第六章
第26話 眠れない夜
静かに燃えるランプの灯りのもとで、トゥーレは書類に目を通し、一心にペンを走らせていた。
急ぐ仕事では無かったが、何かしていないと気が違ってしまうのではないかという、焦りと恐怖に囚われて懸命に文字を書き判を押していた。
この二年、トゥーレは遮二無二仕事に打ち込んできた。
毎年、嵐の被害を受ける農地をいかに守るか、漁に出られない間の民の生活をいかに守るか、そのことに心血を注いで働いてきた。ひたすら仕事にのめり込んできたのだ。
幸いなことに、このところ嵐が長引くことはなく、被害も想定の範囲内だった。贄の儀式は必要なかったし、更にトゥーレは永遠に不要なのだと、幾度となく民衆に説いたのだった。
当初、不安視されたトゥーレの政治力や求心力も、いつしか本物になり政敵もほとんどいなくなっていた。領民は穏やかな生活を送っていた。
呆れたことにキルシは、やはりトゥーレとブリジッタの婚約は破棄するべきではなかったなあ、などと今になってぼやいている。トゥーレがこれ程に善政するとは思ってもみなかったのだろう。キルシの思惑は大外れになった訳だ。
とんだ狸だなと、トゥーレは苦笑するばかりだ。
あの日からトゥーレは眠れなくなった。
日に一、二時間の睡眠が取れれば良い方だろう。どんなに寝ようとしても、眠れない。疲労していても、酒を飲んでも、気晴らしに女を呼んでも、いつも頭の芯が覚めきっていて、眠れることは無かった。心から笑うことも無くなった。
皆が寝静まった夜、一人眠れぬ夜、それをいかにしてやり過ごすか、それがトゥーレの目下の悩みだった。
ランプの灯りはアマリアの揺れる瞳を思い出させるから。夜の闇はアマリアの白い肌を思い出させるから。常に胸を締め付ける痛みは、夜になると倍増してしまうから。
二年の月日は、トゥーレの苦しみを少しも和らげてはくれなかった。
書類へのサインが終わり、トゥーレはペンをダンと机に叩きつけて立ち上がる。
次は何をすればいい。明日やるべき仕事の準備も済ませてしまった。部屋にある本は全部読んでしまった。次は何をすればいい。
トゥーレは焦り歯噛みしながら、イライラと部屋の中を歩き回った。
と、コンコンとドアが叩かれた。
今は夜中であり、通常であれば人が訪ねてくるような時間ではない。しかし、眠れないトゥーレは時間にまるで頓着しない。朝までの長い時間を少しは潰すことができるとホッとしたほどだ。
「入れ」
言って、自らドアを開けた。
そこにいたのは、少しくたびれた顔をしたラルスだった。
「いやぁ、久しぶり」
「お前か……。帰ったとは聞いていた。ゆっくり休んで明日の朝にでも来れば良かったのに」
トゥーレは、ラルスを招き入れる。休めばいいのにと言いつつ、さあ中に入れと手を広げて歓迎していた。語り合う相手として、ラルスは最適だった。
「ゆっくりしたいからここに来たんだ。分かってくれよ。ブリジッタが今夜、俺を休ませてくれると思うか? あんたの顔を見る方がよっぽど癒される、なんてね」
ラルスがおどけて肩をすくめると、トゥーレも苦笑を浮かべた。
三ヶ月程、家を空けていた夫の帰りを、ブリジッタはずっと待ちわびていたから、あまりの熱烈歓迎ぶりに、ラルスの方が逃げたしたというところかとトゥーレはクスリと笑った。
領主就任の翌日、ブリジッタとの婚約は破談となり、彼女はその後ラルスの妻となった。今では子どもも生まれて、結構仲良くやっているらしいのだ。
ブリジッタは喜怒哀楽の激しい女性で、それは今でも変わらないのだが、この頃はトゥーレが一度も見たことのない穏やかな表情も浮かべるようになった。
当時、彼女の思いに応えられなかったことや、彼女がアマリアの存在に苦しんでいたことに、全く気付きもしなかったことを申し訳なく思う。しかも未だにアマリアを忘れられない、こんなバカな男との結婚をやめたのは、彼女にとって正解だったはずだ。ラルスと幸せになった彼女を見るにつけ、ホッとするのだった。
とはいえ、未だにブリジッタとはお互いに気まずさが拭えず、二人きりで会う事は殆どない。それでも先日、ラルスからもうすぐ帰ると手紙が届き、ブリジッタは嬉しそうに伝えてくれた。夫の帰りを喜ぶ彼女を微笑ましく見つめたものだった。
ラルスはドサリとソファに身を投げ出した。トゥーレもその向かいに座る。
以前トゥーレが留学した国へ、ラルスを学びに行かせていた。その勉学の旅から、今日彼は帰って来たところだった。ゆくゆくは、異国の知識を学ぶ者をもっと増やしてゆこうと考えている。
ラルスには、特に気象について出来る限り多くの知識を得てくるように命じていた。定期的に彼から送られてくる手紙を受け取り、順調に知識を蓄えている様子にトゥーレは満足していた。
トゥーレ自身も天候の観測は続けていたし、ラルスから送られてきた文献をもとに、この地を襲う嵐がいかにして起こるのか、常に考察を重ねている。
「まあ、この旅はいい勉強にはなったよ。でもさ、トゥーレ、あんただけの秘密にしておけば良かったのに。そうすりゃ、トゥーレ様がいつでも嵐を鎮めて下さる、生き神様ありがたやありがたや、で下にも置かぬ扱いで……」
「止めろ。俺はそんなものになりたいなんて思ってない」
「俺を崇めろって絶叫したの、何処の誰よ?」
「…………嫌な奴だな」
トゥーレはこの二年、嵐の始まりと終わりを予言することに見事成功していた。その上で、これは神のなせる業ではなく、細かな観測と知識によって予測できうるのだと、常々領民に説いているのだった。
愚かな因習にすがるくらいなら、自分を崇めろと言いはしたが、神になりたいなどとは露ほどにも思っていない。
「知識は共有するものだ。一人が独占するのではなく、みなで共有してこそ、後々まで残してゆけるんだから」
「いやいや、あんたにしかできないよ」
「お前だって勉強してきたんだ。できるさ。今年の嵐の予測はお前がやってみてくれ」
「はぁ?! 無理だろ!」
「俺にできたんだ、お前にできないはずがない」
大きく目を剥き頭を振るラルスの顔が少し赤くなっていた。
トゥーレは微笑む。弱音を吐くのは、予測の大変さを理解しているということで、ラルスがそれだけ真剣に勉強して来てくれたからだと、嬉しく思うのだった。
彼ならきっとできるとトゥーレは信じていた。
遠くから馬のいななきが聞こえて来た。ちらりと窓の外を見ると、厩舎の方に明かりが灯っている。ラルスの馬が暴れているのかもしれない。
「……勝手に言ってろ、って言いたいとこだけど……」
馬のいななきに一瞬真顔になったラルスが、ころりと表情を変えニタッと笑った。それは口元だけの笑みで、目は決して笑っていなかった。
立ち上がりテーブルを回りこんで、トゥーレの前に立つ。
「ま、手柄を全部、俺のものにするってのも、一つの手だよな?」
「ラルス?」
どうしたのかと訝しげにしているトゥーレに、ラルスはぬっと顔を近づける。
そして低い声で、囁いた。
「金印を出すんだ。領主の証の……」
ラルスの手にはいつの間にかナイフが握られていて、トゥーレはそれを喉に押し付けられていた。
驚きはしたが、恐れてはいなかった。トゥーレはなんの抵抗もせず、ラルスを見上げる。この従弟が領主の座を狙っていたとは意外だったなと、冷めた感想すら抱いていた。
「ラルス。こんな事をしなくても、俺はいずれお前に譲るつもりだったんだがなぁ……」
本心だった。長く領主でいるつもりも、生きているつもりもなかった。ある程度、嵐の予測が立てられるようになり、被害を減らすことができれば、贄の風習もきっと失くせる。
そうなった時、ラルスに領主の座を譲ろうと思っていたのだ。そう遠くない未来に、実現できると思っていた。彼が嫌がっても押し付けるつもりだったのだ。
ラルスの膝が、ぐいぐいと鳩尾に食い込んできた。体重がどかっとのしかかって来て、息が詰まる。
「今、欲しいんだ。俺はあんたの要らないもの、全部欲しい……」
冗談を言っている目では無かった。ラルスの顔は真剣そのもので、何か強い感情を抑え込んでいるような目だった。
「……やはり、仇を打ちたいのか?」
ハラルドはあの後、命は取り留めたがすっかり生気を失い、今は失意に沈んだ隠居の身なのだ。
領主を代われというなら、喜んで代わる。親の仇を取るというなら、それもいいだろう。
しかし今は駄目だ。穏当に領主交代をし、その後になんとでも理由をつけて自分を牢に入れるか処刑すればいいのだ。そうするのが、彼の今後の為だと思うのだ。
「だがラルス、今は待て……」
「え? 仇ってぇ? 何の話?」
すっとぼけた声を出すものだから、思わずトゥーレの眉が歪む。この従弟は、昔からこうだ。ふざけた顔の下で何を考えているのか、分かりにくいのだ。
真面目な顔をしたのは一瞬で、今はもう口をニヤつかせながら、また腹に膝を食い込ませてくる。
「……俺は、お前の父親を再起不能にしてしまった」
「あぁぁ、あれね。あれは感謝してるよ、本当に。マジざまぁだったよな。でもさ、金印は別件よ。俺の欲望っていうか、野心よ」
トゥーレはまた、顔を険しくさせる。
以前にもハラルドのことは二人で話しあったのだが、その時もありがとうなどとラルスは言ったのだ。子どもの頃のことは、未だに残る傷だったらしい。
しかし、それでも親は親だから、心の奥では自分に恨みを抱いているだろうと思っていたのだが。トゥーレには彼の真意が分からない。
ラルスは糸の様に目を細めて笑う。相変わらず、ナイフは喉に押し付けられていた。
「で、どこ?」
「机の上にある……」
「不用心な! 俺に持ってけって言ってるようなもんじゃないか」
ラルスはカラカラと笑った。悪人を気取るの楽しいらしい。愉快そうにトゥーレを見下ろした。
「そんじゃあさぁ……あんたは俺の土産話、持ってく?」
トゥーレに抵抗する気が無いのは分かっているのだろうに、ラルスは髪を掴んで顔を無理に上げさせる。じっとりと目を合わせてくるのだった。
ラルスは単に悪趣味な遊びを始めただけかもしれないし、本当に自分を殺して領主になろうとしているのかしれない。
どちらでもいいさと、トゥーレは思う。こんな事になるとは思いもしなかったが、恐怖は無い。もうとっくに心は死んでいたようなものだから、死ぬことは怖くは無いのだ。
だが、ラルスに殺される事を口惜しく思うのだ。彼の手が血で汚れることが、残念でならないのだ。
自分がもっと上手く立ち回っていれば、ラルスはこんなバカな真似はしなかったろうと。いつだって自分は後手で、肝心なことが手抜かりばかりなのだと、トゥーレは自嘲するのだった。
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