第34話

「葉子が……葉子さんが死んじゃったよぉ……!」

「……ッ」


 泣きじゃくる美玲に抵抗を試みるように、エリンも歯を食いしばる。自分まで泣き出すわけにはいかない、とでも思っているかのようだ。

 ちょうどその時、バタバタと廊下を駆けてくる足音が聞こえた。数人いる。俺がそっとエリンを離し、保健室のドアへ振り返ると、白衣に医療キットを手にした五、六人の医師たちが駆け込んでくるところだった。


「後藤副長! フォックスハンンター救急医療班、只今到着しました!」

「あら、ご苦労様。森田先生、後をお願い」

「わ、分かりました!」


 すると、後藤先生はこちらに向かって歩を進めてきた。微かに返り血のついた白衣のまま――と思ったら、ばさりと袖を引き抜いて脱ぎ捨ててしまった。その下には、白いカッターシャツのような服を着ている。


「山登りには、こっちの方が動きやすいし、ちょうどいいわ。場所の見当はついているのよね、荒木くん?」

「あっ、はい」

「それじゃ、行きましょうか。荒木くん、堂本くん、美玲ちゃん、エリンちゃん、理事長、それに私。六人ね」


 そこまで言って、後藤先生は口を閉ざした。その視線は俺に注がれている。そして唐突に、ごく当たり前のことに俺は気づいた。

 葉子を連れていかなければならない。

 そして葉子は、あのカーテンの向こうに横たわっている。


 俺は先生に目だけで頷き、ゆっくりと保健室を横切った。恐る恐る、カーテンに手をかける。そう、俺は恐れていたのだ。理事長が金を恐れたこととは、少し違うかもしれない。

 彼が恐れたのは、『今あるものが失われる』ことだ。

 俺は違う。『今まであったものが失われてしまった』という、絶望的な事実に基づく恐れだ。


 俺は一つ深呼吸をし、わざととぼけてみせることにした。


「葉子、入るぞ」


 自嘲したい気持ちが湧き上がってくる。一体、何馬鹿なことを言っているんだ、俺は?

 そんな自虐心の中で、俺は勢いをつけ、カーテンをすっと引いた。

 葉子は、静かに眠っていた。正確には、眠っていた『ように見えた』だけなのだが。


 シーツの中から頭だけを出し、その冷え切った身体を横たえている。俺はゆっくりと、葉子に手を差し伸べた。


「……」


『ごめん』。そう呟くつもりだった。だが、そんなたかが三文字の言葉が出てこない。これじゃあ、理事長と同じじゃないか――。

 畜生、こうなったら一刻も早く、葉子を母親に会わせてやるしかないじゃないか。それしか俺にはできないじゃないか。

 決して乱暴ではなかったと思う。だが、それなりに勢いよく、俺は葉子の身体を抱き上げた。こんなに小さかったっけ? でも、しっかりとした重さはある。これが葉子の亡骸、か。


 気づいた時には、俺は保健室から出るところだった。五人が俺を取り囲むようにして立っている。心配で、気づかわしげで、それでいて俺に決意を促すような視線を感じる。


「それじゃ行こうか、皆」


 とだけ告げて、俺は昇降口へと向かった。


         ※


 夕日とアスファルトから発せられる熱が、視界を滲ませる。陽炎のせいだと思いたかったが、それだけでないことは俺自身が一番よく知っている。涙腺が緩んでいたのは、女子二人だけではなかったらしい。

 

 俺たちは山道に入った。するともうすぐに獣道だ。


「皆、足元に気をつけて」


 振り返ってそう言うと、分かっていると言わんばかりに後藤先生が俺を追い抜いて行った。

 不意に、俺は先ほどの疑問を思い出した。


「あの、後藤先生」

「うん?」


 こちらを見こそしなかったが、先生は俺の問いかけを促すような調子で応えた。


「さっきも少し聞いたんですけど、先生は高橋財閥に入るまで、どこで何をしていたんです? あ、もし答えたくなかったら――」

「五年前から三年前まではアフリカ、それから去年までは中東から東南アジアを点々……。日本に帰ってきたのは半年前ね」

「何をなさっていたんです?」

「希少動物の保護活動」


 そうか、自分が獣医師だと言っていたのはそういうことだったのか。


「荒木くん、今すごくのどかな光景を想像したんじゃない?」

「え?」


 突然問い返されて、俺は慌てた。何も想像していなかったからだ。


「毛皮や角、牙なんかを求めて密猟をする連中も多くてね。こちらの保安チームと銃撃戦になったことも何回……いえ、十何回かはあったかな」


 俺は『は?』と息を吸いかけて、足以外が固まってしまった。


「一番酷かったのは、アフリカにいた時のことね。象の群れをいくつかパトロールしていたんだけど、私たちと密猟グループが鉢合わせして、お互いパニックよ。銃を下ろせ、いやお前たちが先だと、罵声が飛び交って。しばらくしたら、罵声の代わりに脅しの弾丸が行ったり来たりし始めた。私は警護トラックの後部座席で震えているしかなかったわね」


 淡々と語られる事実に、俺はごくり、と唾を飲んだ。


「まあ、幸い怪我人は出なかったんだけど、あの時ほど生命の危機を感じたことはなかった」

「そ、そりゃあ……」

「ああ、勘違いしないでね。そりゃあ、私自身の命の危険も感じたけれど、この銃火に晒されているのは動物たちの方なのよ。だから今回、私は理事長の命令に従わなかったわけ」


 当の理事長の前で、よくもまあ言えたものだ。死を覚悟したことのある人間ならでは、といったところか。


「だから、葉子さんには最善を尽くしたつもり。結局救ってあげられなかったけどね」

「そう、ですか」

「そうなのよ」


 それ以降、俺が足を止めるまで誰も口を利かなかった。

 埋葬場所に向かう前に、俺はある別の場所に皆を案内した。それは、俺が葉子に初めて出会った、あの罠のあるすこし開けた場所。六畳分の広さはあるだろうか。


「そう、ここだ……」


 俺はすっと深呼吸をする。するとちょうど、この森の中を一陣の風が吹き抜けた。俺の腕の中の葉子の柔らかな身体を、そっと緑色の風が撫でていく。


「皆、こっちだ」


 十年前、俺はがむしゃらに森の中を歩き回り、熊に出くわしてしまった。だが、その『がむしゃらな』道筋が、自然と頭の中に浮かんできた。足元から遥か頭上まで覆われてしまうような山の中、再び俺は先頭に立って歩み出した。


「こっち……。この木と木の間を直進……」


 何かに導かれるようにして、俺は進んでいく。まるで、足元を生前の葉子が駆けまわり、誘導してくれているかのようだ。そして再び開けた場所に出た。


「ここだ」


 そこは一見、今まで歩いてきたのと変わらない獣道の半ばだ。だが、ふと視線をやると、少しだけ道幅が増したのが分かる。熊の通り道だ。長井は避けた方がいい。


 俺はゆっくりと膝を折り、葉子を横たえた。ここに埋めてやろう。俺の本能がささやいている。すぐそばに、葉子の母親が眠っているのは間違いないと。

 俺は背負ってきたシャベルを下ろし、地面に突き立てようとした、その時だった。


「うあああああああ!!」


 突如として周囲を震わせた、号泣の響き。


「パ、パパ?」

「理事長?」

「私は何てことをしてしまったんだ……! 何てことを……!」


 奇遇だ。この言葉を聞くのは、俺は三回目になる。

 理事長は、地面に額を擦りつけるようにして両手と両膝を地面につき、わんわんと何の憚りもなく泣いている。泣き叫んでいる。

 俺はその叫びの中に、確かに『申し訳ない』という言葉が繰り返されていることを確かめた。この期に及んで、『一体誰に?』などと尋ねるのは野暮だろう。理事長は――日本を代表する産業界の指導者は、ようやく『金』というもののくびきから解放され、自分に素直になれたのだと言えるかもしれない。


 俺は再び視線を戻し、じっくりと葉子の亡骸を見つめ、撫でてやった。

 妖狐として、その重責を一身に担ってきた葉子。俺たちに対して、自然や地球環境について大きな示唆を与えてくれた葉子。


 俺は飽きもせず、葉子の背を撫でてやった。同時に再び、熱いものが目頭に込み上げてくる。

 高校生にもなって、俺がこんなに泣くことがあるなんて。それこそ夢のようだ。


「――未だに俺たち、葉子に化かされているのかもしれないな」

「でも、私はそれが正しい道なのだと信じていたい」


 横から語りかけてきたのはエリンだ。


「これからどうする気だ、エリン?」

「あなたたちと同じように、勉強していきたいと思う。学校のカフェテリアでバイトでもして、後はあなたのご両親次第ね」

「……って、本当にうちの世話になるつもりだったのか?」


 俺がはっとして振り返ると、


「そ、そそ、そんな勝手は許されませんわ!」


 と美玲が金切り声を上げた。


「思ったんですの。あたしにこんな経済界を動かすような仕事はできない。優秀な婿養子を迎え入れるしかありませんわ。ねえ、修一さん?」

「!?」


 どうやら俺は、美玲とエリンの二人から目をつけられてしまったらしい。いいんだか悪いんだか……。

 だが一つだけ確かなのは、今すべきこと一つずつこなしていくという、当たり前のこと。

 今までと変わってしまったような、変わらないような、不思議な感覚。それこそ、俺は狐に化かされたかのような気持ち。

 俺はぐっと涙を拭ってから、大きな牡丹餅をそっと葉子の墓前に供えてやった。


THE END

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ホーンテッド・ハイスクール 岩井喬 @i1g37310

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