第三章

第10話 別れ

 アマリアがハラルドの前に進み出ると、彼は露骨に顔を歪めた。今の今まで、彼女がいた事を忘れていたようだった。

 アマリアは深々と頭を垂れた。足がガクガクと震えている。


「なんだ、まだいたのか。さっさと下がれ!」


 怒鳴られると、ビクリと身体が竦んだ。

 トゥーレの意に沿いたいなら、即座に謝罪して部屋を出る方が良いと思う一方で、今すぐ言わなければならないと焦ってもいた。

 自分が聖婚の妻になります、と。

 アマリアにハラルドの思惑を止めることはできはしない。きっと儀式は強行される。誰が贄に選ばれるかは、ハラルドの胸先三寸で決まるだろう。それなら、贄の役を他の者には譲りたくはなかった。


 震えながらも、また一歩前に進む。

 なんて欲深いのだろうと、アマリアは自分を情けなく思う。愛しいトゥーレを思いやるより、一時の幸せが欲しいと望んでしまうのだ。

 どんなに思いを寄せても彼に愛されることは無いのだから、それならいっそ一夜限りの夢を見て、この苦しみから永遠に解放されても良いのではないかと思ってしまうのだ。


「何をしている、早くいけ!」

「……ハ、ハラルド様……私では駄目でしょうか」

「は? 何を言っている。占いはまた後でやれと言…………贄の話か?」

「はい……。この嵐で民衆の心は荒んでしまいました。もはや海神に贄を捧げることでしか、彼らを宥めることはできないでしょう」


 うっとおしそうにしていたハラルドの顔に、ニタリと笑顔が張り付いた。


「その通りだ。で、お前の望みはなんだ?」

「父や親族の呪術師たちに、報奨を頂けましたら幸いです」

「ふむ……呪術師か。お前、確か不浄の娘と呼ばれていたな。死が近いか?」

「は、い……」

「面白い! 不浄の娘がトゥーレの聖婚の妻、か! ハッハッハ! いいだろう、お前が贄になれ。ブリジッタよりも先にアイツの妻になってやれ! いい気味だ!」


 ハラルドは愉快気に、だが憎々しげに大笑いした。

 女中が息を飲むのが背中に聞こえる。震えているのだろうか、ティーセットがカチカチと鳴っていた。

 言ってしまった。もう後戻りはできない。


――トゥーレ様、お許し下さい。贄に反対されている貴方の考えに背くことを。自ら志願したのを、民衆のせいにしたことを。


 祈るように胸の前で両手を握り締め、心の中でトゥーレに何度も謝った。

 罪悪感を抱いているくせに、甘い陶酔に全身を痺れさせてもいた。ドキドキと激しく心臓が鳴るのは、緊張と興奮のせいであり恐怖では無かった。トゥーレと共に過ごせる一度きり夜に恐れを抱くはずもない。例えその先に死が待っていても。

 ただ一時でもいい、仮初めでも構わない。彼に妻と呼ばれたい。そのためだけに贄になる。

 愚かなほどに、アマリアはトゥーレに恋い焦がれていた。







 ドンドンと扉を叩く音に、アマリアは父との別れの時が来たことを知る。

 フーゴは驚いて慌ててベッドからでてきた。既に起きていた娘に気付いて不審げな顔をするので、アマリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。


 多くの者がまだ夢の中であろう早朝。静けさの中に大きく響く音は、日常が破られたことをフーゴにも教えていた。

 扉へ向かうアマリアに掛けられた、父の声は低く鋭かった。


「何事なんだ、アマリア」

「ハラルド様のお遣いの方が来られました……」


 何故という問いにアマリアは俯き、父の顔を見ることもできず、沈黙のまま急いで扉の鍵を開けた。

 よせ、と止める父の手が一歩間に合わず、すうっと冷たい風と共に、使者は親子の住む小屋に入って来た。

 男はぎょろりと、部屋の中を見回した。


「お前がアマリアか」

「はい」

「では、行くぞ。馬車に乗れ」


 使者は単刀直入に言い、身一つで良いと付け足した。

 アマリアはそれに静かに頷く。

 この場で、慌て動揺しているのはフーゴだけだった。


「何のことだ?!」


 なぜハラルドはアマリアに用があるのかと、使者のマントを掴んで尋ねるのだが、男はその手を無情にも振り払う。


「この者は今夜トゥーレ様の聖婚の妻となる。光栄に思え。貴様には報奨が与えられる」


 館の使用人風情が、ハラルドの威光を笠に着ての鷹揚な口ぶりだった。呆然とするフーゴを軽く鼻で笑い、アマリアに再度来いと命令した。


「何を言ってるんだ……ま、待ってくれ、娘と話を! アマリア、どういうことなんだ! 昨日、お屋敷で何があった?!」


 フーゴは使者とアマリアの間に立ちふさがり、掠れた声で叫んだ。娘を見つめて信じられないと頭を振りながら。

 アマリアも父をじっと見つめ返す。今話さなければ、もう二度と父と会えなくなる。伝えたい言葉は、ここで口にしておかねばならない。

 手短にしろよと、使者は面白い見物だというように嘲笑っていた。

 アマリアは軽く礼をし、それから父に向かって深く頭を下げた。


「ごめんなさい、お父さん。ハラルド様が誰にも言ってはいけないと仰られたので……占いの結果、今日トゥーレ様の領主就任の儀式が行われることになったのです。そして夜には聖婚の儀式も……」

「そんな急に…………。いや、それよりも、な、なぜ、お前が贄に……」

「ハラルド様はどうあっても贄を捧げるお考えなのです。儀式をするとお決めになった時、私はその場にいて……。誰かが贄にならねばならないのなら、私が贄に……トゥーレ様の聖婚の妻になりますと自分で申し上げました」


 用意していた言葉を告げた。そして、息を飲み目を瞑る父に、ごめんなさいと深々と頭を下げるのだった。

 とんでもない親不孝だった。

 生きてくれと、父は娘を身代わりとする因果の理を解こうとしていた矢先に、アマリアは自ら命を捨てるというのだから。


「お父さん。私がモーゼス様に仕置きをされた時、庇ってくれてありがとう。愚かな私の為に……。ごめんなさい」


 アマリアは三年前の話をすることで、理由を語ることに替えた。ハラルドの使者が側で聞いているので、詳しく語ることは憚られたのだ。トゥーレへの想いは、決して口にしてはいけないのだから。

 仕置きが何ゆえに与えられた罰であるかを知るフーゴには、アマリアが贄に志願した理由はこれで伝わるはずだ。いや、ただ贄と言うのではなく「トゥーレの聖婚の妻」と言った段階で、察しはついていたであろうが。

 抑え難い、愚かな恋情ゆえなのだと。

 術の代償である茨の死の刻印に、両足を蝕まれ幾ばくも無い命ゆえに、未来を見いだすこともできず、報われない恋に執着してたった一夜の夢を見て死にゆこうとしているのだと。

 唇を噛むアマリアの頬を涙がこぼれていった。

 フーゴもまた、ギリリと苦し気に歯を噛みしめていた。


「許せるものか……。お前は、お前というヤツは、まだこの上に愚かな行為を重ねるというのか! そんなことをして一体なんになる?! 何が残る?! こんなもの自己満足ではないのか! この父を苦しめてまで、お前はトゥ……」

「おい! 神聖な儀式だぞ。愚かな行為とはなんだ、侮辱罪で捕えてもいいんだぞ! さあ、来い!」


 使者がフーゴの言葉を遮り、彼を押しのけアマリアに手を伸ばす。だがフーゴはアマリアの前に立ち、渡すまいと抵抗するのだった。

 カッとなった使者は連れの者たちを呼び、フーゴを何度も殴りつけた。そして、強引にアマリアを迎えの馬車へと押し込んだのだった。

 アマリアは馬車の窓から叫ぶ。


「お父さん! お父さん、ごめんなさい……。どうか、私を取り戻そうとなんてしないで。バカな私の為に罪を犯したりしないで……。本当にごめんなさい。ごめんなさい」

「アマリア!」

「お父さん、ありがとう。大好きよ」


 土砂降りの雨の中を、馬車は慌ただしく走り出す。

 窓から身を乗り出すアマリアの目に、懸命に追いかけて走る父が見える。だが次第にその姿は小さくなってゆく。

 遂には立ち止まってしまった小さな人影が、一瞬キラリと光り、そして叫んだ。

 激しい雨と風の音、馬が泥を跳ねさせながら駆ける音、車輪の音、それらの邪魔を全て超えて、その声はアマリアに届いた。胸に直接、響いてきた。


『生きるんだ! アマリア!』


 柔らかく温かいものに包まれた気がした。

 反面、何かを引き抜かれて奪われたような気もした。

 遠く父が膝を折って胸を押さえているのが見えたが、やがて煙る雨の向こうに消えてしまった。

 アマリアは、ひどい喪失感に襲われていた。父と自分を繋いでいたものが、突然断ち切られたようだった。

 そしてハッと気づく。


――ああ、お父さん! 因果の理を解いてしまったのね! ああ、なんてこと。こんな強引なやり方じゃ、きっと大きな代償に襲われただろうに……


 もう見ることの出来なくなった父の姿を求めて、アマリアは大きく身を乗り出した。わんわんと声を上げて泣いていた。今頃、父は道にうずくまって苦しんでいることだろう。


「お父さん! お父さん!」

「おい、落ちるぞ!」


 使者に馬車の中に引き戻されても、アマリアは泣き続けていた。

 双方に負担なく、穏やかに因果の理を解く方法もあった。しかし、それには準備が必要だった。簡単に解けるものではないのだ。

 しかしフーゴは、アマリアを視界に留めているうちにと、強行したのだ。解くにはもうこの時しかなかったのだ。

 二度とアマリアに、術の代償の苦しみを与えない為に。明日の朝、贄として海に沈む娘に残された時間は僅かだと分かっていてもなお、アマリアを身代わりから解放してくれたのだ。

 生きてくれという、心からの願いを伝えるために。

 『忠実な呪術師である前に、お前の父でいさせてくれ』

 フーゴの言葉がアマリアの胸を締め付けていた。


「……お父……さん」


 アマリアは感謝すればいいのか、謝罪すればいいのか分からず、顔を両手で覆って泣き続けるのだった。

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