第32話

 この堅山黎明高校を公正に運営すること。

 自然の霊たちに深く謝罪し、自然環境の保護に努めること。


 理事長は身悶えしながら聞いていた。耳ではなく、心で。だが、それを理解できるほどの余裕があるだろうか?

 口も利けない状態で、なんとか立ち上がろうとする理事長。この期に及んで、まだ他者を見下そうというのだろうか。確かにこいつ、俺よりも頭一つは背が高いのだが。

 ゆっくりと立ち上がろうとする理事長を、俺たちはじっと見つめていた。

 が。


 耳をつんざくような警報音が鳴り始めた。


「きゃっ!」

「何!?」


 ヴーン、ヴーンというサイレンが繰り返し流れ、この隠し部屋の天井中央にある赤いランプが回転する。


「おいおっさん! 何をしたんだ!?」


 俺はふらつく足取りで、理事長に詰め寄った。そして、気づいた。

 理事長は、腕をコンソールに着いて身体を持ち上げようとしている。その下には――。


 俺がそれを確かめようとした直前、


「ちょっとどいて!」


 一体いつからそこにいたのか、後藤先生が俺を突き飛ばしてコンソールに向かった。俺、これでも怪我人なんですが。

 しかし、それを訴えるだけの余裕は、もうこの場には残っていなかった。


「なんてこと……」

「ど、どうしたんです、先生?」


 偶然にも、かつて祖母が叫んだ『なんということを!』という言葉が脳裏に走る。子狐だった頃の、罠に掛かった葉子を見つけた時の言葉だ。


「副長、何があって……」


 エリンがすっとそばに寄り、共にコンソールを覗き込む。そして、息を飲んだ。

 あのエリンが、震えている……? 何事だ?


「ちょっと、あたしたちを置いてけぼりにしないでくださる?」


 苛立った様子で詰め寄る美玲。それに応じてエリンが振り向いたが、その顔は色が抜け落ちていた。周囲が明るければ、いかに血の気の引いた顔をしていたか分かるだろう。

 しばらく口をパクパクさせてから、エリンはようやく言葉を紡ぎ出した。


「人工衛星に誤報が流された……。出力最大で、対霊レーザーが発射される! 真っ直ぐここに向かって!」


 どうやら、理事長が立ち上がろうとした際、不用意にボタンに触れてしまったのが原因らしい。


「パスワードは? それで解除すれば――」

「それができれば苦労しないわよ!!」


 叫んだのは、スクリーンに見入った後藤先生。視線の先には、意味不明のグラフに混じって堅山の衛星画像が映っている。リアル映像らしい。


「この出力だったら、結界は呆気なく破られるわね。それどころか、地表にも物理的に作用する……。半径三百メートルにわたってクレーターができるわよ!」

「な……!」


 ようやく事情を知った俺と美玲は、同時に息を止めた。否、意に反して息が止まった。


「な、なら早く逃げましょうよ!」

「馬鹿かお前! 結界が展開中なんだぞ!? 撃たれるまで逃げられないだろう!」


 そう。結界がなくなれば逃げられるが、地表の結界がなくなるのは、まさにレーザーが地表に到達した瞬間なのだ。逃げられるわけがない。


「ちょっとあんた! どうにかしなさいよ!」

「げぼっ!?」


 美玲は理事長を蹴りつけた。大した威力ではなさそうだが、一度悶絶した理事長には随分効いたようだ。


「パスワードは? 何番なの!?」


 エリンも詰め寄る。しかし、理事長は両の掌をこちらに向け、首を左右に振るばかり。


「無駄よ、二人共」


 気の抜けた声で、先生がぽつりと呟いた。


「どっ、どういうことですか、副長!?」


 エリンは身を乗り出したが、先生の冷たい声音は変わらない。


「最終発射ボタンだけど、もう押されてる。理事長は、発射する気満々だったようね」


 そこで不用意にコンソールに手を着いてしまったから、出力は最大になったまま発射体勢が取られてしまったようだ。解除用のパスワードは見当たらない、と宣告する先生の顔つきは、ただの高校教員からは遠くかけ離れていた。まるで――戦場を渡り歩いてきたジャーナリストのように。


 そんなことを思っている間にも、刻々と時間は流れていく。それがはっきりしたのは、スクリーンに表示が出たからだ。何がって? ――カウントダウンだ。

 発射まで、残り百八十秒。たった三分で、そんな威力を発揮するとは……。なんてものを飛ばしているんだ、このおっさん。


「何かレーザーを防ぐ手はないのか?」

「それより、皆を避難させましょう? 地下シェルターがどこかに……」

「もう残り百五十秒、間に合わない!」


 そうか。これは報いなのだ。人間が傲慢だったことの。そして、気づくのが遅すぎたことの。

 その報い、犠牲として差し出されるのが、この高校の生徒たちの命。

 自然を救おうと志していた者たちの命が、よりにもよって人間の身勝手さに対するしっぺ返しによって失われてしまう。こんな皮肉があったものだろうか。

 俺は、その場にへたり込んだ理事長を見下ろした。こんなところで死ぬ羽目になるとはな……。自然と、恐怖や悔しさは湧いてこなかった。心にぽっかりと空洞ができている。これが本当は空洞ではなく、『諦念』というものであることに気づくのに、そうそう時間はかからなかった。


 残り、百十五秒――。と、その時だった。


(私が結界の強化のために、全力を尽くす)

「今の声、葉子だな?」


 俺は屈み込んで、そっと顔を近づけた。


「できるのか、葉子?」

(大丈夫。私は死んでしまうだろうけど)

「……は?」


 何? こいつ、今何て言った?


「あ、あなた、何を言っているんですの!?」


 俺の訊きたいことを、美玲が率先して尋ねてくれた。

 しかし、葉子は無視して続けた。


(今の私でも、皆を守るだけの結界は張れると思う。これでも、人間に変化できる妖狐だからね)

「で、でもお前、長生きできないって……」

(だからよ、修一くん)

「何を言ってるんだ? 俺たちのために、どうしてお前が犠牲にならなきゃならないんだよ!?」


 微かに耳を立てる葉子。


(私がもっと小さい頃、罠に掛かったところを助けてくれたのはあなただった。人間だったのよ。だから、せめて私の命を)

「馬鹿かてめえは!!」


 俺は唾を飛ばして喚き散らした。


「その罠を仕掛けたのだって人間なんだぞ!? そもそも悪いのは人間で、お前は飽くまでその被害者――」

(私が何もしなければ、ここにいる全員が犠牲者になる。だから、この命を使って何とかする)

「おい待てよ!!」


 俺は葉子に手を触れようとした。しかしその直前、ぐいっと後ろ襟を引かれ、尻餅転倒。


「何しやがる、エリン!!」

「あんたこそ何やってんのよ!!」

「今がどんな状況か分かってるのか!?」


 俺は身を捻ってエリンに怒鳴り声をぶつけた。だが、俺の激昂はすぐに鎮まった。

 エリンは、泣いていたのだ。大粒の涙を流して。


「私はずっと両親がいなかったのよ、あなたと違ってね」


 目を伏せ、一気にボリュームを落とすエリン。


「これ以上人が死ななくてもいいように、他人を守れるように、私は訓練してきた。一つの命で数百人の命が救われるなら……!」

「じゃあ俺たちのために葉子を殺すのか!?」

「殺すんじゃない!」

「でも死なせるんだろうが! どう違うってんだよ!」


 俺とエリンが騒ぎ立てている間に、レーザーの発射時刻は迫りに迫っていた。

 残り時刻は――。


「あと六十秒だよ、若い衆! その狐さんに助けてもらうのかどうか、さっさと決めてくれ!」


 後藤先生が、振り向きもせずに荒い声を上げる。時間がない。こうなったら――。


「おい、おっさん!!」


 俺はまだ痛む肺に喝を入れながら、のろのろと立ち上がった理事長に向かった。


「約束、忘れてねえだろうな!!」


 しかし、理事長は首を上下に振るだけで精いっぱいの様子だ。こいつにも喝を入れてやる。

 俺は拳を引き、思いっきり右ストレートを叩き込む――その直前だった。


(止めて!)


 俺は辛うじて腕を止め、そして転倒を免れた。


(その人は、約束を破ったりしない。私はそう信じてる。だから、そんな私を、あなたも信じて)

「葉子……!」


 俺はその場に膝を着き、両手も床に押しつけた。


(一つだけ、頼んでもいい、荒木くん?)

「ああ……。ああ!!」

(私を、お母さんのお墓のそばに埋めてほしいの。この山に慣れたあなたなら、すぐに見つけられるから)


 俺にはもう、口を利けるだけの余裕はなかった。代わりに、葉子を抱き上げ、軽く腕に力を込める。手の甲に水滴が滴った――泣いているのは、俺も同じか。


「発射まであと十五秒!」


 先生の言葉が振り返る。葉子から伝わってきていたテレパシーも感知できなくなった。

 直後、青白い光が葉子の身体から湧き出てきた。この部屋が、光に満たされる。

 俺たちにできるのは、もう自分の目を強く閉じることだけだった。

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