第14話

 初めて子狐に出会ってから、二週間が過ぎた。


「……」


 俺は野菜の切れ端をこっそりと集め、ビニール袋に突っ込んで家を出た。それはもはや、毎日のルーティンワークになっている。しかし、外に出る俺の足取りは重かった。

 スマホのメール画面を開く。


『修一へ。お父さんもお母さんも、明日には東京に帰ります。東京駅八重洲口で合流しましょう。美味しいご飯を食べて、一緒に楽しく過ごしましょう。お婆ちゃんによろしくね』


 俺は、我ながら大人びたため息をついた。それは真冬の白い息のように、俺の顔の周りを漂った。冷たいため息だ。

 ゆっくりと、音を立てずに玄関の戸を開ける。そういえば、あの子狐に名前をつけてやらなかったな。だが正直、俺にとっては、名前の有無は些末な問題だった。

都会育ちの俺からすれば、ゲームやスマホに熱中する友人たち――決して悪い連中ではなかったが――に囲まれていて、飽きる機会が多少なりともあった。

 そんな俺が巡り合えた、人外の友達。人間同士の交流では計り知れない何かが、俺の心に沁み込んでくる豊かさ。


 そんな体験ができるのも、今日でおしまいか。俺はため息をつきつき、山道に入っていった。

 そっと草木をかき分け、焦らず騒がず登っていく。三叉路を迷わず歩み、お決まりの奇岩を目印に獣道を曲がった。


「おーい、飯だぞ、チビちゃん」


 しかし、そこに子狐の姿はなかった。


「あれ……? おーい、チビ?」


 声を低めながらも、呼びかける俺。まさか子狐は、チビ呼ばわりされたことで拗ねてしまったのだろうか。


「俺だよ、安心していいんだぞ」


 あたりを見回し、ゆっくりと目線を下げる。試しに深く息を吸ってみると、木々の香りに混じって鉄くさい臭いがした。


「まさか……!」


 俺の足元にあったもの。それは、こじ開けられた鋏状の罠と、僅かな鮮血だった。まだ新しい。

 俺は慌てて周囲に視線を走らせた。怪我をしたままどこかへ行ってしまったとしたら、いつ何時、何者に襲われるか分かったものではない。


 楽観的に考えれば、子狐は体力を回復し、自力でこの罠から脱出し、巣に帰ったと思われる。

 悲観的に見れば、動けないでいるうちに大型の肉食獣に襲われたという不吉なイメージに囚われる。


 これがどちらなのか、俺には知る由もない。

 俺は慌てた。自分が慌てていることにも気づけないほどに。


「おーい、チビ!」


 ここまで来たらもうどうしようもない。俺はすっかりパニックに陥り、森の中を駆けずり回った。婆ちゃんに『騒いではいけない』と厳命されていたにもかかわらず。

 

 気づけば、俺は森の中で完全に迷子になっていた。


「し、しまった……」


 一際暗くなった周囲の景色に、俺の額にじとっ、と冷や汗が滲む。熊の目撃情報が絶えない堅山。今そんなものに遭遇してしまったら――。

 

 俺がその危険性に気づくまでもなかった。ザサッ、と大きな何かがうごめく音が、俺の鼓膜をジリジリと揺らす。俺はゆっくりと振り返り、『相手』を見つめた。

 そこにいたのは、やはり熊だった。だが、テレビで見聞きするより遥かに大きい。仁王立ちになってうなりを上げる熊は、東京タワーほどもあるように見えた。


 俺の手からビニール袋が落ちる。逃げよう。目を合わせながら、ゆっくり後ずさりする。

 だが、それは単なる理屈だ。俺はぴくりとも動けず、恐怖で頬の筋肉を引きつかせた。


「う、うあ」


 俺の干からびた喉から出た音を、熊の唸り声が掻き消す。胃袋が底から震えあがるような声だ。死ぬという実感も湧かないでいる俺を、熊がその爪で切り裂こうとした――その時だった。

 一陣の強風が、俺の周囲に渦巻いた。いや、強風なんてもんじゃない。もっとしっかりとした、物理的な障壁とでも呼ぶべきものが、俺を包み込んだのだ。

 それは二週間前、婆ちゃんと訪れた祠で見かけた青白い光を連想させた。


 すると、熊はまさにギリギリ、俺の鼻先数センチのところでその爪を引っ込めた。前足を地に着き、ゆっくりと後退を始める熊。俺は、俺と熊との間に『何か』がいる気配を感じたのだが、結局それは今だに不明のままだ。

 確かなのは、俺は無意識のうちに堅山から無事下山したことと、婆ちゃんに大目玉を喰らったことくらい。

 いや、あともう一つ。強風に包まれた時、人間の言葉には置き換えられない、しかし確かな『意志』があることを感じた、ということだ。それは必死に俺を守ろうとする、切なくも断固とした想いだったのではあるまいか。


         ※


 これだけのことを思い返すのに、三、四分はかかっただろう。俺は青白い光の絨毯に足を取られながら、十年前の回想から自らを引き戻した。

 俺自身が何を考えていたのかはさておき、俺の足は必死に俺を例の祠へと運んできてくれていたようだ。

 相変わらず呼吸は荒いが、俺に課せられた『この祠を訪れる意義』のことを考えればどうってことはない。


 しかし、その時になって俺は気がついた。俺は今、メイド服を着ている。多少汚れているのは仕方ないにしても、『俺がこれから話をしたいと思っている相手』に対して、この格好はあまりにも酷すぎやしないか。礼を失する、という意味で。

 だが、ここでメイド服を脱いで下着姿になるのも問題だろう。俺は頭を抱えたくなった。

 ええい、イチかバチか、当たって砕けろだ。俺は顔を上げ、真正面から祠の奥部、青白い光の先に視線を合わせた。


 次の瞬間のことだ。


「うっ!?」


 突然の発光現象に、俺は慌てて腕で目を覆った。

 何が起こっている? 俺はうっすらと瞼を開け、指を開いた。するとちょうど、青白い光が凝集し、一つの球体となるところだった。

 俺の周囲は相変わらず光のベールに包まれているが、祠を覆っていた光は全て、この一点に集中したらしい。


 俺が呆気に取られてその光景を見つめていると、何かの『意志』が俺の脳内に流れ込んできた。

 それは、言葉ではなかった。言語という概念が存在しない世界のメッセージの伝達方法だ。

 言語を使うのは人間だけだ、という学者の意見を聞いたことがある。一方、一部の動物や昆虫は、ある決まった行動を繰り返すことで、人間の言語にあたるようなメッセージの遣り取りをしているという話もある。


 もしかしたら、そんな『メッセージ』が、種の壁を越えて伝わってもおかしくはないのではないか。

 俺と『俺の話したかった相手』は、まさにそんな空気に包まれていた。

 無理に相手に合わせて、ジェスチャーをする必要もない。俺は素直に、口から言葉を発することにした。


「俺は……じゃない、私は、えっと、堅山黎明高校の荒木修一、です。今日は、その……謝りに来ました。それと、お互い戦うのは止めてもらえないかと」


 そんな俺の拙い言葉に対し、ドクン、と脈打つような感覚が返ってきた。どうやらこの球状の光こそが、『俺の話したかった相手』、土地の主を超えた『堅山の主』であることは間違いないようだ。

 主が俺に、意識を向けてくるのが察せられる。俺はいつか、子狐との交流で感じたのと同じ一体感を覚えた。

 言葉を続ける。


「正直、高校に入るまで、私も謝りたいとは思っていませんでした。でも、婆ちゃ……祖母の話を聞いたり、土地の主の怒りを見て、考えるようになりました。その、あー、なんて言うか……。これって、人間が自然を壊しすぎなんじゃないかって」


 俺は一旦、唾をぐっと飲み込んだ。


「でも、人間にもいい奴はいます。一之宮葉子っていうクラスメートが、頑張って人間と霊たちの戦いを止めようとしています。私は、彼女が正しい、って言うか、正義だと思います」


 ざわめく気配。小さな祠の中で、堅山の主は遥か遠くにまで思索の道を歩んでいる、そんな感じがした。


「今、土地の主が倒されてしまって、葉子はひどく落ち込んでいます。そんな思いやりのある奴もいるんです。俺も人間と自然の戦いを止められるよう頑張ります。だから、どうか落ち着いて――」


 そう言いながら、俺は一歩、祠に歩み寄った。そして深々と頭を下げる。

 だが、その挙動は途中で強制終了させられてしまった。ドン、と鈍い音と共に、俺は突き飛ばされたのだ。


「今だ! 撃て!!」


 空を切り裂く、若い女性の叫び声。直後、四方八方から銃声が轟いた。それは、戦争映画で聞くような重厚さは備えていない。むしろ、SF世界の光線銃のような、ピリピリとした振動を俺の鼓膜に残していく。

 

 何だ? 誰だ? 誰が何を撃っている!?

 俺はわけが分からないなりに、叫んでいた。


「止めろおおおおおおお!!」

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