5
あぶない、あぶない。
ひかりは敬子の好奇心の強さに危険を感じていた。
もっとも、大田原をふっとばし、あのチェーンソウ男をぶちのめしたのが、あたしだとはさすがに夢にも思っていないようだ。ましてや、あたしがサイボーグであることに気づくはずもない。
そうは思っても、今後は用心する必要がある。
校門から外に出ると、見覚えのある顔があった。全体的にホームレスに認定されないぎりぎりくらいの格好で、今どき、若者ならぜったいに被らないような帽子、にやけた顔だけど目つきだけはみょうに鋭い男。変態男を撃退したときに、声をかけてきた男だ。
「よお、ひかりちゃん」
「え? ええっと……」
ナンパ?
もしそうだとすると初体験だ。ちょっと舞い上がってしまったが、よく考えればどうして名前を知っているか? それが問題だった。
「ちょっとつき合わないか?」
「い、いえ。そういうのは、あたしだめなんです」
警戒しつつ、ひかりはしどろもどろになった。きっと顔だって真っ赤になってるにちがいない。
「だいじょうぶだよ。なにも取って喰おうなんて思っちゃいない。ただちょっとお話がしたいだけさ」
とっさにいやな予感がした。この男は、ひかりのずばぬけた運動能力を不審に思ってる。なにか秘密の匂いを嗅ぎつけたにちがいないのだ。
「あ、あの、つきまとわないでください」
「じつは君のあの活躍をビデオに撮った」
「え?」
それはまずい。まずすぎる。見ただけならともかく、映像が残っているなんて。
「つき合ってくれたら、返すよ」
「ほ、ほんとですね?」
「ああ、約束する」
男はちょっと歪んだ笑みを見せる。
ぜんぜん信用ならなかったが、無視するわけにはいかない。もしこの男が変なことをしようとするにしろ、こっちも負けない自信がある。
「あなた……誰なんですか?」
「灰枝猟太、私立探偵だ」
私立探偵? それがなんの用なんだろう? 探偵なんて、かっこいいのはミステリーの世界の中だけで、本来は人捜しや、浮気調査をしてる職業だってことくらいは知っていた。
「わかりました。そのかわり、人がいるところで」
一応用心した。
「もちろん、じゃあ、そこの喫茶店で」
そこは学校帰りの生徒がたむろしないように、ときどき生活指導の教師が見回りに来るといわれているところで、おかげで生徒はまずいない。変な噂になることもないだろう。
ひかりはその男といっしょにその店に入った。
ひかり自身、そこに入るのは初めてだったが、さして広くはないといえ、先客はひと組のカップルだけだった。ここのオーナーはおそらく学校の生徒を当てにしてオープンしたのだろうが、思惑は外れたようだ。
灰枝と向かい合って席に着くと、オーダーを聞かれたので、オレンジジュースと答えておいた。灰枝はふつうにコーヒー。運ばれるなりストローでオレンジジュースをひとくち飲むと、ひかりは口を開いた。
「なにが目的なんですか? どうして、あたしのことを調べたりしてるんです?」
そうなのだ。まずそれがわからない。この男がマスコミ関係なら、記事にしたいとか、もっと詳しく話を聞きたいとか、いろいろ考えられるが、探偵はそんなことをしてもお金にならない。
「君、スチーム娘って知ってる?」
「え?」
心底驚いた。飲んだジュースをぶうっと噴き出さなかったのが不思議なくらいだった。
「それ、なんですかぁ?」
ひかりは笑顔で答えた。もっともちょっと引きつってる気もしないではないのだが。
「一年くらい前に、子供が車の下敷きになる事件があってね。たまたまそこを通りかかった女子高生が、車を持ち上げて助けたそうだ。そして近くにいた同じ年頃の男が、彼女のことを『スチーム娘』と呼んだらしい。なにか心当たりは?」
ありまくりだ。そのふたりは真理と水貴以外にはありえない。
「は? はぁあああ?」
オーバーリアクション過ぎたかもしれない。灰枝はおもしろそうににやにやしてる。
もっとも、敬子ならもっと大げさに驚いたあげく罵倒するだろう。
「で、その……、灰枝さんは、スチーム娘を捜すのが仕事なんですか?」
「うん。そうなんだ。その助けられた子供の両親に頼まれて。ぜひともお礼がしたいと」
灰枝は、いい話だなあ、といわんばかりの表情だ。
嘘くさすぎっ! そもそもこの人、探偵というのは真っ赤な嘘で、週刊誌の記者かなんかかもしれない。
「そ、そうなんですか? だけど、残念ながら、あたしはぜんぜん知りません」
気を落ちつけるため、オレンジジュースをひとくち飲む。
「君がスチーム娘なんじゃないの?」
ぶううううう。
今度こそ噴いた。オレンジジュース、灰枝の顔、直撃。
「はわわわ。ご、ごめんなさいっ」
「いやいい。っていうか、図星?」
灰枝は、ペーパーで顔を拭き拭きしつつ、にやりと笑った。
「ぜんぜんちがいます」
嘘はついてない。まったく、これっぽっちも。
「だって君、この前、二メートルもジャンプしてたし、ひと蹴りで人間が回った。はっきりいって……」
灰枝はあたりを見まわし、近くに客やウエイトレスがいないことを確認していった。
「あれは人間を超えてる」
弁解しようにも、この男は、ビデオにまで撮影してるのだ。おそらく、何度もくり返し見たにちがいない。
ど、どうしよう?
これはほっておくと、たいへんなことになりそうだった。
「す、すみません。ちょっと、トイレに」
そういうと、そそくさとトイレの個室に逃げ込んだ。
便座の上に座ると、すかさず、スマホで真理に電話する。通じなかった。
つぎに水貴に電話する。やはり通じなかった。
「水貴先輩、緊急事態です。折り返し連絡下さい」
留守電サービスに吹き込むと、通話を切った。
とりあえず、時間を稼がなくっちゃ。
ひかりはすうっと深呼吸すると、心を落ちつかせ、席に戻った。
「あ、あの。じつは灰枝さんの知らないことがあります」
「ほう?」
目つきが一瞬で鋭くなった。
「じつは、あたし子供のころから空手を習ってて、達人なんです」
「へえ? つまり、あの超人的なパワーは修行のたまものだと?」
「は、はい。だから、あたし強いんです」
緊張してみょうに喉が渇いた。オレンジジュースをすする。
「じつは俺も空手やってるんだよね。二段」
「へええ。そうですか?」
「でも二メートルもジャンプできないし、蹴った相手が縦に回転したりしない」
「あ、あたしは、天才なんです」
無理ありまくり。もう、ごくごくとオレンジジュースを飲む。
「残念、俺は天才じゃないらしい。ところで、君の流派は?」
流派? そんなものがあるんだ。ええっと、ええっと……。
「講道館?」
「そりゃ、柔道だ」
「さ、最近じゃ、隠れて空手も教えてるんです」
灰枝は笑い出した。
あ、あれ? なんか変なこといった?
そのとき、ビービーと警報のような音が鳴った。
「あれ? 火事ですか? 変な音なってません?」
「いや、なにも聞こえないよ。ごまかし方が下手だなあ、ひかりちゃん」
え? どういうこと? これってもしかしてあたしにしか聞こえない脳内警報?
つぎにスマホが鳴った。きっと水貴からの折り返しの電話だ。
そう思ったひかりはスマホを取った。通話じゃなくてメールだった。しかし、送信先は体内異常通報サービス。
なにこれ? と思いつつ、開いてみる。
『体内に睡眠薬投入。シャットダウン完了。ただしすでに約十パーセント血液に混入ずみ』
さらに投入された薬の名称と化学式、それぞれの混合率などが羅列された。
睡眠薬? そうか、さっきトイレに行った隙に盛られたんだ。
ひかりはようやく目の前の男が相当危険な男だと悟った。
「灰枝さん。オレンジジュースに薬盛りましたね?」
「え、なんのこと?」
灰枝はへらへら笑う。
逃げよう。薬の強さがわからない。たとえ、十パーセントでも眠ってしまうかもしれない。
実際、急激に眠気が襲ってきた。
席を立とうとしたとき、足がふらつく。
「なんだ。気分が悪いのかい、ひかりちゃん。今車を呼ぶから、待ってな」
ひかりは意識を失った。
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