第2話
「だからさ婆ちゃん、そういう時代なんだってば」
「いーや、わしゃあ納得せんぞ! あんな場所に学校を建てて、そこにお前をやるなどと……」
入学式前日。
俺は祖母の家で、ぼんやりテレビのニュースを見つめていた。
俺の父が物理学者、母が生物学者として世界中を飛び回ることになり、俺は一時的に祖母の家に預けられることになっていた。といっても、その期間は約一週間。
俺が通おうとしている堅山黎明高校は、全寮制の共学の高校だ。その場所は、北関東の片田舎。いや、ド田舎か。本屋は一軒。コンビニは午後九時で閉まる。レンタルビデオ屋などという高度文明の気配は影も形もない。
さて、どうして俺の祖母が憤慨しているのか。それは、二年前から近所の裏山、通称堅山にまで開発の波が及んでいるからだ。
バブル期ですら見向きもされなかった、ただの荒山。荒山といっても、土砂が剥き出しなわけではない。森林が深いのだ。お陰で、祖母のような高齢者でもなければ、思い入れも何もない。俺が幼い頃、祖母の家に遊びに来た時も、俺が山に深入りしないようにと目を光らせていた。
逆に言えば、祖母の世代の人間からすれば、堅山は一種神聖な場所だった。年数回の祭事や信仰の場所になっていたのだ。確かに、そんな土地を開拓されて、気分がいいものではないだろうが。
「お、ちょうどニュースでやってるじゃん」
俺は祖母の相手をするのに疲れ、テレビを指差した。
《この堅山黎明高校は、世界でも類を見ない大規模な土地の開拓によって生まれました。その目的は、日本に残された貴重な植生を生徒に学ばせることにあり――》
「ふん、何が『貴重な植生』だい! それを壊してこいつらは学校を建てたんじゃ、本末転倒もいいところだわい!」
祖母が言った『こいつら』。指差すその先には、『堅山黎明高校理事長・高橋辰夫』の写真と簡単なプロフィール、その他重役の顔が映っている。
次から次へと愚痴を漏らす祖母を無視し、俺はテレビを見遣った。細い目に薄い唇、黒髪をオールバックにした五十代くらいの男性。
この人が理事長、か。なんだか胡散臭いな。内心呟きつつ、俺はゆっくりと畳から尻を上げた。
「全く、こんな輩、堅山の神様の祟りに遭ってしまえばいいんじゃ! そう思わんか、修一?」
「あー、婆ちゃんの気持ちは分かるけど、俺も明日から暮らす場所をそんなに悪く言われたくはないな」
事実、俺はそんなに気にしているわけではなかった。だが、そんな俺の言葉を無視してテレビに説教を垂れる祖母には、少しばかりカチンときた。
まあ、風呂に入って水に流そう。
「風呂、先に入ってもいいかい?」
「構わんよ。わしはこやつらに呪詛をかけねばならんでな……」
おいおい、そうおっかないこと言わないでくれよ。
よく『意外だ』と言われるが、俺は幽霊や妖怪といったものが苦手なのだ。
「勘弁してくれよ……」
そう言いながらかぶりを振る。不吉な何かを脳みそから追い出しつつ、俺は風呂場へと向かった。
※
「……何だ、これ」
俺は呆然としていた。一週間前に祖母の家に来てから、一度として堅山には入っていなかった。外出する暇がなかった、と言ってもいい。堅山黎明高校と言えば、理系、とくに生命科学系の学生が集う。入学決定後の宿題もどっさりだ。
だからこそ、数年ぶりに堅山を見た俺は驚いた。
整備された三車線道路。緩やかなアスファルト。綺麗に配置された針葉樹林帯。
そこに、かつての面影はなかった。虫を取りに分け入ったり、小川に沿って登ったり、草っぱらに寝っ転がったりした光景は。
ありのままの自然の中で、僕は育った。もちろん、祖母に注意を受けながらではあったけれど。両親の実家に帰ってもよく山で遊んだが、堅山には特別な思い入れがある。
それがしばらく見ないうちに、こんな様子になっているとは……。文明の利器、恐るべし。
しばらく登っていくと、いくつかのビル群が見えてきた。まさか一つの街ほどはないだろうが、それにしても広大だ。高校の教室棟と生徒の宿泊棟を合わせると、こんな規模になるのだろう。木々や花々の香りに代わり、新しい建築物特有の、無機質な匂い――慣れないが嫌いではない匂い――が漂ってきた。
真正面から建物群を捉える頃には、俺は汗だくだった。それはそうだ。生活用品一式をボストンバッグに詰め込み、半ば引きずるようにしながらブレザー姿で登ってきたのだから。いくら整地されているとはいえ、インドア派の俺にはなかなか堪える。許可があればさっさとブレザーを脱いでシャツ姿になりたいところだが、入学式が控えている以上、そうも言ってはいられまい。
改めてビル群を眺める。ひとまずの印象は、まるでここだけ突然都会になったかのようだ、ということ。近未来的と言ってもいい。ガラス張りの建物が散見され、しかし教室棟はコの字型を描いている。そこだけ普通の高校のようだ。恐ろしく清潔的であることを除けば。
それを見て、俺は一人、当然のことに気づいた。
先輩はいないのだ。俺たちが一期生なのだから。道理で生活感が感じられないわけだな。
俺は取り敢えず、昇降口でシューズ――履けばその人のサイズに合わせてくれる優れ物だ――を装着し、自分の教室、一年B組へと向かった。入り口で、そっと顔を覗かせる。
「うわあ……」
入試の時も思ったが、皆が皆インテリに見えた。こんな綺麗な教室で見ると、その感慨もひとしおだ。まあ、入試は全国各地で指定された会場で行われたから、高校の様子はパンフレットやホームページで見るしかなかったのだが。
しかし、そんなインテリたちも緊張を隠せないでいるらしい。軽い咳払いや鼻をすする音、筆記用具をいじる音。会話は全くと言っていいほど聞こえてこない。代わりに聞こえてくるのは、窓の外から響いてくる虫や鳥の鳴き声だ。俺には聞きなれた響きだが、都会育ちの生徒達にはどう聞こえるのだろう。
その時だった。
「あ」
誰もボストンバッグなど身近に置いていないことに気づいた。そうか。最初に寮の自室に行くべきだったか。
「まだ運ぶのかよ、これ……」
俺はため息をついて、一旦教室を後にした。
寮はなんと、個室だった。流石私立で金をかけさせるだけのことはある。真っ白な壁と天井にフローリングの床。端にベッドがあり、正面は広い窓になっている。まあ、それ以上語るべきことはない。
と、思ったら、トイレの横にもう一つドアがあることに気づいた。
「おおっ!」
そうか、バスルームか。ここまで個別とは、大盤振る舞いだな。しかし、シャワーが出しっぱなしになっている。
そもそも部屋の入り口に、鍵はかかっていなかった。何も荷物は置かれていないはずなのだから当然だ。
それなのに、誰かがいる。鍵もかけずに何をやっているんだ?
俺は霞のかかった扉を拳で叩いた。
「あのー、誰かいますか?」
声をかけるも、返ってくるのはシャワー音のみ。ええい、誰がいようがいまいが構うものか。俺は思いっきりドアを押し込んだ。そして――後悔した。
面識のない少女が、シャワーを浴びていたのだ。無論全裸で。
「うわっ!?」
俺は慌ててドアを引いて閉めた。
な、何だ今のは!?
ふと左右に目を遣ると、確かに洗面台のわきの籠に、女子のものと思われる制服やら何やらが入っている。へー、下着はピンクか。
「ってんなこたあどうでもいい!!」
誰だ? 何者だ?
俺は首をぶるぶると振ってから、バスルームのドアの向こうに呼びかけた。
「あ、あんた何者だ? どうしてここにいる? ってか、ここは男子寮だぞ!」
相手は無言。返事の代わりに、シャワー音が止んだ。話す気になったらしい。
「もう一回訊くぞ、あんたは一体――」
と言いかけた直後、向こうからドアが引き開けられた。
「ぶふっ!?」
今度こそ、俺の鼻腔の粘膜が破れた。信じられないくらいの勢いで飛び出す鼻血。
慌てて目を逸らしたが、高校生とは思えないナイスバディは瞼の裏にきっちり焼きつけられてしまった。
「あの~」
相手の少女は、ようやく声をかけてきた。高めのソプラノヴォイスだ。
「は、ははははいぃい!?」
俺は右手で両目を、左手で鼻を覆いながら答えた。
「荒木修一さんですか~?」
「そ、そそそうです! それよりまず服を……!」
「あ、これは失礼しました~」
俺は少しばかり安堵して、僅かに目を開けた。しかし、目に入って来たのは、間近に迫った少女の顔だった。
「だ、だから服を!」
「あなた、荒木修一さんですね~? 確認がしたかったんです~」
パッチリした瞳が特徴的な、『綺麗』というより『かわいい』顔つきだった。
俺は必死に彼女の目を見つめ続けた――でないと、他の部分に目がいってしまう。
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