第6話◎

「あっ、おい!」


 俺は止めに入ろうとしたが、美玲の取り巻きたちが鋭い視線を飛ばしてくる。暴力沙汰はご免なので、俺は踏み出そうとした足を引っ込めた。

 しばし、木の葉の擦れる音や小鳥のさえずりだけが耳に入る。


 正味三十秒ほど経っただろうか。

 三枚目を読了したらしい美玲は、ふーっと長い息をついた。

 と思ったら、悪戯っぽい笑みを浮かべ、『こんなものね……』と呟いた。

 その直後、ビリッ、と紙が破ける音が明瞭に響き渡った。


「あ……!」


 俺は顎を外してしまった。美玲が、葉子の反省文を破り去ったのだ。半分になった用紙を組み合わせ、四分の一に割る。次は八分の一に。見る間に葉子の反省文は、ぱらぱらと風に吹かれて消えてしまった。


 これには流石に、俺も我慢ならなかった。キレたのだ。


「てめえ、何しやがる!!」


 すると、いつの間にか美玲の左右に展開していた取り巻きの男子――これではボディガードだな――が俺を突き飛ばした。したたかに背を地面に打ちつける俺。僅かに呼吸が浅くなる。

 美玲は唇の端を歪めながら、口を開いた。


「この程度で高橋美玲様に対する謝罪の弁になると思って? 冗談じゃないわ! わたくしをもっと奉りなさい!」


 奉れ、ってどれだけ傲慢なんだ、この女。怒りが再燃した俺は、ボディガードの一人に向かって鞄を投げつけた。

 唐突な俺の挙動についていけなくなったのか、その場でたたらを踏む男子。そちらに気を取られたもう一人――ボディガードのうち、ガタイのいい奴だ――に向かい、俺は中学校で習っていたボクシングのガード姿勢を取った。一旦身を引き、相手をおびき出す。

 僅かに身を引くと、面白いように相手の巨体が俺に覆いかぶさってきた。

 素人だな。

 俺は引いた反動を活かし、足元から全身をバネにして、そいつの腹部にストレートを叩き込んだ。


「ぐは!?」


 呆気なく向こう側に倒れていく男子。流石にこれにはビビったのか、美玲も取り巻きも一歩引いた。俺は素早く視線を走らせ、十名近い連中を次々と睨みつける。

 次はどいつだ?

 すると美玲はパニくったのか、美玲は俺を指差しながら叫んだ。


「だっ、誰か! あいつを止めなさい!」


 くそっ、人海戦術か。下手に動くとリンチされてしまう。教諭陣がこのトラブルにいつ気づくかも分からない。どうしたらいい――?


 俺が唇を湿らせた、その時だった。


 ドン、と地面が揺れた。

 何だ? 地震か? いや、一回の揺れで治まる地震など聞いたことがない。

 何が起こっているんだ? 俺は先ほどよりも広く周囲を見遣った。すると、とんでもないものが地面から『出てくる』ところだった。


 まず目に入ったのは、ゴツゴツとした岩でできた『腕』だった。人一人を手先だけで摘み上げられるような、巨大な手。それが地面を割って出てくる……のかと思いきや、その巨大な怪物は、地面をすり抜けるようにして立ち上がってくる。半透明の身体をしており、木々や建物も接触して壊れたりはしない。

 俺はそこに、霊的な何かを感じた。


「きゃあああああああ!!」


 奇妙なことに、最初に正気に戻ったのは美玲だった。

 鋭い悲鳴が校舎に反響し、あちらこちらから聞こえてくる。取り巻きたちも腰を抜かしてしまったようで、尻餅をつく者、後方に駆け出す者、その場で硬直する者ばかり。


「くそっ!!」


 俺は怪物の近くにいた葉子と美玲の手を掴み、駆け出そうとした。


「こっちだ! 建物の陰に隠れろ!」


 美玲は俺に半ば引きずられるように足を動かしている。それとは反対に、葉子は俺の腕を振り払って、怪物の方へと駆け出した。


「あっ! おい馬鹿!!」


 俺は美玲を突き飛ばしておき、葉子の方へと駆けた。


「何やってるんだ!? 早く逃げないと――!」


 すると葉子は、バッと両腕を開いて誰よりも大きな声を張り上げた。


「待って!!」


 これは俺たち人間にではない。地上に顕現しつつある怪物に向かってである。


「私が交渉する! 必ずあなたたちの土地は取り返す! だから……だから暴力は止めて!!」


 瞬間的に、音が止んだ。時が止まったのかもしれない。頭部まで這い出てきた怪物は、ぴたりと停止していた。大きく両腕を開いた葉子も同じく。双方、全く退こうとはしない。

 それからしばしの時間が流れた。俺が固唾を飲んで見つめる先で、次に動いたのは怪物の方だ。しかし、身を乗りだしてきたり、腕を振り回したりはしない。地についていた掌を離し、僅かに覗いた頭部から先に、ゆっくりと地中へ消えていった。


「何だったんだ、今のは……?」


 急に聴覚がまともに機能を再生したようで、ようやく俺は学校中が騒ぎになっていることに気づいた。校舎や寮の窓から、大勢が顔を覗かせている。こんな状況下で、誰も怪我をしなくてよかった。

 そう思ったと同時に、葉子が膝を着くのが見えた。


「葉子!!」


 俺は倒れ込む葉子に向かって駆け出した。前方に回り、肩を支えてやる。


「しゅう……いち……?」

「ああ、そうだ」


 力強く首肯して見せる。


「誰か……怪我をした人は……?」

「誰もいない。俺も美玲も、皆無事だ。お前のお陰だよ」

「そう……。よかった……」


 ゆっくりと目を閉じる葉子。


「おっと!」


 ぐっと重量のかかった腕に力を込めながら、俺は周囲を見回した。まずは、葉子を保健室に運び込まなければ。その時だった。


「おーい、修一!」

「おう、淳平! 手伝ってくれ!」

「何があったのかね? 僕の部屋からも怪物の姿は見えたが……」

「歩きながら聞かせてやる。こいつの――一之宮のそっちの肩を支えてやってくれ」


 淳平はすぐさま頷いた。


         ※


「ああ、あの騒ぎならここからでも見えたわよ。でも、それを一人で止めちゃうなんてね……」


 校舎一階、保健室にて。

 保健の後藤教諭は、葉子をゆっくりとベッドに寝かせながらそう言った。


「でも奇妙よね。あんな怪物が出てきたのに、証拠は何一つ残っていないんだから」

「そうですね……って、え?」

「あら、現場にいたなら分かるでしょう? 怪物は地面から出てきたって言うけれど、地盤沈下も起きてないし、草木にも被害はなし。挙句、防犯カメラにも映ってないときてるわ」

「な、何ですか、それ?」


 不意に冷たい汗が背中を流れるのを感じつつ、俺は尋ねた。


「何ですか、って訊かれてもねえ。何かは何かよ」

「な、何か……」


 淳平も合点のいかない様子で、不安な顔色を隠しきれずにいる。


「うーん、まあ」


 三十代前半と思しき後藤教諭は、長い足を組みながら口元に手を遣った。校内は禁煙だが、もしかしたら教諭はヘビースモーカーなのかもしれない。

 保健の先生が愛煙者ってどういうことだろう、と思いつつ、俺は教諭の話の続きを拝聴した。


「これは都市伝説、っていうか村伝説だけど、この堅山が神聖なる場所として奉られてきた、ってことは二人共ご存知?」


 こくこくと頷く俺と淳平。


「この山、昔から伝説があってね。まあ、祟りとか祈祷とか、そういう具合の話がたくさん。それを綺麗サッパリ無視して、高橋財閥が大幅開拓して造ったのがこの高校。神様仏様の一人や二人、お怒りになってもおかしくないと思わない?」

「しかし後藤先生、それは単なるオカルト話では?」


 そう言った淳平を指差しながら、教諭は何度か首肯した。


「でも実際、人の肉眼で捉えられる範囲で、怪物は出現した。可視光線の範囲外で探知したら、もっとうろついているかもしれない。怪物がね」

「どこかに訴えられないんですか? 警察でも自衛隊でも」

「ああ、それな、荒木。なかなか難しいんだ」


 すると教諭はコーヒーを一口。喉を潤しながら、眉間に皺を寄せた。


「残念ながら、よくやるんだよ、高橋辰夫って人は」

「それってまさか……」

「お前の考えている通りだ、荒木。情報がシャットダウンされている。怪物? 幽霊? 祟り? 呪い? そんなニュース、いくらでも握り潰せるわ。コレの力でね」


 親指と人差し指で輪っかを作る後藤教諭。要するに、金だ。

 俺はさもつまらない、というつもりで両手を腰に当てた。

 高橋辰夫、という人物に関して、知っていることを思い返してみる。確かに、金にものを言わせて好き勝手やっている、という印象はあった。

『きっと報道されないところで、デモなり何なり起こってるんじゃないか』とは父の言葉だ。

 それでも俺がこの高校に来たのは、特にそのようなことを問題視しなかったからだ。学歴の方が優先だった。勉強しかできないお馬鹿さんにはなりたくないとは思っていたけれど。

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