくるから。今日の撮影が終わったら、一緒に契約内容を決めましょ」
弾むような声。吸血鬼の衣装には似合っていなかったが、心臓が止まりそうなほど魅力的だ。
「じゃあ、今日の出向を続けてもらいますね。お疲れ様です、八頭司先輩」
先ほどの不機嫌が飛んでいったように、満面の笑顔で告げるキッカ。
ルアは唇を噛んで、何も答えずに後ろを向く。
「あの、ぼくは……」
「月曜から10営業日は通常業務だから」
低く抑えた声で告げて、ツトムにとっての現在の雇用主は、撮影スタジオの出入り口へと歩いて行った。
その背中にかけるべき言葉を見つけられないツトム。
キッカが笑みとともに、その背を叩く。
「今日の撮影、全部一発オッケーにしちゃうから。そしたら、ゆっくり交渉しようね」
そして、その通りになった。
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