な、なんとかしなくっちゃ。

 ひかりは焦った。なにせ両足を縛られたまま逆さづり。目の前には新たな敵。分が悪すぎる。

 とりあえず、足に巻きついた鎖を外したかった。すぐそこに安全ネットがあるから、下まで落ちることもないし、今のままよりずっとましだ。

 腹筋運動の要領で、体を起こし、足の鎖をほどこうとしたが、体は九十度より上がらなかった。

「ぐっ?」

 な、なに? 首が……。

 首が絞まる。ひかりはとっさに首に手をやった。

 なにかピアノ線のような極細のワイヤーが首にからみついている。左右の指一本をワイヤーと首の間になんとかつっこみ、かろうじてそれ以上首が絞まらないようにした。

「ふふっ、させないよ。動くこともできないほど、がんじがらめにしてあげる」

 蜘蛛娘の笑い声が聞こえた。

 がらがらという音とともに、足が上にあがっていく。梁の上から、凶器男が腕の鎖を巻き上げているらしい。

 くの字に折れ曲がったひかりの体は、ふたたび、頭を下にした宙づり状態になろうとしている。ただ、さっきとちがうのは、首に掛けられたワイヤーのせいで、余計なテンションがかかることだ。

 早い話が、足は上に引っぱられ、首は下に引っぱられる。

「おっと、ストーップ。それ以上引っ張り上げたら、彼女の首がもげる。それじゃあ、つまんないだろ?」

 蜘蛛娘は上に向かって叫んだ。

 とりあえず、巻き上げはとまったが、凶器男は不満そうだ。

「いいじゃねえか。どうせ殺すんだろ?」

「いいや。上からは、破壊するか、捕縛するかしろといわれてるんだ。ボクは捕縛を選ぶ。だって、かわいいじゃないか、この子」

「冗談だろ、このレズ女? 俺はこいつに恨みがあるんだ。殺せるっていうから、ここに来たのによ」

「ふん。残念だね。だけど、決定権はボクのほうにある。そうだろ?」

 蜘蛛娘のほうが格上らしい。凶器男は舌打ちをしたが、それ以上反抗はしなかった。

 ふつうの人間なら、この状態で放置されたら、数分で死んでしまうだろう。それくらい、首は絞まっていた。

 ただ、ひかりの頭部は生身だが、首はかろうじて人工筋肉が入っている。だからワイヤーごときでは切れない。気道も一定以上に閉まることもなかった。そもそも酸素を必要とする体の組織が一般人に比べ、少ない。

 とはいえ、けっして苦痛を感じていないわけではない。

 逆さづりになると、頭に血が集中する。脳は生身だから、それだけで苦しいのだ。

 な、なんとか、しないと……。

 高圧電流で高速充電すれば、パワーで糸をねじ切れないだろうか?

 理科子にもらった充電用ワイヤーをとばせる時計がある。

 もっとも、そこらの道路上なら、近くの電線に飛ばしてチャージできるが、ここは高すぎる上、外回りにはネットが張られ、道路の電線を狙えない。

「ふふっ、君はボクの軍門に下るんだ。心配しなくても、ちゃんと麗狼院様にお願いして洗脳してあげるから。ボクのしもべになるんだ。いや、むしろペットのほうが近いかな?」

「い、……いや」

「つれないこというなあ。それともここで死にたい? いやだろ、そんなの?」

 たしかに死にたくはなかった。だけど、洗脳されて、こんな女に飼い慣らされるのは真っ平ごめんだった。

「選択肢をあげるよ。ボクは今から君にキスをする。死を選択するなら拒めばいい。だけど、生きていたいなら、受け入れるんだ」

 な、なにをいってるの、この人?

 ひかりは激しく動揺した。そもそもまだ男の子とだってキスなんかしたことないのに。

「ふふっ、そういえば、スパイダーマンの映画であったよね、こんなシーン。逆さづりのキス。蜘蛛娘のボクにはお似合いかな?」

 蜘蛛娘は唇を重ねた。ねっとりと柔らかい感触。ひかりにははじめての体験だ。

 舌がひかりの唇をこじ開けようとする。これを受け入れなければ殺される。

 だけど、いやだった。

 いやだ。いやだ。いやだ。ぜったいにいやだ。

 ひかりは唇を固く閉ざした。

「なんだ。死にたいのか?」

 蜘蛛娘は唇を離すと、すこし不機嫌な口調でいう。

「まあ、ここで短気なやつなら、殺すんだろうけどさ。ボクはそんなことしないよ。かわいい子を殺すのは趣味じゃないんだ。だから、待つよ。君の気が変わるのをさ。昔の武将もいってたじゃない。鳴くまで待とうホトトギスってさ。ええっと、誰だっけ、それ?」

 それは徳川家康。などとつっこむ余裕はなかった。

「といっても、このままなにもしないで待つわけじゃないよ。ん? それじゃあ、鳴かせてみせるホトトギスか? ん~っ、それは誰だっけ?」

 豊臣秀吉。すこしは勉強しなさいよっ!

 もっとも、ほんとはこの非常識な女がなにをやろうとしてるのか、怖くて仕方がない。すぐに殺されることはなさそうだけど……。

 蜘蛛娘は踊った。いや、正確にいえば、踊るように体を動かしたのだろうけど、空中に浮遊したまま踊る様は、なにか異様だった。

 いったい、なにを?

 きりきりきりきり。

 両腕が左右に広がっていく。同時に手首の回りに鋭い痛みが……。

 一瞬、念力のようなものかと思ったが、ちがう。首に巻きついているのと同じ極細のワイヤーがいつの間にか、両手首にも掛けられ、それが左右に引っぱられているのだ。

「無理に力で対抗しようと思わないほうがいいよ。手首が切れちゃうからね。ボクの出す糸は、強いテンションさえかければ、君の人工筋肉だって切り裂くよ」

 実際、手首を覆っている人工有機体の皮膚は切れ、赤い血が輪になっている。そして、掛かっている力は、明らかに首を絞めている張力よりもずっと強かった。

 いったいどうやって?

 見えないほど細い糸を使って、引っぱっているのはわかる。だけどいつの間にそんなものを掛け、どうやってひっぱっているか、さっぱりわからなかった。

 だが、その糸が恐ろしくじょうぶなのはまちがいないのだろう。おそらく蜘蛛娘自体が、その糸の上を歩いているか、糸で吊られているのだ。そうでないと空中浮遊の説明がつかないし、その場合、じょうぶでなければ切れてしまう。

 さらに蜘蛛娘はひかりの膝に手を掛けた。そのままとじ合わせた両膝を一センチほどこじ開ける。いったん開くと、もうとじ合わせることはできない。それどころかどんどん開いていく。

 不思議なことに、蜘蛛娘はとっくに手を離していた。

 どうやら、さっき膝をこじ開けたときに、糸を通したらしい。あとは手といっしょだ。

 両足首を縛られた状態で、膝を開くと、どうしても体が持ち上がる。そうすれば首が絞まるはずだが、なぜかそうはならなかった。蜘蛛娘が計算してゆるめていっているらしい。

 ひかりは、自分がどうしようもないほど、惨めな格好をさらしていることに気づいた。

 両手はまるで銃を突きつけられて、「手をあげろ」といわれたような状態だ。ただし、逆さづりの格好で。足は足首こそ、左右合わさっているが、両膝はめいっぱい開いた状態で、まるで蛙だ。蛙が水に飛びこもうとした瞬間、たぶん似たような格好になるだろう。

 とうぜん、制服のスカートはめくれ上がり、パンツは丸見え。ブレザーの上着も下に落ち、今にも脱げそうだ。ブラウスはかろうじて外れてはいないが、このままならボタンを外されてもまったく抵抗できない。

「不思議かい? なんのことはないよ。なにしろボクは蜘蛛娘だからね。体のあちこちから糸が出せるんだ。極細で高強度のものをね。しかも出すだけでなく、強い力で引っぱることもできる。それがボクの能力なんだ」

 蜘蛛娘は隠す気もないようだった。ただ、糸は見えない。細いのはまちがいないし、この暗がりだ。もうほとんど日が落ちかけ、おまけにいつの間に広がったのか、空は黒い雨雲が覆っている。もうそろそろ蜘蛛娘の表情を読み取ることもできないほど、暗くなるだろう。

 ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。ここにはまだ屋根がついていないからまともにかかる。

「ふふっ。さっきはすこし焦りすぎたよね。ごめんよ。君って、処女どころか、キスだって初めてだったんだろう? それじゃあ仕方ないね。だから、その気になるまで愛撫してあげる」

 蜘蛛娘はおぞましいことをいった。

 そのまま、ブラウスのボタンを外していった。

 い、いやぁあああああ!

 逆さづりになったせいで、ただでさえ盛り上がり、ブラからこぼれ落ちそうになった胸を見られた。

「ふふっ」

 蜘蛛娘はすごく楽しそうに笑う。

 雨がだんだん強くなっていってる。しかし、蜘蛛娘はそれを気にした様子もない。

「おい、俺はいつまでこうしてなきゃいけないんだ?」

 上から凶器男のぼやき声。

「もうちょっと我慢してろよ、無粋な男だな」

「冗談じゃねえ。俺はそいつをぶら下げたまま、突っ立ってるんだぞ。それをおまえときたら、なに考えてんだか」

「ったく。あんなやつはクビだ。かわりに君をボクの奴隷にするよ。ああ、なんて素敵なんだろう。考えただけで、ぞくぞくするよ」

「クビだ? 俺はてめえに雇われてるわけじゃねえ。ふざけんなよ。見ろ、雨が強まってきた。いつまでもこんなことやってられるか?」

「うるさいなっ」

 蜘蛛娘は上に向かって怒鳴る。

 ひかりは思った。これはチャンスなんじゃ?

 敵のチームワークは乱れている。そしてこの雨。もはや、土砂降りだ。

 ごろごろと空が鳴りはじめる。いつ稲光が起こってもおかしくない状況。

「ふん。あんなバカは放っておいて、楽しもう。すぐにボクの虜にしてあげるよ」

 上を向いてやりあっていた蜘蛛娘は、視線をひかりに戻した。

 蜘蛛娘の短い髪から滴が垂れ、白いブラウスはべったりと体にまとわりつき、ブラが透けて見える。そしてひかりを見下ろすその顔には、淫蕩な笑みが。

「無視すんな、小娘」

 上からの怒鳴り声にも、もう耳を貸さない。

 カッ!

 空が光る。黒い雨雲の中に稲妻が走るのがはっきり見えた。

 それが合図であるかのように、ひかりは動ける範囲で、足を手前に引いた。それも早く、強く。

 一見、がんじがらめのようでいて、体に巻きついている糸は、首と両手、両膝だけ。体重の大半は足首の鎖に掛かっていた。蜘蛛の糸の張力はひかりの体重を支えるものではなく、左右に引っぱるもの。上下に動く余地はあったのだ。

 ただでさえ、梁の上は濡れ、不安定になっていたはず。結果として、凶器男はバランスをくずした上、足を滑らせ、落下した。

「うおおおおおおお?」

 凶器男は完全に不意をつかれたらしい。

 もっともそれは蜘蛛娘も同じだったようで、反射的に後ろに飛びのいた。

 凶器男はまさにひかりの真上に落ちてくる。それはちょっと予定外。

 鎖を引っぱった反動で、下の安全ネット付近まで下がったひかりの体は、反動で上に戻る。

 落ちる凶器男と、はね上がるひかり。両者はまさにぶつからんとしている。

 もう、なるようになれと思った。

 ぶち上がる瞬間、ひかりは凶器男を蹴った。膝から下だけの可動で、心もとない蹴りだが、カウンターだ。

 計算してたわけじゃない。だが、凶器男はうまいこと横に飛ぶ。しかも落下のせいで、足首にからみついていた鎖はゆるんでいた。

 自分でもできすぎだと思うが、足首の分銅が外れ、凶器男はそのまま外まわりに張り巡らされている外部ネットにぶち当たった。

 普通ならそこで止まるはずだが、凶器男にとって不幸なことに、自らの体から飛び出している大鎌がそのネットを断ち切ってしまう。

 結果、凶器男の体は外に飛び出した。

「ぎゃああああああ!」

 断末魔の悲鳴とともに、凶器男は地上に落下していく。体は機械化していても、脳はまちがいなく生身だから、この高さから落ちたらまず助からないだろう。

「やるじゃないか。まさか、そう来るとはね」

 仲間がやられたのに、蜘蛛娘は余裕だった。

「いいんだ。あいつは前から気に入らなかった。君が仲間になってあいつのかわりをすればいいだけさ」

 蜘蛛娘の顔はまだ笑っている。

 もっともひかりにはこれ以上、なにもできない。

 体勢はさっきよりむしろ悪くなった。逆さのまま、大股開き。膝から下は動かせるが、足をとじ合わせることはできない。まさに悪戯してくれといわんばかりの格好だ。

「さあ、それからどうするんだい、ひかりちゃん。秘策でもあるのかな? ないなら、さっきの続きをしようか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る