第17話

「待って! 行かないで、パパ!」


 一瞬で、クラス中の視線が発声源に集中する。俺でさえも、驚きのあまり目を上げた。


「あたし怖い! でも、パパがいれば皆があたしを守ってくれる! だからお願い、行かないで!」


 指名を受けたその人物――高橋辰夫だけが、声に背を向けている。彼はちょうど教室と廊下の境目で立ち止まり、ふっと息を吸い込んだ。


「馬鹿者!!」


 その怒声に、教室中が凍りついた。護衛の隊員たちでさえも、だ。

 ゆっくりと振り返る理事長。しかし、そこに先ほどまでの冷静さ、あるいは憂鬱さは微塵もなかった。

 代わりに湧き出していた感情。それは誰の目から見ても明らかな『怒り』だった。いや、単なる『怒り』ではない。侮蔑や憎しみのこもった、鬼のような形相だった。


「美玲、貴様は我が高橋財閥の跡継ぎなのだぞ! これから世に出るお前のために、私がどれほどの私的な金をつぎ込んできたと思っているんだ? それが親に対する態度か!!」


 ひっ、と短い悲鳴を上げる美玲。涙の残滓が片方の目から溢れたが、それを拭うことすら忘れている。


「いくらこんな非常時とはいえ、この私を『パパ』だと? 『父』と呼ぶようにとあれほど言い聞かせたであろうが! そんな言葉の扱いすらできんのか、この親不孝者め!!」


『親不孝者』――。その一言が、美玲の心に止めを刺した。魂が抜け出てしまったかのように、脱力する美玲。その身体を取り巻きの連中がなんとか支え、椅子に座らせる。しかし、誰も美玲にかけてやるほどの言葉を見つけることはできなかった。


 ガタン、という音が響く。それが、教室の扉が乱暴に閉められた音であると気づくまでに、俺たちにはしばしの時間が必要だった。

 その時になって、ようやく俺は事態の断片を見たような気がした。何故、高橋美玲が『メイド喫茶』という催し物に賛同したのか。それはきっと、父親である辰夫理事長に注目してもらいたかったからだ。

 では、美玲は家で冷遇されているのだろうか? おそらく答えは『YES』なのだろう。母親がどうなのかは知らないが、少なくとも父親はあんな調子なのだ。家庭環境も冷え込んでいるであろうことは、俺にも察しがつく。毎月絵葉書をくれるうちの両親とは大違いだ。


 静まり返る一年B組。だが、その沈黙が破られたのは、その直後のことだった。

 ゴゴゴッ、という地鳴りと共に、地震が発生した。それも、今まで体験したことがないほどの。スマホの地震速報が、あちらこちらで鳴り響く。


「な、何だよこれ!?」

「ただの地震じゃねえぞ!」

「きゃあ、誰か助けて!」


 混乱する教室。そこで声を張り上げたのは、エリンだった。


「皆、落ち着いて! 机の下に入って! それから机の脚を、しっかり手で押さえて!」


 俺たちは素直にそれに従った。

 揺れは、大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、十分近くも俺たちを揺さぶり続けた。何故『十分』という具体的な数字が分かったか? ただの勘としか言いようがない。だが、そう大きく外れてはいないはずだ。


 地震はズドン、と一際大きな揺れと共に、唐突に収まった。状況確認を求める無線から声が漏れ出てくる。


《各教室警戒中の隊員へ。一教室から二人ずつ、隊員を派遣して敷地周囲の警戒に当たれ。繰り返す――》

「私が行きます」


 真っ先に手を上げたのはエリンだった。ジャキリ、と自動小銃の部品の擦れる音を立てる。だが、俺はそのエリンの態度に不安を覚えた。恐る恐る顔を上げる生徒たちの前で、すっと背筋を伸ばすエリン。

 俺の心配を焚きつけたのは、祠の跡地でエリンが見せた横顔だ。あんなに冷徹な表情というものを、俺は見たことがない。そんな表情のできる彼女のような人間を、地震という事件の現場に行かせるわけにはいかない。

 もしエリンを現場に向かわせてしまっては、また霊たちとの戦いが起こり、葉子が辛い目に遭うことになる――。

 そんな直感が、俺の脳裏をよぎった。それだけは、何としてでも止めなければ。葉子の思いを知ってしまった、俺のような人間が。


「お、おい、ちょっと待ってくれ!」


 俺はエリンの背中に声をぶつけた。エリンともう一人、同行する隊員が振り返る。


「俺も連れて行ってくれ」

「いや、それは無理だ。君は民間人、それも高校生で――」


 という隊員の説教は、エリンの強烈な一言で打ち切られた。


「駄目。それは私が許さない」


 決して大声ではない。だが、その鋭利な声は教室の隅々にまで空気を震わせた。恐らく、クラスメートたちの心も震え上がったことだろう。


「突然こんな話をするのもなんだけどね――」


 そう言いながら、振り返るエリン。ゆっくりとバイザーを上げる。そこには、視線だけで鉄板をもぶった斬ることのできそうな眼光が覗いていた。


「私たちは科学技術の進歩によって、この星の頂点に君臨した。それを揺るがそうとするものが存在することが、私には許せない。だから私は戦っている。人類のために。その平和のために。残酷だと言ってくれて構わない。それでも、私はあなたを含めたこの学校の生徒たちを守る。それが私の任務だから」


 淡々と、だが一気にこれだけのことを言ってのけたエリン。彼女を前に、反論できる者はいなかった。

 しかし。しかし、だ。エリンは先ほども、同じようなことを語っていた。これで二度目。それ故に、俺はある疑念を抱いた。彼女が語る『人類と自然や霊魂』の見識は、後づけのものではないのだろうか、と。

 これは推測の域を出ないが、彼女の過去には何か、本人が語ることを躊躇うほどの悲しい出来事があったのではないか。


 俺はエリンと目を合わせたまま、ゆっくりと腰を下ろした。


「大丈夫か、桐山?」

「はい」


 エリンはぱっと振り返り、そのままもう一人の隊員に続いて教室を出て行った。


「皆、怪我はないか?」


 この期に至って、俺はようやく担任の森田先生がいたことに気づいた。

 先生は立ち上がり、教室に残っていた二人の隊員を見遣った。気を遣っているようだが――。


「全員、見たな。先ほど岩でできた怪物のために、ヘリコプターが一機撃墜された。乗員は五名。三名が命を落としたそうだ」


 俯く先生。隊員たちは微動だにしないが、こういう事態に慣れているのか、動揺のあまり動けないのか、どちらなのかは判然としない。

 静まり返った教室の外を、隊員たちが駆けていく音がする。そこには途切れ途切れに無線が混じっていた。


《何? よく……ない》

《……隆起し、下山困難……》

《民間……退避を優先……》


 教室内に残った隊員も、自分のヘルメットのヘッドセットに手を遣った。しかし、互いに顔を見合わせながら首を傾げるばかりだ。

 

 その時だった。するり、という衣擦れの音がした。隣席からだ。


「おい葉子、一体何を……って、うわっ!?」


 そこに、葉子の姿はなかった。代わりに残されたのはメイド服と、俺の足元を掠めたひんやりとした感覚。

 何事かと、俺に視線が集中する。だが、俺は気にも留めずに足元の『何か』を目で追っていた。

 その『何か』は、するりするりと机の脚の間を抜けていく。あちこちで女子の悲鳴が上がるが、その『何か』は教室入り口へと真っ直ぐ向かっていった。

 閉じられた扉の前で、振り返る『何か』。俺にはそれが、とても見覚えのある姿に見えた。


「狐……?」


 そう呟いた直後、狐らしき姿はふっと青白い光に包まれた。

 銃を向ける隊員たち。だが、その眼前で信じられないことが起きた。

 

 狐が、消えたのだ。正確には、扉をすり抜けて廊下に出て行ってしまったというべきか。

 俺が正気に戻ったのは、淳平の悲鳴が耳に捻じ込まれたからだ。はっとして振り返ると、着席しているはずの葉子の姿はなかった。いや、それは先ほど確認した通りだ。

 俺はきょろきょろと左右に視線を走らせた。しかしどこにも、葉子の姿はない。


 これらの事態を総合して考え、俺は一つの仮説に至った。しかし、まさか。そんなことが――。

 誰にも信じられないだろう。『葉子は狐に変身できる』だなんて。そして葉子が、人間を騙すという『妖狐』であるだなんて。

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