第2条 ふだんはツンツンしてるけど、労使交渉になるとベースアップ
第2条第1項 土曜日
チク、タク。チク、タク。
いくらか古めかしい時計の音が、秘書室には響いていた。
(ダイニングにも、鳩時計があったけど……)
秘書検定のテキストを読む合間に、ぼんやりと時計を眺めてツトムは考えていた。
アンティークな調度は雇い主であるルアの趣味だろうか。それとも、合渡が選んだのか。
どちらにせよ、ツトムが思い描くような「ビジネス空間」にはあまり合わない。
「……って言っても、ほかの職場なんか、知らないけど」
父は事務所を構えて働くような人ではなかった。だから、ツトムにとってはここが初めて体験する「職場」だ。
自分のための部屋だとは思えないほど広い。デスクも大きいが、それでも部屋の3分の2以上が空いている。
その空間は、いま大きな犬がどっしりと寝転んでいる。ルアの飼い犬であるマックスだ。
ツトムが来るまでは、この部屋は彼の住まいだったらしい。扉には彼の大きな体で通ることができるサイズのペットドアが設置されていて、いまでも出入り自由だ。
最初の何日かは、入ってくるたびに追い出そうとしたのだけど、30キロもある巨体を部屋から追い出すのは一苦労だ。吠えて暴れるわけでもないから、もう彼の好きなようにさせることにした。
「……いまは、仕事が少ない時期だって言ってたけど」
秘書の仕事、と言っても、ほとんどの時間が待機に近い。
経営者であるルアは、生活のほとんどすべてが業務である。
彼女の元にはいくつも、ウェブサービスを盛り上げるための企画が持ち込まれている。その企画に目を通し、利益に繋がるものを選ばなくてはならない。ちなみに、ここで言う「利益」には、ルア自身の楽しみ、喜びも含まれている。
時には素早く、時には慎重に決断を下す。あるいは、ルア自身が企画を立てることもあるのだという。
「24時間、365日、クリエイティビティを発揮し続けるのよ!」
……と、本人は言っていた。
だから、ルアが「クリエイティビティ」を発揮できるよう、余計な手を煩わせないようにするのがツトムの仕事、ということになる。
今日は土曜日。
13時から始まった業務の大半は、ルアのもとに届いている大量のメールやメッセージの確認で終わってしまった。
届いているものをすべて確かめ、「緊急」「重要」「要確認」というように、内容を振り分けていく。とはいえ、いまのツトムにすべてのメールの内容を見通せるわけもなく、結局そのほとんどをルアが再度チェックするのだが。
そうして各種メッセージを読ませて、大まかなルアの業務を理解させよう、というつもりに違いない。
チク、タク。チク、タク。
無機質に秒針を動かす時計は、18時を大きく過ぎて、長針が下を向いている。
「お夕食ですよぉー」
階下から、のんびりした声が聞こえる。とたん、マックスが起き上がってペットドアを駆け抜けていった。
「……なんか、不思議な感じ」
この家では、毎日この時間になるときっちり夕食が用意される。
ツトムは、3年前から自分の食事を自分で用意しなければならない生活を続けていた。それが、メイド手製の料理が時間どおりに提供される……。
父がいなくなってから3ヶ月と少し。あまりにも様々な変化がありすぎて、どう受け止めていいかわからない。毎朝、昨日までのことが夢じゃないことを確かめて驚いているくらいだ。
扉を開き、手すりのついた階段を下っていく。2,3日もすれば慣れるもので、自分の家よりもずっと広い八頭司邸を歩くのにも、遠慮はなくなってきていた。
「遅い!」
ダイニングの扉を開くと同時、雇用主の声が浴びせられた。
「あなたが休憩時間をどうすごそうと勝手だけど、私の夕食時間でもあるんだから、待たせないでよね」
口早に告げたルアは、すでに大きな食卓に腰を下ろしている。長身の老執事・合渡と、メイド服に身を包んだ臼井も着席済みだ。ツトムが考え事をしていたぶん、遅くなってしまったようだ。
ちなみに、マックスはケージの中の給餌器のほうへすでに向かっていた。
「それなら、先に食べてもいいのに……」
小さく反論しながら、自分の席へ腰を下ろす。コンソメスープの香りが鼻に届き、急に空腹感がわき上がってきた。
「一緒に食べたいんですよぉ」
肩を揺らし、臼井がほほえむ。体を揺らした勢いで、エプロンを外してワンピースのみで隠されている胸元まで揺れるのが見えた。
「そ、そういうことじゃないから。はやく手を合わせなさい!」
ぱちん、と気の抜けた音を立てて、ルアの白い手のひらが合わせられる。
「いただきます」
唱和して、食事が始まる。
「仕事は、いかがですかな?」
たっぷり葉野菜を使ったサラダに取りかかるツトムに、合渡の低く落ち着いた声がかけられる。口に含んだ野菜をかみ切って飲み込むまで、誰も急かしはしなかった。
「少しは……わかってきたと思います」
控えめな声量で答える。今のところは、ツトムが自分で考えてなにかをするような仕事はほとんどない。言われたとおりにするだけだ。
ラクでいい、というのが半分。もう半分は、少しくらいなら責任のある仕事をしてもいいんじゃないか……という気持ちが半分。
でも、もし本当に重要な仕事を任されて失敗したら、と考えると、ルアに直接そう告げる勇気はわいてこなかった。
「まだメールチェックは残ってる?」
スープをスプーンですくいあげ、音も立てずに飲んだあと、ルアがビジネスライクな口調で問いかけてくる。
ピンク色の唇に目を向けていたことに気づき、ツトムは慌てて目を伏せた。
「い、いえ。……残りの時間は、あのテキストで勉強……しようと思います」
「そう。……土曜日に8時間の出勤を命じたのはいいけど、案外、時間をもてあましそうね」
ツトムの仕事量を頭の中で計算しているのだろう。目を閉じたルアの、長い睫が重なった。
「来週の土曜には、また別の仕事を頼んだほうがいいかもね」
「仕事を増やす……ってことですか?」
「そう。でも、何をさせるのがいいかしら……」
「お嬢様、いきなり仕事を増やしたらツトムさんもタイヘンですよ」
臼井のやんわりしたフォローをはねのけるように、ルアは胸を大きく(本当に大きく)張った。
「この私が、八頭司ルアが仕事を任せるのよ。これぐらいで音を上げるなんて許さないわ」
「が、がんばります……」
メールを振り分けるだけで、時給2800円を貰うのも気が引けていたところだ。不安が半分、自分でももっと役に立ちたいという期待が半分、というところである。
「……あ、そうだ」
食事を続けながら、ルアが片目をつぶる。本当に星が飛び散りそうな、見事なウインクだ。
「今日も似合ってるわよ♪」
「……うぅ」
いまも、ツトムはロングスカートのメイド服を着せられている。が、初日に着せられたものと同じではない。
えんじ色のワンピースにフリルとリボンがつけられたエプロンドレスは、簡素な臼井の仕事着とは明らかに方向性が違う。見せて楽しむための品である。
コスプレ用、といってしまえばそれまでだが、生地は肌触りもよく、安さが感じられない。メイド喫茶でも、なかなかここまでの衣装をそろえている店はないだろう、と思わせるほどだ。
「こんなの、どうやって用意したんですか」
「今時はこれぐらい簡単に手に入るのよ。あとは臼井にサイズをなおさせて……」
「直すって言っても、採寸なんかしてないじゃないですか」
「あぁ、それはですねぇ」
細めの目もとに笑みを浮かべて、臼井が謙遜するように口元を隠す。
「私、一目見ればだいたいのサイズはわかりますし、ましてや初日に抱きつかれたりしましたから」
「あ、あれは事故ですよ! ……って、いうか、それすごい特技なんじゃあ」
「ちょっとした経験ですよぉ」
ふふふ、とメイドが笑う。左手薬指のリングがキラキラと輝いた。
「ちなみに、お嬢様は上からきゅうじゅ……」
「それじゃ、その格好も後で撮影するから!」
臼井の言葉をさえぎって、ルアが大きな声で告げる。
「こ、これもウェイクウィンクに投稿するんですか?」
臼井の言葉のつづきを聞きたい気もしたが、ルアの不興を買いたくはない。反応するのは、ルアの宣言のほうにしておいた。
ウェイクウィンクは、SNS「ウェイカー」と提携したサービスだ。様々なコンテンツを発信・共有することができ、「ユーザー全員がクリエイティブになれる」ことを売りにしている。
そして、そのウェイクウィンクの開発・運営を行っている企業、「エヌオー・クリエイト」の経営者、つまり社長こそ、目の前にいる女子高生、八頭司ルアなのだ。
「当然♪ ユーザーが求めるものを提供するのが私たちの義務よ!」
経営者にしてツトムの雇用主であるルアが、ふたたび大きく胸を張る。
「も、求めてないと思います」
「そんなことないってば。前回の投稿、記録的にシェアされたのよ」
ルアは取り出したスマートフォンの画面を表示して、ツトムへと向ける。
メイド服姿の自分がくるりと回る動画を見つめるのにはなかなか勇気が必要だったが、目をそらすわけにも行かない。
「……わ、こんなに」
数日経つというのに、すでに数万人がその短い動画を目にしている。いまもなお、拡散は続いているようだ。
「ど、道理で……」
学校で、クラスメイトたちから時折不思議な視線を感じていた理由が、ようやくわかった気がする。ウェイクウィンクのユーザーは若い世代が多いから、彼ら彼女らも、この動画を目にしていたに違いない。
「うぅぅうう……」
「有名になったらなにかと便利なんだから、どう利用するかを考えた方がいいわよ」
時間差で恥ずかしさが押し寄せてきて頭を抱えるツトムに、無造作にカメラを向けて撮影するルア。楽しそうだ。
「ま、今回はあなただけの力というよりは、名々瀬キッカのおかげかな。いままで私に反応したことなんてなかったのにね」
お嬢様はひとしきり撮影して満足したのか、スマートフォンをしまい込んで食事に戻っていた。
「……名々瀬さん?」
「そう、天才子役の……もう子役ってこともないか。あなたと同じクラスでしょ?」
名々瀬キッカは有名人の多い紫楼館学院のなかでも、指折りの有名人……国民的女優だ。誰もが顔と名前を知っている美少女が同じクラスにいるのは、さすがに一週間足らずではまだ慣れない。
「『うちにもこんなスタッフがほしい』だって。うふふ、うらやましがってるわね」
にんまり笑顔を浮かべるルア。自慢げな表情は、喜んでいる、というよりは、ツトムを誇っているような、自信に満ちたものだ。
「名々瀬さんが……」
キッカがルアをうらやましがる、なんて、確かに若いユーザーからすればシェアしがいのあるコメントだろう。
しかし、その中心に自分がいることが、まったく現実の事件としては感じられない。
「とにかく、来週の土曜、どうするかはまた考えるわ」
呆然とする少年の様子に気づいて、指示に慣れた口調でルアが告げる。
「……あ、そうだ」
それから、なにかを思い出したように、ツトムをじっと見つめる。視線をまっすぐ向けられるだけで、少年の心臓は思わず跳ね上がった。
「な、なんですか?」
「ポカ研の皆にも紹介しないとね」
「は、はい?」
突然、まったく聞き覚えのない言葉が耳に触れて、ツトムの声がうわずる。
「ふふ。月曜日を楽しみにしてなさい」
丁寧にラッピングされたびっくり箱を渡すときのような、楽しそうな笑顔でルアが告げた。
もちろん、ツトムは全身にいやな予感を味わっていた。
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