第3話

「あーもうとにかく! あんたはちゃんと服を着てくれ!」


 俺は顔を逸らし、尻餅をついた状態から腰を浮かせて振り返った。

 俺の言葉に素直に従ったのか、謎の少女がいるであろうところから衣擦れの音が聞こえてくる。それはそれでドキドキさせられたけれど。


 俺はポケットティッシュを取り出し、鼻に詰めながら考えた。やましいことに考えが及ばないようにするには、何か話をすべきだ。


「あ、あんた、名前は?」

「名前?」


 ん? 自分の名前を忘れたのか? いや、考えているのか? いずれにせよ、奇妙なことだ。まあ、そもそもの出会い方からして奇妙だったけれど。


「まさか、記憶喪失なんて言い出すんじゃないだろうな?」

「ど忘れしちゃった」

「はあ!?」


 思わず振り返りそうになったが、俺は慌てて視線を前方に戻した。


「ど、ど忘れって、あり得ないだろ!?」

「うーん、えっとね」


 しばし無音。


「あ、そうだ、一之宮! 一之宮葉子!」

「いちのみや、ようこ?」

「うん!」


 威勢よく頷く気配がする。すると同時に、衣擦れの音が再開された。はい次。次の話題だ。


「どうして俺の部屋にいたんだ?」

「荒木修一くんと話をしたかったから」


 それで待っていたわけか。それに、身だしなみを整えるのに、勝手にシャワーを使っていたと。


「でも、男子寮と女子寮は別な建物だぞ? どうやって入ってきた?」


 すると、ぴくりと肩を震わせるような空気の振動があった。


「どうやって入ってきたんだ?」


 俺が質問を繰り返すと、葉子は一旦深呼吸をして言葉を続けた。


「その質問には答えられないの」


 何だって?


「何故だ? 答えられないってどういう意味だよ?」


 もし今の時点で方法や理由を確かめなければ、俺は今後、葉子の無断入室を許してしまうことになる。それは勘弁願いたい。勉強するにも落ち着かないだろうしな。

 もう着替えも終わっただろうと思い、俺は立ち上がってその場で百八十度回転。正面に葉子の姿を捉えた。ちょうど制服のブレザーに袖を通すところだ。

 俺の言葉や態度に怒気が込められているのを察したのだろう。葉子は少し眉を顰め、困惑したように俯いた。

 相手が男だったら、俺はそいつの胸倉を掴んで揺さぶるなり何なりするところだ。しかし、今の相手はか弱い美少女である。手を挙げるわけにはいかない。


 そんな俺の心理的葛藤を打ち切ったのは、室内にあった壁掛け時計だった。


「あ、やっべえ!」


 新入生入場まで、あと十分を切っていた。すぐに教室に戻らなければ。


「あんた、いや葉子、急げよ!」


 俺は葉子を自室から引っ張り出し、外から鍵をかけた。葉子はといえば、現状を把握しそびれているのか、ぼんやりとした態度を崩さない。


「ほら、急げって!」

「あ、うん」


 じれったくなった俺は、ぱっと葉子の手首を掴んだ。


「お前、クラスは?」

「一年B組」

「なんだ、一緒か! 走るぞ!」


 俺は葉子と手を繋ぐようにして、取り敢えず待機場所になっていた教室へと駆け出す。

 その時になって、もう一つ俺の脳裏に疑問が浮かんだ。葉子は『俺と話をしたかったから』俺の部屋にいたのだと言っていたが、理由は何だ? 俺が何か特別なことをしたか? 記憶にはないが……。まあ、今この疑問は後回しだ。


「スピード、上げるぞ!」

「うん!」


 どこか楽し気な葉子の返答を聞きながら、俺は寮の階段を駆け下りた。

 

         ※


 再び校舎に駆けこんだ俺たちを迎えたのは、キンキンによく通る女子の声だった。


「わたくしのお父様はこの高校の理事長でしてよ! おーっほっほっほっほ!」


 何だ何だ? 俺と葉子は一旦立ち止まった。


「やたらと元気な奴がいるな……」


 手を繋いだまま、ゆっくりと教室の前を通り過ぎていく。どうやら声の発生源は、俺のクラス・一年B組であるらしい。試しにC組を覗いてみたが、多少ざわついている。皆、多少の困惑状態にあるらしい。まあ、それが会話を促す潤滑剤になってくれたのかもしれないが。


 で、我らがB組。俺はゆっくりと、開きっぱなしになっていた後部ドアから教室内を覗き込む。すると、目に入ってきたのは教室前方、教卓の上に腰を下ろした小柄な女子だった。

 ツインテールでまとめた髪に、細くてどこか鋭い目。小柄な体躯。まるで女王かお姫様かといった風情でふんぞり返り、長い足を組んでいる。

 そんな彼女の周りには、女子を中心に人の輪ができていた。


 どうやら入学式前の待ち合わせには間に合ったらしい。その安堵感を抱えつつ、俺は自分の席――葉子の隣、教室中央だった――につき、鞄を置いた。

 葉子の反対側を見ると、何やら教科書に向かって書き込みをしている男子がいた。予習だろうか? 熱心なことだ。……じゃなくて。


「なあ、勉強中悪いんだが」

「ん? 何かね?」


 顔を上げる男子。丸眼鏡にぽっちゃりとした体形をしていて、何だか話しかけやすそうな、温厚な雰囲気を醸し出している。


「あの教卓に座ってる女子、何者なんだ?」

「ああ、彼女は高橋美玲氏だよ。本人が言っている通り、高橋辰夫理事長の一人娘だ」


 理事長の娘か。権力者め、などとは思わないが、あのデカい態度は気に食わないな。つるぺったんなくせに。って、どこを見てるんだ俺は。

 ふと、俺はまだ当の男子に自己紹介をしていないことを思いだした。


「悪い、自己紹介が遅れた。俺は荒木修一。席順はこのままかな?」

「うむ。そのようだ。僕は堂本淳平。よろしく」

「ああ、よろしくな」


 すると淳平は軽く頷き、すぐに教科書に目を落とした。

 さて、この会話中、葉子は何をしていたのか。彼女の挙動不審さを朝から見せつけられた俺は、ゆっくりと身体を反転させて葉子に目を遣った。

 そして内心驚いた。彼女もまた、教科書を開いていたのだ。

 俺は少なからず焦った。あの葉子ですら勉強を始めている。スタードダッシュでこの一年間は決まるだろうから、俺も自分を叱咤しなければ。


「なあ一之宮、お前は何を勉強――」


 と言いかけて、俺は呆気にとられた。


「入学式前から落書きかよ!」


 俺は軽くノートを丸め、ポカン、と葉子の頭を叩いた。しかし、葉子は落書きの手を止めない。さらに、彼女が描いていたのはわけの分からないものだった。

 ページの下から、緑色のクレヨン(未だにクレヨンなんか持って来ていたのか)でひたすらに文字を塗りつぶしていく。


「あー、一之宮さん? あなた、何を描いていらっしゃるのでしょう?」

「……」

「一之宮?」


 葉子は俺を無視した。いや、気づいていないのか? 

 俺がため息をついて背もたれに身体を預けると、ようやく葉子は顔を上げた。そして一言。


「おうち」

「……はあ?」


 ページの下から三分の一ほどが緑色に染まっているが、それ以外のものは何も描かれていない。強いて言えば、緑色の先端がギザギザになっているところだ。何を意図しているのだろう? ま、俺の知ったこっちゃないが。

 その時だった。


「ちょっとお、そこのアナタ!!」

「は、はい?」


 突然、前方から声をかけられた。声の主は、誰あろう高橋美玲である。

 彼女はビシッ! と俺に人差し指を突きつけている。


「わたくしがいるのに他の女子と話をするなんて、いい度胸をしていらっしゃいますわね!」


 周囲の視線がサッと俺に集中する。おいおい、何が何だってんだ。


「そ、それがどうかしたのかよ?」


 すると美玲はピクリ、と片眉を上下させた。


「目の前にこんな麗しくて優雅でおしとやかな美少女が鎮座しているというのに、どうして余所見をしているのかを尋ねているのですわ!」

 

 要は周囲、特に男子の注目の的になりたいと?

 まあ確かに、遠巻きにではあるが、男子たちも美玲を注視している。


「生憎、俺はこのクラスで二人としか話をしていない。ああ、あんたを入れて三人か。それなのに、あんたばっかりジロジロ見るのは失礼だと思ってな。何か問題でも?」


 美玲の眉は、今度は両方が吊り上がった。首元には青筋も立っているようだ。

 美玲はすらっとした両足を組み直しながら、じっと俺を見下ろした。


「いいこと? よーく耳の手入れをして聞きなさい? 私はこの堅山黎明高校の理事長、高橋辰夫の娘、高橋美玲よ? わたくしがお父様にあなたの素行の悪さを訴えれば、あなたを退学処分にもできるのよ?」

「ふむ……」


 俺は顎に手を遣って考えた。

 確かに、この高校の第一印象は良好だ。いきなり退学、転校ともなれば一抹の寂しさは残るだろう。だが、そのために自分を殺し続けるのは、それはそれで気分が悪い。どうしたものか。


 すると、バン! という大きな音がした。教卓に座っていた美玲が、座ったまま踵で教卓を蹴りつけたのだ。

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