凶器男を倒し、二対一から一対一にしたはいいが、それ以上の手は、今のひかりにはなかった。

 蜘蛛娘からは、仲間を倒された怒りも悲しみも焦りも感じられない。もちろん、ひかりに対する恐れなど微塵もないだろう。突く隙がないし、それ以前にひかりの体はあられもない格好で逆さづりにされ、まったく自由にならないのだ。

 かっ! 天空が光る。

 この空間内に張り巡らされている糸が見えた。

 極細の糸も、雨のせいで数ミリの水の衣をまとい、それが稲妻の光を反射したことで、目に映ったのだ。

 もっともほんの一瞬のことなので、隅々までその状態を把握したわけじゃない。

 ただ、ひかりが思っている以上に、糸は縦横無尽に張り巡らされている。蜘蛛娘がその上に乗っているのはもちろん、それ以外にもあちこちにあった。

 それらは鉄骨の柱や梁、あるいは仮設通路などに結ばれ、あるいは引っかけられ、複雑に絡み合い、その内のいくつかが、自分の手足や首に巻きついている。さらにその内の数本は、蜘蛛娘の体のあちこちとつながっていた。おそらくそれを自由に伸ばしたり、引っぱったりできるのだ。それによって、この蜘蛛の巣のような陣形が動く。

 残念ながら、それらの糸のどれをどうすれば、体が自由になるのかは、さっぱりわからなかった。

「きゃあああああああああああっ!」

 外から女の悲鳴がした。しかもかなり高いところから聞こえる。

 なに?

「ちっ、バカが……」

 蜘蛛娘はその正体を知っているらしく、にがにがしい顔をした。

 まだ、他に敵がいたのか。

 そういえば、水貴先輩がちっとも上がってこない。べつの敵と戦ってたんじゃ?

 さっきの叫びは水貴の声ではなかったような気がする。

「ぎゃあああああああああああっ!」

 ふたたび叫び声。

 同時に、ぎいいいいいいいん、という耳障りな金属音。ついでに建物が揺れた。

 柱にぶつかった?

 がくんとひかりの体が揺れる。数十センチほど下がった気がした。

 左右の手が自由に動く。

 今のショックで両手に絡まっていた糸が切れた?

「あのバカ」

 蜘蛛娘はひかりから目を離していた。振動する柱の方を見ている。

 今だ。なんとかしなくっちゃ。

 だけど、どうすればいい? 手が自由になっても、脚は拘束されたままだし、逃げることも攻撃することもできない。

 腹に刺さったままになっていた小さいナイフに気づいた。凶器男に刺され、抜く暇もなかったやつ。こいつを手裏剣のように投げようか?

 だめだ。そんなことじゃ、蜘蛛娘は倒せそうにない。

 じゃあ、他にはなにか飛び道具は?

 腕時計についた飛ばせるワイヤーくらいしかない。だめだ。先に付いたプラグが当たったところで、ほとんどなんのダメージも与えられない。

 なにかが地面に激突する音が響く。

「ちっ。大口叩いて、旧式を倒すこともできないのか、あの高慢ちき女」

 蜘蛛娘は忌々しそうにいいすてる。張り巡らされた糸の上を跳びはね、外部ネットのそばまで行くと、地面を見下ろした。さっきの衝撃で糸が二本切れたことに気づいていないらしい。

 ごろごろごろ。

 空では相変わらず、雷の音。

 それだっ!

 ひかりの頭に一瞬のひらめきが走る。

 まず、腹に刺さったナイフを抜いた。

 時計からワイヤーを引き出すと、ナイフに巻き付ける。

 右手で時計のボタンを掴み、両手をまっすぐ上に伸ばす。そのまま天に向け、撃った。

 しゅるるるるぅうううう~っ。

 ワイヤーつきのナイフは雨雲めがけて、まっすぐに伸びていく。建物の最上階の梁を超え、さらに高く。そこから十数メートルほど。

 あとはタイミング。……お願い、きてっ!

 こればっかりは運を天に任せるしかない。どうやら、ひかりは神に祝福されたらしい。

 まさにワイヤーが伸びきったころ、入道雲が光った。

 ばりばりばり。

 走る稲妻。

 どっしゃああああああん!

 雷は、伸ばしたワイヤーの先につけたナイフに落ちた。

 ワイヤーを伝い、高圧電流が、ひかりの体を駆けめぐる。

「きゃあああああああ!」

 想像以上の電圧に、ひかりは絶叫する。

「な、なんだっ?」

 蜘蛛娘の叫び声。しかし、ひかりには今、そっちに注意を払ってる余裕はない。

 意識はある。脳は直撃をくらわなかったらしい。

 しかし、服はぼろぼろになった。ブレザーも、ブラウスも、むき出しにされたショーツも、ひどい有様になっている。あちこちが焦げ、穴が開き、はっきりいうと、かなりヤバいところを露出していた。

 眼鏡はふっとび、三つ編みはほどけ、ストレートの黒髪はワイルドなウエーブがかかった。

 全身が痺れたようでいて、そのくせ、熱い。びくん、びくんと大げさに人工筋肉が痙攣した。

 ばちっ、ばちん。

 体のあちこちで火花が飛ぶ。

 ばさっ。

 いきなり、ひかりの体が落下したかと思うと、二メートルほど下にあった安全ネットに引っかかる。自分を支えていた蜘蛛の糸が全部焼き切れたらしい。

「まさか、落雷したの?」

 蜘蛛娘が寄ってくる。その顔には、呆れと、哀れみが漂っていた。

 まさか、今の落雷を、ひかりが呼び寄せたなどとは考えもしていないらしい。明らかに油断していた。

「ねえ、だいじょうぶかい? ひかりちゃん」

 蜘蛛娘は、ネット上にあお向けになっているひかりの、頭上、わずか一メートル程度のところでしゃがみ込み、見下ろした。

「なんだよ、せっかくペットにしたかったのに。死んじゃったか」

 ひかりは手を伸ばし、蜘蛛娘の足首を掴んだ。心底びっくりしたらしい。

「な、なんだよっ。生きてるじゃないか。人が悪いなぁ」

 もっとも、ひかりはそれ以上、体が動かせなかった。バッテリーは充分すぎるはずだが、さすがに落雷は瞬間的に大量の電流を流しすぎ、体の他の部分を壊してしまったのか? ショックでフリーズしてしまったのか? 声すら出ない。

「ふふっ、よっぽどボクにいたぶられたいみたいだね、ひかりは。じゃあ、遠慮なくそうさせてもらうよ」

 蜘蛛娘は両手を指揮者のように、振ると、見る見るひかりの体が足から持ち上がっていく。まるで魔術のようだ。あっという間に、逆さづりの格好になる。ただし、足首を掴んだ手は離れなかった。

 蜘蛛娘はその手を離そうと、一本一本指を引きはがそうとするが無駄だった。

「しょうがないなぁ。落雷のせいで硬直しちゃったかな?」

 蜘蛛娘はその状態で、ひかりを嬲るのを諦めたようだ。ひかりの体を掴むと、糸を頼りに空間を歩きながら、鉄骨階段の踊り場にたどり着く。

 ひかりを踊り場に寝かせた。その状態で、再度掴まれた手を離そうとする。

 だがひかりの指は固まったマネキンのようだった。

「まあ、いいや。きっと体をもみほぐせば、指も動くようになるさ」

 勝手な理屈で、ブラウスのボタンを外すと、ブラを外し、露出した乳房を揉みしだく。

 びくんっ。

 ひかりの体がのけぞった。

「そうかい? いいのかい? じゃあ、もっとやるよ」

 自分の体に異変が起こってる。

 痺れたように動かなかった体に、力がみなぎってくる。

 蜘蛛娘もそれを本能的に悟ったらしい。顔つきが変わった。お遊びモードから、戦闘モードに。

 ひかりの体が再起動した。

 ぱりっ。ぱりりっ。

 異様な音と供に無数の小さな稲妻が体をおおう。

 指が動く。蜘蛛娘は反射的に飛びのこうとしたが逃がさない。

「離せっ!」

 めきっ。

 蜘蛛娘の足の骨が鳴った。たぶん、ひびが入ったはず。

「ち、力なら、ボクのほうが上だっ!」

 蜘蛛娘は叫ぶ。その真偽はわからないが、そうでなくても、ひかりは手、蜘蛛娘は足。力くらべなら負ける……はずだった。

 だが、ひかりの腕はびくともしなかった。

「そ、そんな……」

 自信満々だった蜘蛛娘の顔が泣きそうになる。

 ひかりは掴んだ右脚を無造作に引っぱった。

 脚が股の付け根のあたりから、もぎ取れたときは、正直驚いた。パワーがまったく制御できない。

「ボ、ボクの脚がぁあ!」

 ひかりと基本的に同じ構造なら、筋肉や骨には神経が通っていないから、それほどの激痛は感じていないはず。出血も表面の人工有機体からのみ。蜘蛛娘は精神的にはすごいショックを受けたろうが、じつは体のほうはそれほどやばい状態なわけでもない。

「まだまだっ」

 ひかりの心がおどる。筋肉だけでなく、感情まで暴走していた。ふつうなら、自分のしたことにびびってしまうだろうが、なぜかさらなる破壊衝動に駆られた。

 髪の毛がぞわぞわとうごめいた。まるで蛇と化したゴーゴンの髪の毛のように。それが自分でもわかる。

 足りない。まだ、ぜんぜん足りない。

 片脚になって倒れそうになった蜘蛛娘の左足にローキック。膝が砕け、そこから分離した。

「ひゃああああああ!」

 それでもひかりの暴走は止まらない。床に落ちた蜘蛛娘の体を踏みつぶす気だった。

 しかし、蜘蛛娘の体は地に落ちない。

 翼もないのに、空中を滑るように飛び、階段から、足場のない安全ネットの上を舞う。

 忘れていた。こいつの体からは無数の見えない糸が出ていて、あちこちにくっついてる。それを伸ばしたり引っ込めたりすることで、脚なんかなくても、自由自在にこの中の空間を飛び回れるのだ。

 空中の蜘蛛娘の手のひらからなにかが発射された。

 白いテニスボールのようなものだった。それはひかりの目の前で破裂すると、なにかを周囲にまき散らせる。

「蜘蛛の糸?」

 ボールの中に仕込まれてあった糸は四方八方に飛び、まさに蜘蛛の巣のようにひかりの体をとらえる。糸自体はさっきから蜘蛛娘が使っているのと同じ素材なのだろうが、数が多い上、一本一本が体にまといつく。瞬間接着剤が塗ってあるようだ。

「それでしばらくは動けないはず。残念だけど、今回はボクの負けだ。逃げさせてもらうよ」

 たぶん、最上階を超え、外部ネットを飛び越えて、そのまま蜘蛛の糸で下まで降りる気だったのだろう。蜘蛛娘の体はさらに舞い上がる。

「逃がすもんかっ!」

 理屈じゃなかった。今のひかりは、まさに逃げるものは追う。ある意味、野獣のようなものだった。

 かまわず前に出る。

 ぶちぶちと、体とそこら中の床や柱に粘着した糸が、片っ端から切れていく。

「そ、そんな馬鹿なぁあああ?」

 上からは蜘蛛娘の驚愕の声。

 よほど糸の強度には自信があったらしい。だが、力が暴走している今のひかりにはただの細い糸にすぎない。

 恐怖の表情を浮かべ、逃げる蜘蛛娘。

 もう遠い。どうやっても届かない。自分は空を飛べない。

 そのとき、ひかりは手になにかを持っていることに気づいた。ぶん投げるにはちょうどいいもの。

 ひかりはそれ……蜘蛛娘の脚を思いきり投げつけた。

 ずん。

 蜘蛛娘のつま先が、胸を貫き、背中を貫通した。

 同時に、舞い上がっていた体が止まる。体内の糸を巻き取る機能が停止したらしい。

「そ、そんな……」

 蜘蛛娘は血を吐いた。

「まだっ。まだ足りないっ!」

 ひかりは自分が笑っていることに気づいた。まったく意識していなかったが、唇の端がきゅうっとつり上がっているのだ。

 とどめを。というより、もっとめちゃくちゃにぶちこわしたい。

「動くな!」

 上から叫び声が聞こえた。

 邪魔をするな! と思い見上げると、灰枝が敬子を吊っているロープにナイフを押し当てている。

「そこまでにしろ。こいつを落とすぞ」

「落としたら殺す」

 その一言に、灰枝は明らかにびびっていた。しかしナイフをロープから離しはしない。

「うるせい。てめえは動くな、化け物め。おい、蜘蛛娘なんとかしろ。それとももう死んだのか?」

 蜘蛛娘は反応しなかった。死んだかどうかはわからないが、すくなくとも体の機能は停止し、意識も失っているらしい。

「くそっ」

 灰枝はどうやって逃げるか考えているらしい。その場で固まったが、ひかりも近づくことができなかった。

「な、なに? いったい、どうなったんの?」

 敬子が叫んだ。どうやら、最悪のタイミングで意識を取り戻し、自分が宙づりになっていることに気づいたらしい。

 ロープが揺れる。動転した敬子がもがきまくってる。

「動くな、小娘。落ちるぞ」

「いやあああ!」

 脅しと裏腹に、灰枝にはなにもできない。振り子のように揺れ出した敬子は、灰枝に接近するやいなや、奴を蹴り飛ばした。

 もちろん、ひかりはその瞬間を見逃さない。階段を風邪のように駆け上り、あっという間に距離を縮めると、灰枝の襟首をつかみ、無造作に放り投げた。

 そのまま、灰枝の体は空中で止まる。どうやら蜘蛛娘の張った高強度の糸に引っかかったらしい。

 吊られた敬子が振り子の要領でふたたびこっちに来ると、ひかりはその体をつかみ、灰枝が手にしていたナイフでロープを切った。

「もうだいじょうぶだから」

 そういって、敬子を床に置く。

「助けてくれたの? あなた……誰?」

 敬子はひかりのことがわからないらしい。それほどまでに見た目が変わっているのだろうか? なんにしろ、ここで正体を明かすつもりはない。

 ひかりは一瞬考えて、いった。

「ごろごろどっしゃん娘」

 なんでそんなふうに名乗ったかは自分でもよくわからない。まあ、いってみればノリだ。

「あ、ありがとう。ごろごろどっしゃん娘……ひっ!」

 敬子は驚愕の表情を浮かべ、ふたたび意識を失った。

 どうやら、空中に不自然な格好で浮かんでいる灰枝と、無残な姿の蜘蛛娘の姿を見てしまったらしい。

 とりあえず、敵は倒し、敬子は救い出した。しかも敬子にひかりの正体を見破られることもなかったらしい。

 いいことだらけだ。

 そう思った瞬間、急激に力が抜けていく。立っていられなかった。

 あのときとそっくりだった。フルパワーで拘束具をぶち切り、車を破壊して、灰枝を追い力尽きたときと。

 経験上わかる。ふたたび動けるようになるまで時間が掛かる。

 きっと、このまま、警察が来て、わけのわからない化け物の死体を発見するんだ。そしたら自分もその仲間だって思われて……。

「ひかりっ!」

 いきなり抱き起こされた。

「み、水貴先輩……」

 水貴の顔を見たら、ひかりは泣いていた。涙をぼろぼろとこぼして。

 宙に浮いた、さっきまで蜘蛛娘だったオブジェを見て、すべてを悟ったらしい。水貴はにっと笑っていう。

「さっさと逃げるよ」

 気のせいか、水貴は酒臭かった。

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