第12話

 その足元を見て、俺はどうして足を滑らせたのかを理解した。

 そこには、動物の死骸があったのだ。思わず、俺は自分の口に手を当てて上がりかけた悲鳴を飲み込む。

 しかし、それは単にグロテスクな動物の死骸ではなかった。猫のような姿の霊が、青白い光を放ちながら横たわっている。出血はなく、代わりにその光が粒子となって、ふわふわと立ち昇り、消えていく。

 そうか。エリンの言っていた『化け物にしか効かない銃』とはそういう意味なのか。原理はさっぱり分からないが、きっと高橋コーポレーションが密かに開発していた特殊な弾頭を使用しているのだろう。


 高橋辰夫がそんなオカルト話を信じるとはにわかに信じがたい。だが、金が有り余ってしょうがないというのが高橋財閥の本音だろうし、三ヶ月前、土地の主が『脅し』で現れた件もある。

 怪物、否、自然の霊魂を『鎮圧』するための何らかの研究をしていたという可能性は捨てきれない。もしかしたら、高橋財閥お抱えの呪術師でもいるのではないだろうか? 婆ちゃんも『呪詛をかけてやる!』なんてことを言っていたし。


 そんな思索にふけっていたのはほんの数秒間のこと。


「誰かいるのか?」


 警戒心と威圧感を伴った声が、俺の耳朶を叩く。随分とドスの利いた声音だ。霊との戦闘で窓が割れたのだろう、ガラス片を踏みしめるザリッという音が規則的に聞こえてくる。徐々に大きくなってくる足音。

 いくら俺がボクシング経験者だと言っても、所詮は高校生だ。日々鍛錬を積んできたであろう警備部隊員に勝てるわけがない。真正面から立ち向かっては。


 何か、何かないか?

 俺はあたりを見回した。目に入ったのは、背の高いロッカー型の掃除用具入れ。あれに隠れて、不意を突くしかない。

 

 飽くまで慎重に近づいてくる、フォックスハンターの片割れ。俺は極力音を立てずに、掃除用具入れに身体を滑り込ませた。

 埃でむせりそうになる中、俺はその中のモップを手に取り、リーチを確保。相手は突然銃撃を仕掛けてはこないだろうから、飛び出してこれで顔面を一撃すれば倒せるかもしれない。

 後は勢いで出たとこ勝負だ。俺は背伸びをして、隙間から向こうを覗いた。するとちょうど、数歩離れたところまで近づいた相手の姿が見えた。何やら昇降口の方を見ながら、もう一人に手信号を送っている。


 もう少し。もう少し近づいてみろ。俺はモップの柄を握り、縦にして身体に近づけた。軽く舌を出して唇を湿らせる。

 しかし――。この期に及んで、俺は一抹の罪悪感を覚えた。こちらに殺意や、相手を傷つけようという意志はない。いや、こうしてモップを手にしてはいるが、できることなら戦いは避けたいものだ。

 習得するならボクシングではなく、空手や合気道の方がよかったか。今更ながらそう思う。

 だが、そんなことを悩んでいる場合ではない。せっかく格闘術を学ぶ上で培ってきた冷静さだ。これを活かさない手はない。

 護身ではなく、攻めに回るのだ。


 警備部隊員は足音を消して、しかし大股で素早く近づいてきた。


 掃除用具入れの把手を握り込む。

 ノブが回され、向こう側に扉が開かれる。

 俺の足先に日光が差し込む。


 ――今だ!


 俺は思いっきり、扉を蹴り開けた。目前では案の定、警備部隊員がたたらを踏んでいる。慌てて身体をガードしようと腕を掲げる隊員。だが、一瞬早く、俺の突き出したモップが隊員の顔面を捉えた。


「ぐっ!」


 微かに飛び散る鮮血。今度こそ、これは『健全な負傷による』出血だ。

 俺は身を低め、足の裏から力を込めて飛び出した。肘打ちをする要領でタックルを仕掛ける。俺と隊員は密着したまま、廊下を転がった。だが、俺も無計画に転がっていたわけではない。明確な目標が、そこにはある。


 消火器だ。飛び道具、と言っていいのかどうかは分からないが、有効範囲は広い。消火器を噴射して場を攪乱させられれば、この場を乗り切れるのではないか。

もんどり打って前転しつつも、俺は必死に腕を伸ばした。消火器へ向けて。

 見慣れた赤い缶が、何度も視界を横切っていく。幸いにして、俺たちが倒れ込んだのは窓の反対側、ガラス片の飛散していないところだ。このままもう少し横転し、近づければ消火器に手が届く。しかし、相手は戦闘のプロだ。馬乗りになられたらこちらは何もできなくなる。チャンスは、残り〇・五秒といったところか。


 俺はふっと、隊員の胸倉を掴む形の手を脱力させた。


「!?」


 相手は不意を突かれたのか、力のバランスを崩す。


「ふっ!」


 俺は相手を突き飛ばすようにして、そしてその反動を活かして消火器に抱き着いた。

 後は簡単だ。俺は一足先に立ち上がり、ピンを抜いてノズルを伸ばし、思いっきり隊員に噴射した。


「ゲホッ、ゴホッ!」


 白煙に巻かれる隊員。俺はその頭部に向けて、消火器を振り上げた。


「許せよ……!」


 ごつん、という鈍い打撃音が響き渡る。この硬い感触からして、ヘルメットの強度はかなりのものだと言える。

 まさかこれで死にはすまい。だが、それを確かめている猶予はなかった。もう一人の警備部隊員が、警棒を持ってこちらに駆け寄ってきたのだ。


 俺は消火器の残り――あと五、六秒といったところか――を、二人目に向かって噴きかけ、ついでとばかりに消火器本体を投擲。隊員はそれを腕で弾いたが、反対側へと身体の重心が揺らいだ。

 俺は白煙に跳び込み、隊員の真横を駆け抜ける。と見せかけて、思いっきり脇腹にエルボーを叩き込んだ。脇腹に防弾ベストを着けてはいないだろうと思ったのだ。


 その読みは当たっていた。足元のぐらつきと肘の打撃を喰らった隊員は、呆気なく向こう側に倒れ込んだ。が、それに頓着している場合ではない。このまま森林まで駆け込まなければ。

 

 俺は走った。急がなければ、ヘリに捕捉されてしまう。方向は合っているはず。幸運なことに、森林までの距離は短かった。

 昇降口から見て、正面は舗装された幅の広い道路になっている。だが、少し逸れれば森林公園入り口だ。

 生徒は入園料無料だったはず。そんな意味のないことを考えつつ、俺はゲートをスライディングで突破し、森林に飛び込んだ。


         ※


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺は軽く息を切らしながら、木々の合間を歩いていた。校舎にいる時は気づかなかった木々の匂い、セミたちの鳴き声、ひんやりとした空気。俺の記憶が確かなら、婆ちゃんと通った『あの場所』はこの先にあるはずだ。

 それにしても、胸が苦しい。森に入った時は、初めて『本業』の戦闘員と戦った直後の緊張感からかと思った。しかし、どうもそれだけはないようだ。

 足元に何かがまとわりついている。肩に何かが載っている。脳内で何かが暴れ回り、頭痛をもたらしている。

 そっと足元を見遣ると、先ほど猫の姿を形作っていた青い光の粒子が漂っていた。俺の倦怠感の原因はこれだろう。ここはもはや、人間の立ち入る場ではないということか。

 しかし、ここで退くわけにはいかなかった。今の時点で、校舎から出られた生徒は俺一人。つまり、『あの場所』に辿り着き、行動を起こせるのは俺だけ、ということだ。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 再び、俺は呼吸の浅い自分の身体を意識する。


「えっと……」


 確かこの三叉路は……左だ。俺は自らの身体を引きずるようにして方向転換し、のそのそと歩を進める。

 ああ、そうだ。ここに確かに、腰かけるのにちょうどいい岩があった。その岩や周囲の木々は全く変わっていない。しかし、それだけの記憶で俺がここに来られたのにはわけがある。

 十年前のあの日、俺は婆ちゃんに連れられて、確かに俺はここにいた。


         ※


 十年前。確か七月の下旬頃のことだ。


「これ修一! 道を外れてはいかん!」

「だって婆ちゃん、カブトムシがいるよ! 連れて帰りたい!」

「それはならん。本来なら、わしら人間がこうも易々と入っていい場所ですらないんじゃぞ? ここにいるものたちは、ここに在るべくして在るのじゃ」


 当時六歳だった俺は、脳裏に『在る』という言葉を貼りつけた。


「婆ちゃん、『在る』べくして『在る』って、どういう意味?」

「よいか、修一」


 婆ちゃんは俺の前に回り込み、しゃがんで目線の高さを合わせた。俺の両肩に手を載せる。


「この世界には、我々人間だけが生きているわけではない。人間は生きていくために、他人と仲良くしたり、勉強を教えてもらったりするじゃろう?」


 大きく頷く俺。


「それは、人間同士に限ったことではない。自然同士、あるいは人間と自然の中にもそういう関係がある。自分と他人、自分と自然を分けて考えていては、貧相な生き方しかできないんじゃ」

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