第8話◎
「おーい、六時限目数学、始めるぞー」
と間延びした声が背後から聞こえた。同時に鳴り始める、授業開始のチャイム。教諭がやって来たことを察し、俺も相手も戦闘態勢を解き、席に戻った。
授業開始一日目だというのに、全く疲れるもんだな……。内心呟きながら、俺は数学の教科書を開いた。
※
そんなこんなで、三ヶ月が過ぎた。セミたちはよく鳴き、俺たちの衣替えも完了し、冷房の冷たさと外気の暑さが体調に揺さぶりをかける、いつものような夏だ。
入学式翌日のあの日以降、怪物騒ぎは起きていない。相変わらず葉子はおっとりしているし、淳平は勉強熱心。美玲の横柄な態度も変わりない。
入学式のその日以降、葉子に、自室に侵入されることはなかった。帰宅する度、少しばかり期待しながら、バスルームのドアを引き開けてしまう俺。全く何をやっているんだ……。
クラスの戦況はといえば、なかなか複雑な状態だった。
幸いにも、美玲のことを面白くないと思っていたのは俺だけではなかった。この一年B組は、今のところ、美玲を中心とした取り巻きたちとそれに対する抵抗勢力、あとは二、三人の小グループに分かれている。
俺は、『美玲反抗派』の連中と表面上は仲良くやっていた。だが、実際これ以上事を荒立てるつもりはなかったし、群れるのも好みではない。よって、休み時間中は淳平と時事ネタや進路のことについて話す機会が、必然的に多くなっていた。
ある日の昼休み。
「ところで、修一」
「んあ?」
学食で厚焼き玉子を頬張ろうとした俺に、淳平が声をかけてきた。
「妖怪狐の話、聞いたことはあるかね?」
「何だ、それ?」
俺が厚焼き玉子を飲み込むのを見計らって、淳平が続ける。
「出るんだそうだ。そういう類のものが」
「出るったって、ここは山の中だぜ? 狐の一匹や二匹、珍しくもないんじゃ――」
「それが、ただの狐じゃないそうなんだ」
「というと?」
俺は箸を置き、淳平の言葉を傾聴した。
なんでも、壁をすり抜けたり、瞳を青白く光らせたり、果ては目を合わせた者の動きを麻痺させたりするそうだ。
「……って、最後のやつは、目撃した奴がビビって動けなくなっただけじゃねえのか?」
「確かに、僕もそうは思うがね。ただ」
「ただ?」
俺が耳を寄せると、淳平はさっと視線を走らせ、他者の注目を浴びていないか確認した。
「副委員長権限というものが、僕にはあってね。美玲嬢は使っていないようだが、探りを入れてみたのだよ」
「探り?」
首肯する淳平。
「狐の目撃証言のあった同日同時刻の監視カメラの映像を見てみたんだ。もちろん内密に」
「ふむ」
「そうしたら、狐が映っているはずのカメラには、人間や建物以外、何も映っていなかったんだ」
「それなのに、狐にビビった生徒が何人もいる、と?」
「その通り」
『生憎、人工衛星から情報を得ることはできなかったがね』と、悔しさを滲ませる淳平。
まあ、それはいいとして。
もし高橋理事長の言ったことが本当なら、狐に化けた怪物を補足し、捕まえるなり何なりすることは可能だろう。少なくとも、学生の噂話とはいえ怪物に関わる案件だ。理事長が黙っているはずはないと思うのだが――。
「やっぱり誰かの見間違いじゃねえのか?」
「その可能性も捨てきれんがね」
こうして俺たちは、学食の最後の一口を終えた。
※
「と、いうわけで、今日の午後から学園祭の準備に取り掛かるぞ!」
珍しく楽し気な様子で、森田教諭はそう言った。一気にざわめくクラス。
「私たちが第一回の学園祭を手掛けるのよ!」
「お母様に、最高級の茶葉を送ってもらわなくては!」
「何かもふもふしたものを取り寄せましょう!」
俺は冷めた目で、はしゃぐクラスメートたちを眺めていた。
「全く、金にものを言わせてはしゃぎやがって……」
まあ、俺のうちも金持ちであることは否定できないのだが。
中心でクラスの雰囲気を振り回しているのは、案の定美玲だ。
「今回の主賓はわたくしのお父様! 皆さん、よろしくって?」
『おおー!!』と拳を突き上げる取り巻きたち。さらにその周辺部では、敵対勢力の連中が愚痴をこぼしている。美玲はどうでもいいとしても、もはや親衛隊と化した取り巻き陣に俺は呆れていた。思わず欠伸が出てしまう。
「本当に飽きない連中だよな……。なあ、淳平?」
「……」
「淳平?」
すると、唐突にガタン! と音を立てて淳平は立ち上がった。
「ど、どした、淳平?」
「先生! 森田先生!」
途端に、クラス中が静まり返った。それだけ淳平は物静かで無個性な生徒だったということだ。
だが、今は違う。その瞳を爛々と輝かせ、森田教諭を丸眼鏡の向こうから見つめている。
そして、声高らかにこう言い放った。
「メイドカフェをやりましょう!!」
「!?」
皆がずっこけたり、額を机にぶつけたり、椅子から滑り落ちたりした。ちなみに俺は、驚きのあまり立ち上がってしまった。
「お、おい淳平! 自分が何を言ってるのか、分かってんのか!?」
「もちろんだとも!」
丸眼鏡がギラリ、と不気味に光りを反射する。
「今時、メイドカフェの利用は紳士の嗜みだ! 女性客の注目も大いに浴びている! 子供連れOKの店舗もあるぞ! 皆の創意工夫を以てして、素晴らしいおもてなしをお客様、否、ご主人様に捧げようではないか!」
俺は淳平の肩を揺すっていたが、諦めてするり、と手を落とした。そのまま着席し、呆然自失のまま正面に向き直る。
その時、俺は確かに感じた。クラスメートたちの視線が、一人の『人物』に集まるのを。
思い出したかのように、各々が席に座り直した。しかし視線の先にいる『人物』は、ふんぞり返って腕を組んだまま動かない。
森田教諭までもが沈黙する中、その人物は明快な口調でこう言った。
「素晴らしいアイディアですわ、堂本副委員長! 誰か異論のある方は? いないわね? そういうわけですから、よろしくお願いしますわ、森田先生!」
「お、おう……」
と、いうわけで、我が一年B組の催し物は『メイドカフェ』になった。
※
数日後。
衣装が届いたとのことで、俺はひとまず登校することにした。既に夏休みには入っていたので、校門をくぐるのは数日ぶりになる。
まあ、俺も高校生だ。この歳で『学園祭』にどの程度関わるか、については他人にどうこう言われる筋合いはない。早い話、気乗りしなかった俺は、登校しこそすれ作業にはあまり関与しなかった。
欠伸をしながらクラスに入り、わき目も振らずに自分の席へ向かおうと足を伸ばす。
しかし、そんな折り合いの付け方は、あっさりと崩れ去ることになる。
「さあ、修一! 君も着てみたまえ!」
目の前、視覚の中央。そこには、ぽっちゃり体形のメイドさんが立っていた。ただし、首から上は男子、具体的には淳平。正直、ドン引きした。
すると、俺の驚き様をどう勘違いしたのか、淳平は俺にじりっ、と近づいてきた。
「驚くのも無理はない、他のクラスの方々には真似できない晴れ着姿だからな! 女子の方々だけでなく、我々男子にも好評だ!」
「こ、好評って……」
まさかこんな格好、誰もが好き好んでするわけが――と言いかけて、俺は唖然とした。
「皆様にこんなに気に入っていただけて、光栄至極でございますわ! おーっほっほっほっほ!」
机の上に立ち、高笑いを決め込む美玲。その周囲では、メイド服を着込んだ取り巻きたちがワイワイ騒ぎながらふざけ合っている。
そうか。これだけのメイド装備を揃えられた背景には、理事長の後押しがあったわけか。
しかし、アンチ美玲の連中までこの波に巻き込まれたわけではあるまい。そんな期待とも不安ともつかない目で、俺はクラスを見回した。すると、目に入ってきたのは衝撃の光景だった。
「あれ? お前、結構似合うじゃねえか!」
「お前こそ、なかなか決まってるぞ!」
「ああ、そのリボンはこうやって着けて……」
俺は椅子からずり落ちた。アンチ美玲勢力までもが、この状況を楽しんでいる!?
挙句の果てには、美玲のボディガードがアンチの連中に衣装の着方を教えてやっている始末だ。
俺は完全に取り残された。
しかし、だ。床にぶつけた後頭部を擦りながら、俺は違和感を覚えた。
今回メイドカフェを提案したのは淳平だが、何故美玲はそれに賛成したのだろうか?
あのプライドの高い美玲のことだ。自宅の豪邸で、メイド――給仕と言えるかもしれない――にかしずかれる絵はすぐに思い浮かぶ。だが、自らが『誰かに仕える』立場の人間の姿をすることに、悔しさを覚えなかったのだろうか?
美玲の単なる気まぐれかもしれないし、俺の考えすぎなのかもしれない。しかし……。
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