第2条第14項 ぼくとあなたの労使合意
22時。
八頭司ルアは、自宅の3階のベッドにいた。
茶色がかった髪をまとめあげて、部屋着姿。週の半分の夜をこの家で過ごす臼井以外には決してみせない、「プライベートルーム」だけの姿である。
ちなみに、合渡も同居はしていない。ツトムを送った後、彼も自宅に戻っている。
「……業務が終わった頃ね」
セミダブルのベッドに顔を埋め、大きく息を吐く。
部屋に帰ってから、何も手につかなかった。
仕事をしようにも、ツトムとキッカが何をしているのかを考えると、まったく集中できない。
かといって、あの二人が一緒に映っている画像を見る気にもならない。ウェイカーへの「1時間に1回」の報告を律儀に行っているようだが、開こうとするとイライラして、キッカのユーザー画面を見ることができなかった。
プライベートルームの壁一面を占めるコミックやノベルや映像ソフトも、今は心を癒やす役に立ちそうにない。
入浴も忘れて、ベッドでふてくされているうちに、じりじりと時間が過ぎていた。
さいわい土曜の夜だ。このまま寝てしまってもいいだろう。パジャマに着替えるのも面倒だった。
「ったく、もぉ!」
人前では出すことのない、いらだった声。
仰向けになると、胸が苦しい。すぐに寝返りを打って、胎児のように体を丸める。
「なんで、出向なんてさせたんだろ……」
ウェイクウィンクが盛り上がると思ったから。土曜日に退屈そうにしてたから。友達に、自分はこんなにいいものを見つけたんだぞって自慢したかったから。
理由はいくらでもあった。でも、それは本当にルア自身の意思だったのか。一時の感情にまかせて、自分にとって本当に優先したいものを、無視していなかったか。
答えは出ない。
当たり前だ。答えがあるなら、それをルアはもう知っているはずだ。
そのとき……
ピリリリリリッ!
ベッドサイドに置いてあったスマートフォンが、甲高い着信音を派手に鳴らした。
「……っ!」
思わず頭を上げて、ベッドの上で転がりそうになりながらそれを拾い上げる。
画面には、『若倉ツトム』と、そう表示されていた。
思わず通話ボタンをタップしそうになって、
(すぐに出たら、まるで、私が連絡を待ってたみたいじゃない)
待たせた罰として、焦らして、留守番メッセージを入れているときに出てやろうか、と考えてから……
(……でも、急ぎの用かも)
そう、考えて。
「……私よ」
けっきょく、通話に応じた。
『若倉です。……もしかして、寝てました?』
「関係ないでしょ」
『そ、そうですね。声が、その……暗かったから』
「だから、関係ないって!」
「す、すみません。……今、終わりました」
電話の向こうで、縮こまっているツトムの姿が思い浮かんだ。2週間後には、そうして縮こまる相手はルアではなく、名々瀬キッカになるのだ、という思いが同時に浮かんでいた。
「そう。お疲れ様。暗いから、気をつけて帰るのよ」
『ありがとうございます。……名々瀬さんとの交渉のことですけど、まだ答えは保留してて』
「そう。荒生と連絡がつかなかったの?」
『荒生さんとは、これからで。先に、ルア様に確認したいことがあるんです』
ツトムの声は、妙に落ち着いていた。
その声を聞く耳に、神経がぎゅっと集まったように、その声が頭の中に何度も響いた。
可能性があるなら。ツトムの意思がまだこっちを向いているなら……
だが、ツトムの次の一言は、ルアの期待したようなものではなかった。
『ぼくの月給……349,800円。これ以上は、出せないってことですよね?』
「……そうよ。一年……いえ、半年あれば、働きを見て、昇給、ってこともできたけど……」
経営者として、これ以上の横暴はできない。ましてや、キッカの提示した以上の額を出すことなんて。
『……わかりました』
ツトムが、何かを決めた。その声で、はっきりわかった。
『荒生さんとお話しして、月曜日に、またお話します』
「……うん」
短く答えて、通話を切る。
しんと静かな部屋の中で、ルアはベッドにうつ伏せに倒れた。
「……みじめね」
ほかの誰にも向けない嘲りを、自分に向けて呟いた。
たった3週間、一緒にいただけなのに、その時間がもう戻ってこないことがどうしようもなく歯がゆかった。
📖
月曜日。就業が始まるよりも早く、ふたりは学院のピロティにいた。
生徒たちの憩いの場のはずなのだが、並べられたテーブルには、ふたりの姿しかなかった。
ルアの、感情のまったくない、しかし異様な迫力のある表情を見て、ほかの生徒が近づかなかったせいである。
「……だ、大丈夫、ですか?」
ツトムも思わず聞いてしまったほどだ。
「別に、いつもと同じよ。それより、話は早く済ませましょう」
どこか機械的に、考えた文章を読み上げているかのように、ルアが言う。
「そ……そうですね。あの……荒生さんと、話し合って決めました。怒らないで聞いてください」
「どうして私が怒るのよ」
そう言ってツトムに向けられた目は、いつもより白目が多く思えた。
「い……いえ、これから、とても自分勝手なことを言う、と思います」
いまいち歯切れ悪く、ツトムが告げる。
「かまわないわ。職業選択の自由は尊重されるべきだし、あなたの収入が増えるってことは、私の債権回収もやりやすくなるって事だもの。もちろん、大歓迎よ」
一息に言ってから、ルアは吐き出した分の息を大きく吸い込む。ただでさえ制服を押し上げている胸が大きく膨らんだ。
(い、いちいち、正常には見えないけど……)
頬に浮かぶ汗を拭ってから、ツトムは自分の胸に拳を当てた。
ルアを見つめ返す。彼女のように、大きく胸は張れなかったけど、それでもしっかりと背筋を伸ばした。
「じゃあ、言います。自分勝手に思えるかも知れないんですけど、これがぼくの意思です。ルア様に、きちんと聞いてもらおうと思って」
そして、彼女をまねて大きく息を吸った。
「ぼくは……若倉ツトムは、雇用主である八頭司ルア様に、求めます」
「辞職じゃなくて、合意退職にして欲しいってこと? いくら私でも、そこまで甘くは……」
「いえ」
ゆっくり首を振ってから、ツトムは鞄の中から、髪束を取り出した。
ルアとの交渉の末に作られた、「労働契約書」だ。
「ここに書かれている条件に、たった1文字足してくれるだけでいいんです」
思わず尻すぼみになる声を奮い立たせて。
「……何が言いたいの?」
辞職の申し出にしては、言い方が迂遠すぎる。ルアの怪訝な表情も当然だ。
「つまり……」
「つまり?」
「土曜日を休みにしてください」
たっぷり数秒の沈黙が、その場を支配した。
「……はぁ?」
ルアの声が裏返り、ツトムの表情がこわばった。
「ただし、月給はそのままにしてください」
戸惑うルアへ、あの日以来の『労使交渉』を続ける。
「月の労働時間が110時間まで減るとして、時給は3,180円になります」
勢い込むツトム。ルアは額に手を添えて、大きくうなった。
「待って。ちょっと、理解が……どういうこと?」
「もっと、自分の時間が欲しいんです。今の労働時間だと、学校の勉強もできないし、趣味の時間も」
「名々瀬キッカにも、そう言ったの?」
「いえ……名々瀬さんは、むしろ業務時間を増やす方向の条件を提示してきました」
「つまり……こういうこと?」
ルアが額を押さえていた手を離し、翠の瞳をツトムに向けた。
「あなたは、名々瀬キッカとずっと一緒にいられる仕事には、合意しかねるって?」
「まだ答えは保留してて、これから、ですけど」
「それで、今度はこの私に、八頭司ルアに、出勤日を減らして、時給は増やせって、そう要求してるの?」
ルアの瞳は爛々と輝き、声は高らかにピロティに響いた。
まるで、ツトムの『自分勝手』を耳にして、生気を取り戻したみたいに。
「……その条件なら、エヌオー・クリエイトとの契約続行を希望します」
頼りなげながらも、はっきりと。
「それが、ぼくの意思です」
ツトムはそう答えた。
「……うふ」
ルアの唇が三日月を描いた。
「うふふ、ふふ……本気で言ってるのね? そう、そうね……うふふ、うふふふ……」
「る、ルア様?」
今度は、ツトムが戸惑う番だった。
「はじめて、あなたから私に直接意思を表明したと思ったら、まさか、そんな……うふふ、そんなに勝手なことを言ってくるなんて。逸材どころか……ああ、もう、言葉が見つからないわ」
「す、すみません。でも……『労働契約法』第8条……」
「『労働者及び使用者は、その合意により、労働契約の内容である労働条件を変更することができる。』」
ツトムの言葉を引き継いで、ルアが条文を暗証する。
「合意してくれますか?」
翠の瞳を見つめながら、聞いた。
「合意するわ」
ルアの答えは、もう決まっていた。
「私も、あなたにいてほしい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます