第13話

「ふうん……?」


 俺はわけが分からないなりに、中途半端に首肯した。


「まあいずれにしても、この先は大変神聖な場所じゃ。遊んだり騒いだりしてはいかんぞ」


 婆ちゃんはずいっと顔を近づけ、じっと俺の瞳を覗き込んだ。怖くはなかったが、代わりに有無を言わさない緊張感がある。俺は視線を逸らせなくなった。

 そんな俺を前に、婆ちゃんは頬を緩める。


「まあ、そんなことはお前さんが大人になって分かってくることかもしれん。難しく考えんでもいい。ただ、助け合いの気持ちは持ち続けなければならんぞ」

「分かった。静かにしてるよ、婆ちゃん」

「よろしい」


 婆ちゃんは満足気に頷き、腰を上げて再び山林へと分け入った。

 その時だ。俺はふと、周囲の様子に違和感を覚えた。何というか、光も音も周囲の温度も、一斉に低まったように感じられたのだ。

 俺は、誕生日に親父から貰った腕時計に目を遣った。時刻は、午後三時十四分。真夏に、いや、今が真冬であっても、こうまで暗くなったり、涼しくなったりする時間帯ではないだろう。虫たちの織り成す鳴き声や、羽音も小さくなったような気がする。


 この先に一体何があるんだ? 俺は疑問というよりも、一抹の恐怖感から、歩行速度を落とした。そっと婆ちゃんの着ている薄手のジャンパーの裾を掴む。すると、ちょうどよく婆ちゃんは立ち止った。


「ほれ修一、見てごらん」


 すっと前方を指差す婆ちゃん。その背中に引っつき、顔だけ出した俺は、目の前の光景に目を奪われた。


「神社……?」


 にしては小さな建物、というか、風格ある木組みのものが鎮座していた。

 正確には『社』とか『祠』と呼ぶべきなのだろう。だが、婆ちゃんがそうしなかったのは、その両方が混じった造りだったからだと思う。あるいはその神聖さから、明確な呼称を躊躇ったのか。


 大人が屈んでくぐる程度の、小さな鳥居。その奥には、お供え物を捧げる台と、すぐ手前に賽銭箱のようなものが置かれている。

 今思えば奇妙なものだ。神社なのか寺なのか、はたまた墓なのかすら分からない。否、それらの特徴が少しずつ取り入れられている。

 だが、当時の俺がそんなことを詳しく観察できたはずがない。今思えば、という話だ。


 当時の俺の目を引いたもの。それは、青白い光だった。うっすらと、しかし確実に靄のような光を帯びている。急に涼しくなったような錯覚に囚われ、俺は婆ちゃんがジャンパーを着てきた理由が分かった。


 婆ちゃんの説明によれば、ここは昔から最も神聖な場所とされていたのだそうだ。近隣の大学の調査班が入山するのにも、全村上げて反対するほどだったという。


「さ、修一。前に」


 俺はそこで、神社でお参りをする所作を取った。二礼二拍一礼だ。婆ちゃんが随分と念入りに頭を下げていたので、俺も見習って数回頭を下げ直した。


「荒木家はずっと、皆が皆ここに祈りを捧げてきたんじゃ」


 帰り際、婆ちゃんが語ってくれた。


「何を祈るの?」

「お互いに、相手のことを分かってあげたり、助けてあげたりすることじゃ。相互理解、とかいうものじゃの。ま、言い方は何でも構わん。修一、お前も人間と自然が平和な関係を築いていけるように、ということを、心の片隅に置いておくべきじゃな」

「うん」


 よく分からないなりに、俺はぐっと頷いた。

 その時だった。


「……ん?」

「どうしたんじゃ、修一?」

「動物の鳴き声がする」


 どこで何が鳴いていようが、違和感のないはずの密林の中。しかし、その『悲鳴』は明らかに異質なものだった。婆ちゃんもまた、すぐに異常に気づいた。


「なんということを!」


 今まで聞いたことのないほどの、婆ちゃんの怒声。驚く俺を置き去りに、婆ちゃんは獣道を逸れて木々の間に分け入っていく。


「ちょっ、婆ちゃん!?」


『わしのそばを離れてはいかん』という言いつけに従い、俺は慌てて婆ちゃんの背中を追った。何があったのだろう。何者かが救いを求めているのは事実のようだが、そこにはこちらの胃がキリキリと締めつけられるようなもの悲しさが感じられる。

 ――助けなければ。俺は自分を叱咤し、木の根の浮き出た地面に足を取られながらも、婆ちゃんに遅れまいと歩を進めた。


「なんということを!」


 婆ちゃんが立ち止まった時、発せられたのは先ほどと同じ言葉だった。しかし、そこに込められた驚きと怒りの念は遥かに強い。


「どっ、どうしたの、婆ちゃん?」


 俺は怖いもの見たさもあって、婆ちゃんの背後からそっと顔を出した。

 そこにいたのは、生まれて間もない子狐だった。怪我をしている。自力では動けないようだ。


 この子狐が負傷したのが、自然の災いだったとしたら、仕方のないことだったと思う。だが、そうでないことはあまりに明白だった。

 鉄の刃が、子狐の後ろ足を挟んでいる。明らかに人間の手によって仕掛けられた罠だ。


「よそ者め、なんと罰当たりなことを!」

「婆ちゃん、助けなきゃ!」

「いかん、修一!」


 子狐の元に膝を着こうとした俺を、婆ちゃんは無理に引き留めた。


「どうしてさ!? かわいそうじゃないか!」


 俺はがばっと振り返った。しかし、その時目の前にあったのは、悲壮感溢れる婆ちゃんの顔だった。今思えば、現在の婆ちゃんよりも、その瞬間の婆ちゃんの方がよほど老け込んで見えたような気すら起きてくる。


「残念じゃがな、修一……」


 婆ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔で言葉を繋げた。


「この土地では、不用意に動物たちに触れてはならん。昔からそういう風習、伝統、決まり事があるのじゃ。これ以上この子狐に触れては、こやつに余計に人間の欲深さを擦りつけてしまう」


『本当に気の毒な事じゃ』。そう言って、婆ちゃんは踵を返し、その場を後にした。当然、俺もついていく。が、しかし。

 獣道に戻ったところで、俺はさっと振り返った。それからあるものをポケットから取り出した。スマホだ。自分たちが不在の折、俺が寂しい思いをしなくて済むようにと、両親がくれたものだ。

 俺は我ながら器用にも、後ろ歩きをしながらカメラを起動させ、無音シャッターで獣道の写真を一枚。そこに写っていたのが、妙な形の岩だった。


 その翌日から、俺は一人で堅山に入ることにした。

 見つかったら、婆ちゃんに家から放り出されるだろう。それは覚悟の内。だがどうしても、俺はあの子狐を助けたかった。同情の念があったことは認める。だがそれ以上に、まだ自然と人間には解り合える余地があるのだと、そう信じたかったのだ。

 当時の俺は友達が多かったから、誰かを仲間外れにするようなことは許せなかった。


 俺は婆ちゃんの家から、パン屑や野菜の切れ端を持ち出して山に入った。もちろん、頼りはスマホで撮った奇怪な形の岩の位置。それでも、その岩のある場所まで辿り着くのには苦労したが。


「おーい、俺だよ。心配しなくていいよ」


 できうる限りの神経を口元に集中させ、優しく声をかける。初めの二、三日は、子狐は警戒を解かなかった。衰弱した身体を震わせ、バランスを崩しながらもこちらを威嚇する。当時の俺をビビらせる程度には、迫力のある挙動だった。

 そこでその次の日から、俺はぬるま湯を瓶に入れて持って行くことにした。栄養失調よりも水分を失う方が致命的だと、前日の健康番組で見聞きしたのだ。まあ、人間にとって、という話だったけれど。

 

「ほら、飲めよ」


 瓶から皿に湯を移し、そっと後ずさりする。しかし足を挟まれた子狐には、まだ届かない。靴の裏で押しやるのも躊躇われたので、落ちていた小枝を使ってゆっくりと差し出した。

 するとようやく、子狐はゆっくりと皿の淵に口をつけた。流石に水までも警戒する余裕はなかったのか、小刻みに舌を出してぴしゃりぴしゃりと口元を湿らせる。

 俺はようやく、胸のつかえが外れたような気持ちになった。


 その日以降、俺は少しずつ子狐と距離を縮めていった。持って行くぬるま湯を牛乳にしたり、柔らかめの餌を差し出したりしているうちに、子狐は俺の手からパン屑を食べるようになった。


「ごめんな、ひどい怪我させちまって……」


 俺はそっと、子狐の頭を撫でてみた。柔らかな毛並みに、まだ小さかった俺の手は包み込まれる。その下で、子狐は首をふるふると振った。まるで、『君のせいじゃない』と伝えようとしているかのように。

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