第20話

 長く煙を吐き出した後、後藤先生は夢見るように視線をさまよわせた。ただし、夢とは悪夢のようだ。


「私ね、昔NGOでいろんな国にいったことがあるの。医療スタッフとしてね。全く酷いものだった。ま、細かい話を始めると気分が悪くなるでしょうから、これ以上は言わないけど」


 久しぶりに森田先生に視線を遣る後藤先生。森田先生は目をパチパチとしばたきながら、緊張感を新たにした様子だ。


「私がNGOを辞めてフラフラしていた時、今の高橋理事長が拾ってくれたのよ。それが半年くらい前の話。だから、私教員免許なんて持ってないのよ? ただ、それを誤魔化すだけの力が高橋財閥にはあった、ってこと」


 後藤先生は空になったコーヒーの缶に煙草を突っ込んだ。


「その時はもうこの敷地は財閥に買収されていて、建物の基礎工事も始まっていたみたい。教員集めが本格化していた頃ね。どうして私なんかを採用したのか分からないけど……。国際感覚のある先生を並べておきたかったのね、きっと」


 沈み始めた日光が、切り絵のように俺たちの影を形作る。俺は一つため息をついて、再び考え込んだ。

 後藤先生からもたらされた真実……というか『現実』は、実に冷たいものだった。そして手垢にまみれた金属の臭いがする。これが金の臭い、というやつか。こんな圧倒的な、目に見えない現実を前に、俺には一体何ができるというのだろう?

 いや、そもそも俺が『自分に何ができるか』などと考え込むのもおかしな話なのかもしれない。おこがましいというか、何というか。

 生徒一人が、財閥主体の学校の在り様に異議を挟むのは、単なるわがままに過ぎないのではないか。背伸びをしすぎなのではないか。


 しかし、一つだけ気がかりがある。葉子のことだ。

 彼女は学校がどうこうと言うのでなしに、行動を起こしている。そして俺は、そんな彼女を手伝いたい、助けたいと思う。そこに学校だ生徒だという立場は関係ない。


 必死に相互理解の橋渡しをせんとする葉子。戦いを嫌い、なんとか人間と自然の妥協点を模索する葉子。

 好きだとか守りたいとか、大したことは言わない。だが、手助けがしたい。

 俺には一体、何ができるだろう?


 俺たちの沈黙を破ったのは、柔らかなチャイムの音だった。


《生徒及び教職員の皆さんへ。これより、警備部隊が脱出口を作るため、特殊作戦を行います。皆さんに危害は及びません。しかし、机の下に入り、頭部を手で守ってください。繰り返します――》


 途端に校舎は騒がしくなった。誰が何を言っているかは流石に分からないが、『特殊作戦』という言葉がパニックを引き起こしたのは間違いない。各教室に配された隊員や先生たちが、上手く場を収めてくれればいいのだが。


「きっちり三百秒後、銃撃が始まるようね。森田先生も荒木も高橋も、机やベッドの下へ」


 後藤先生が静かに指示をする。俺たちは各々、窓から離れて物陰に入った。俺はベッドの下に滑り込む。するとすぐに、美玲が隣に入ってきた。


「お、おい、どうした?」

「一人にしないで!」

「だったら先生の方に行けよ! 森田先生、仲良しなんだろ?」

「だって遠いじゃない!」


 小声で叫ぶという器用なことをしつつ、俺と美玲は押し合いへし合いする。しかし、『残り三分』というアナウンスを期に、流石に黙り込むことになった。

 互いの呼吸音が聞こえるほどの距離で、肩を寄せ合う。高校生にもなって何をやっているんだか。気まずい空気に、俺はため息をつく。その息をかき消すように、『残り三十秒』というアナウンスが響き渡る。


 俺は胸中でカウントダウンを開始した。残り二十秒……十五秒……十秒……。ちょうど零秒を数えたところで、窓の方から自動小銃がうなりを上げ始めた。俺の数え方は的確だったらしい。


「きゃっ!」


 美玲が慌てて耳を押さえる。そういえば、エリンもこの作戦に携わっているのだろうか? 自分の信念を貫いて、あの冷淡な顔つきで銃を握っているのだろうか? そして、葉子は無事だろうか?


 五分近く、銃声や小さな爆発音が響いていた。新たな音が飛び込んでくる度に、美玲は肩を震わせる。


「大丈夫か?」


 俺は声をかけたものの、美玲にはそれに応じる余裕はないようだ。まあ当然か。本当は、これだけ気の小さいやつなのだから。

 それから約二分後、つまり攻撃開始から七分後。銃声はピタリと止んだ。


《まだ作戦は続行されます。皆さん、落ち着いてそのまま待機してください》

「次はヘリからの機銃掃射か」

「ひっ!」


 ガツン、と鈍い音がした。隣を見ると、美玲が額を押さえてうずくまっている。悲鳴を上げて跳び上がりかけ、ベッドの裏に頭をぶつけたらしい。まあ、その姿勢の方が安全かもしれない。

 しかし、いくら待っても――少なくとも五分は待ったが――銃声が聞こえてはこない。どうしたのだろうか。俺がベッド下から顔を出したちょうどその時、後藤先生のイヤホンが鳴った。


《機銃弾全弾命中、しかし目視による結界の損傷、確認できず! 繰り返す――》


 ヘリの機銃が効かないのか? 土地の主にあれだけ傷を負わせたというのに? 今度こそこの山は、否、自然の力は、俺たちに容赦しないらしい。

 結界を張るのにどれほどの力が必要なのか、見当はつかない。だが、このままでは俺たちは山を下りられず、補給路を断たれて餓死してしまう。


《作戦終了、各員、通常の警戒態勢に戻れ。繰り返す。作戦終了――》


 無線に混じって聞こえてきたのは、大きなため息。後藤先生だ。森田先生は窓側の壁に背を当て、自動小銃を構えながら窓の外を観察している。

 気づけば、美玲は俺に引っついたまま、まだガタガタと肩を震わせていた。


「おい、終わったぞ、美玲」

「……えっ?」

「作戦終了だそうだ。失敗したみたいだけどな」

「そ、そう……」


 美玲は手を額から下ろし、ぺたり、と床にへばってしまった。彼女にとっては、作戦の成功の是非よりも、戦闘が終わったことの方に意味があるらしい。まあ、誰も自分の近くで銃弾が飛び交うようなことはご免被りたいところだろうが。


「全く、人騒がせね」


 そう言って、デスクの下から這い出てきたのは後藤先生だ。パンパンと白衣を叩いて埃を落とす。


「二人共、出てきていいわよ」

「はい。ほら、美玲。先に出てくれ」

「ちょ、ちょっと待って。足が……」


 どうやら美玲は、末梢神経を扱う感覚を忘れてしまったらしい。


「ったく……。ほら」


 俺はそっと美玲の足に手を当て、軽く押してやった。


「あ、えっと」

「どうした?」

「……ありがとう」


 慌てて目を逸らす美玲。ああ、そうか。きっと誰かに礼を述べるということに慣れていないんだな。俺は『気にすんな』とだけ言って、美玲のシューズを持ち上げ、ベッドの下から押し出した。

 続いて出ながら、俺は自分の身体が思いの外凝っていることに気づいた。


「んっ……」


 頭上で腕を組み、伸びをする。やはり俺も緊張していたようだ。

 すっと深呼吸をし、軽く屈伸をする。その時だった。


「おい、大丈夫か! もう少し辛抱しろよ!」

「保健室は? 保健室はどこだ?」

「この先、突き当たりです!」


 ん? 今の声は……?

 俺がはっとして振り返ると、いつかの中庭と同じように、保健室のドアが蹴り開けられた。


「後藤先生! 負傷者です!」

「聞こえてるわよ。奥のベッドへ、早く!」


 鋭い、というより太い声で、後藤先生が指示を飛ばす。

 先陣を切っていたのは、やはりエリンだった。入り口からぱっと飛び退くと、後から担架を担いだ警備隊員が入ってくる。担架に載せられていたのは、彼らと同様の黒い迷彩服を着た隊員。しかし、肩が大きくえぐられ、そこに包帯が押し当てられている。また、反対側の腹部からは血が滴っていた。


「森田先生、止血の準備。縫合用のホチキス、熱湯消毒急いで」

「りょ、了解!」


 淡々と、そしてキビキビと手術の準備をする後藤先生。


「荒木くん、棚からモルヒネ取って。注射器も一緒に」

「は、はい!?」


 俺は素っ頓狂な声を上げてしまったが、断るだけの心理的余裕はなかった。エリンの前を横切り、戸棚を引き開ける。モルヒネと英語で書かれた小瓶と、そばに置かれていた注射器を数本取り出した。


「注射器は森田先生に渡して。モルヒネは私のデスクの上に。美玲さんは見ない方がいいわね。しばらく廊下の方を見てて」

「あ、え、はい!」


 後藤先生は、実に冷静だった。これだけ場を動かしていながら、自分は自分で手術の準備をしている。白いゴム製の手袋をつけ、マスクを装着し、黒い長髪をポニーテールにひっつめる。まるで医療ドラマのようだと俺は思った。

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