第2条第15項 給料日

 4月25日、21時50分。

 ルアの社長室で、ふたりはウェイクウィンクに投稿された動画を確かめていた。

「けっこう、サマになってるじゃない?」

 吸血鬼カミラを前に、心を乱す少女リエ……を、演じるツトムの姿を眺め、雇用主は上機嫌に言った。

「あ、あはは……あのときは、名々瀬さんがリードしてくれて」

 その隣で、ツトムが小さく呟く。

 その服装は、小柄な体に合わせたスーツだ。


 ツトムの時給が大幅にアップして、インセンティブ手当が発生する女装を気軽にできなくなっためだ。

 ルアいわく、「諦めてはいない」とのことだが、臼井がツトムのサイズに合わせたビジネススーツを用意してくれたため、とりあえずはその服装で働くことになった。

「へえー、リードねえ」

「変な意味じゃないですよ」

「冗談よ。それより、大変だったのはこっちの方なんだから」


 大きく息を吐きながら画面を眺めるルア。

 動画の後半は、割り込んできたルアとキッカの会話に変更されている。

 ただし、会話の内容は後から吹き替えられて、映画「吸血鬼カミラ」を宣伝するものに変わっている。

「この吹き替え、ノーギャラよ?」

「撮影を中断させたから、でしょう?」

 本来意図していた演出ができなくなったから、ということで、加賀見がこっそり撮影した様子に、後から別の音声を被せたのだ。


「まっ、話題になってくれるならいいけど」

 投稿されてからまだ1時間も経っていないというのに、動画は大量にシェアされている。

 キッカはもちろん、ルアやツトムもウェイカー上では有名人だ。加えて、動画の中でキッカとツトムが行っている演技……抱き合ったり、胸を露わにしたり……それを、映画本編では人気アイドルと演じることになるのだ。

 キッカと彼女の絡みを期待するファンの熱いコメントが、いくつもつけられている。


「にしても、名々瀬キッカはよく引き下がったわね」

「さすがに、ムリヤリ契約を迫ったりしませんよ。荒生さんもいることですし」

 ルアとの条件変更の後、ツトムはすぐにキッカへ転職を断る連絡を入れた。

 キッカの返事はあっさりしたものだった。

『いいよ。クラスは一緒なんだし、チャンスはたくさんあるもん』

 何のチャンスなのか聞きそびれてしまったけど、とにかく、その場で話はついた。


「とにかく、スムーズに話が進んだのはいいことね。」

 ルアとしては、また妙な手を使ってくるんじゃないかと、柄にもなく心配したのだ。

 動画のコメントに、ちらりと目を向ける。

『キッカちゃん演技に気合い入りすぎ! さすがのプロ根性!』

(……どうだか)

 心の中で、ルアは呟いた。

 ルアがその目で見たキッカの演技は、ほんの一瞬だったが、義務感で演じているようにはとても見えなかった。むしろ、目の前の相手を本気で求めているようにすら見えたのだ。


「お話ってそれだけ、ですか?」

 わざわざ就業の30分前に呼ばれて社長室にやってきたツトムが、小さく首をかしげた。

「ああ……そうね。忘れるところだったわ」

 ルアはデスクの引き出しを開け、一枚の封筒を取り出した。

「はい、これ」

「……?」

 少年がきょとんと瞬きして封筒を受け取る。首をかしげながら、その口を開け……


「ルア様、お金が入ってますよ!?」

「当たり前でしょ。賃金よ、賃金!」

「あっ……こ、これが?」

 目を丸くするツトム。ルアは額を押さえながら、息を吐いた。


「『労働基準法』第24条第1項。『賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。』……以下略。同じく第2項。『賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない』」

 条文を告げてから、くるりと指で空中に丸を描く。

「労基法の通り、通貨で、あなたに直接、期日である25日に支払い。ただし、10日までのぶんね。来月からは、月給を満額支払うわよ」


 封筒の中には、「給与明細」と書かれた紙が一緒に入っている。

 労働条件が変更になり、賃上げベアされるより前だから時給は最初に契約したときの額だ。それに、20時間分のインセンティブ手当。

 合計、119,600円。所得税等が控除されて、封筒の中に入っているのは10万円と少しだ。

「ほ……本当に、もらえるんですね」

「あのねえ」

「い、いえ、ルア様を疑ってたわけじゃなくて。あんまり実感がなくて。初めてのことですから」

 生まれて初めての給与だ。労働の対価に、賃金を受け取る……文字にすればそれだけのことが、自分の身に起きたのだと思うと、じんとくるものがこみ上げてきた。


「正当な労働の報酬よ。これから毎月もらうことになるんだから、いちいち驚かないの」

「あ……ありがとうございます。大事に使います」

「よろしい。それじゃあ……」

 大きく頭を下げるツトムに向かって、ルアが右手を差し出した。

「……ルア様、その手は?」

「あなた、大事なことを忘れてない?」

 じ、っと翠の瞳がツトムを見据える。


「……お手なら、しませんよ」

「そうじゃなくて、返済よ、返済!」

 雇用主、あらため債権者がぐい、と右手を差し出した。

「そ、そういえば」

「利子が一年で180万、ひと月15万、10日で5万! 耳をそろえて返してもらいましょうか」

「ううっ、初めての給与なのに……」

「初めての返済も体験できて良かったじゃないの」

 しれっと告げるルア。


 ツトムはジェットコースター並に感情を揺さぶられて泣きそうな思いだった(何の涙なのか、よくわからなかった)。

 だが、使用者が賃金を支払のと同様に、債務者の返済も義務である。

「うう。どうぞ……」

 初の給与のおよそ半額を、ルアに手渡す。

「よろしい。確かに受け取りました」

 ルアが「領収書」と書かれた紙にサインを入れ、ツトムに差し出した。


「何かあったときに争いになるのはイヤだから、明細と一緒に保管しておくのよ」

「わ……わかりました」

「よろしい」

「……これ、毎月やるんですか?」

「労基法第17条に抵触したくないし、一応ね」

 これから20年。これを繰り返す事になるのだと考えるとなんだか気が遠くなりそうだ。

 そんな風に、ツトムが自分のこれからの人生に思いをはせていたとき……


 1階から、『クルックー』と、鳩時計の音。それに反応してだろう。「わふ」という、マックスの鳴き声も聞こえてきた。

 それが、ぴったり10回繰り返される。

 午後10時。退勤時間だ。

「……それじゃ、お疲れ様」

 ルアの掌の上に打刻機。すっかり見慣れたそれに、ツトムもすっかり慣れた動作で指を置く。


 ピッ、と音が鳴って、退勤の処理が滞りなく終わる。

「お疲れ様です」

 いつもの挨拶。無事に繰り返される毎日の行いに、ふしぎな安心感があった。

 だから、ルアは、今までは言わなかった一言を、ツトムの背中にかけた。

「明日も、よろしくね」

 ツトムはきょとんとしてから、それが彼女の意思の表明だと気づいた。

 だから、振り返って……彼女と向き合って、応えた。

「はい。また、明日!」



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