第2話 代償の茨

――ああ、トゥーレ様……お声を聞くのは一体いつぶりだろう……


 非常時だというのにトゥーレの声を聞いただけで、アマリアの胸は甘く疼いてしまう。

 彼の後方、船の側に彼が乗ってきたのであろう馬車が停まっている。普段の乗用ではなくホロの付いた荷運び用であるのは、領主の遺体を屋敷に運ぶためだろう。この馬車の到着で、船の上は慌ただしくなっていた。

 馬車からここまでの十数メートルを歩いただけで、トゥーレのマントはすっかり濡れて色が変わり、しっかりと被ったフードからは水滴が滴っていた。雨が治まる気配はまるで無かった。

 トゥーレを呼ぶ声が聞こえたが、彼は振り返らずフーゴに視線を定めていた。


「風が鳴っているだけだ。お前の為すべきことは、もうここにはないはずだ」


 トゥーレにも、風が第三夫人の哄笑などには聞こえていないようだ。

 海神に生贄を捧げる儀式は今すぐ捨て去るべき野蛮な風習であり、神は生贄など求めはしない、と彼はいつも主張していた。だからこそ、これは第三夫人の呪いだなどと、恐れたりはしないのだろう。

 しかし、彼の声には怒りが含まれていた。早く領主に遺体を連れ帰らなければならないのに、それをおしてでもフーゴに言わなけれなならないことが、彼にはあったのだ。

 儀式の失敗そのものを咎めることは無いだろう。しかし、父親の死は別だ。

 フーゴが為すべきだったこと。それは領主を守ることに他ならない。


「……トゥーレ様。誠に申し訳ございません、いかようにもお裁きを受ける覚悟はできております」


 フーゴはさっとひざまずき、額に砂がつく程に頭を下げた。アマリアも一緒に頭を下げた。

 アマリアは、震えながら懸命に祈っていた。心から慕う恋しいトゥーレに、大切な敬愛する父を断罪されるなんて悲劇でしかない。

 領主の命を奪ったのは父ではないのだから、どうか慈悲を与えて欲しいと、そっと顔を上げトゥーレを見つめた。

 一瞬、彼と目があった。厳しい目をしていた。


――ああ、お父上様を亡くしたのだもの……お怒りになられるのも当然。でも、でも……


 トゥーレはすぐにフーゴに視線を戻していた。そして、ゆっくりと首を左右に振った。


「そうではない。叔父上に穢れを祓えと言われたらしいな? しかし、お前の仕事は儀式の為に祈ることだけだ。それ以外のことはする必要はない」

「しかし、ハラルド様のご命令ですので」

「俺が必要ないと言っている。むしろお前は父の遺体に悪霊が入り込まぬように番をすべきだ」

「……はい」

「エリッサ殿が持ち込んだ刃物を見落としたのは、警備の責任だ。お前が気に病むことはない。一緒に来て父の側にいてくれ」


 さあと両手を広げるトゥーレを、アマリアは呆然と見つめていた。

 彼は、領主をみすみす死なせてしまったことに父の責任は無いと明言し、しかも難しい仕事から簡単な仕事へと変更を言い渡したのだ。

 穢れを祓う浄化の術で、第三夫人エリッサの魂を慰めるだけなら、フーゴにとって難しいものでは無い。まだ亡くなったばかりで悪霊に変化している訳でもないので、すぐに去っていくことだろう。

 だが、それだけでは浜に居るハラルドたちは満足しない。笑い声のように聞こえる風の音は自然現象であり、夫人が怪異を起こしている訳ではない。だから彼女の魂が天に昇ったとしても決して音は止まない。

 ハラルドを納得させるためには、風向きを変える術も使わなければならないだろう。そして術を使うにはアマリアが必要であり、彼女の身体に負担がかかる。そういう意味で、フーゴ親子には使いたくない術であり、難しい仕事なのだった。

 それに対して遺体の番とは、埋葬までの間ただ側に付いていれば良いだけの仕事なのだ。悪霊が遺体に入り込むなどというのは、それこそただの迷信なのだから。

 もしかしてトゥーレもそうと分かって言ってるではないか、そうアマリアは思う。

 フーゴも怪訝な顔をして彼を見上げていた。





 術を使うには、代償が必要だ。何かを得れば、何かを失わなければならない。大抵は命を削ることになる。それが呪術の理だった。

 フーゴが使う術の代償を、アマリアはその身に引き受けてきた。動物を身代わりにできる時はそうする。しかし、今回のように急な場合はアマリアが代償を受けるしかない。

 アマリアが父の身代わりを務めるのは、高度な術者である彼に術のしっぺ返しを受けさせないためだ。フーゴが倒れてしまっては、領主一族に仕え続けることができなくなるのだから。

 アマリアの前は、死んだ母がその役を担っていた。

 呪術師は笑わない。表情を見せない。術の何たるかを語らない。領主一族の命令にだけ従い、堅く口を閉ざす。そして家族を身代わりに使い、家族も粛々と死を受け入れる。この得体の知れなさも、忌み嫌われる所以なのかもしれない。


 代償は痣となって身に刻まれてゆく。赤黒い茨のような文様が足の先から、徐々に巻き付くように上ってくるのだ。それは死の刻印だった。

 アマリアに刻まれた茨は、今両足の腿に達していた。母が亡くなった時は首を絞めるように茨が取り憑いた時だったから、今しばらくは猶予がありそうだ。

 父はいつも済まぬと涙を流す。けれど、アマリアはいいえと頭を振った。父のせいではない。恐ろしくはあるが、他にどうしようもないのだから。

 不浄の娘と陰口を叩かれることもあった。呪術師の中でも、もっとも深く死の穢れを受けているためだ。

 しかしアマリアは、身代わりを降りようとは思わなかった。この役目は、いつか領主になるトゥーレの為にもなると信じていたから、耐えることができたのだ。陰ながら支えられるのだと。

 どれだけ恋しさに涙を流そうと、不浄の娘には口にすることも憚れる恋。報われずとも、彼の為と思えるだけで良かった。





 一緒に来るように言うトゥーレを、フーゴは眉間に皺を寄せて見つめていた。どう返答すべきか悩んでいるのだろう。

 アマリアには、父のその迷いがよく理解できる。領主モーゼスが亡くなった今、フーゴは従うべき相手が誰になるのかを見定めなくてはならないのだから。

 モーゼスの弟のハラルドか、息子のトゥーレか。

 通常であれば息子が継ぐものである。モーゼス自身もそのつもりで息子を教育していた。だが、後継者としての指名はまだ行っていなかったのだ。

 そして、ハラルドは兄が壮健である時から野心を露わにしていたし、次期領主には彼の方が相応しいのではという声も以前からあったのだ。昔から続く風習に否定的であるトゥーレは、領主一族の中では異端だからだ。

 アマリアにとっては迷う余地もなく、主はトゥーレただ一人なのだが、突然の跡目相続となれば、話がどう転ぶかは分からない。


「トゥーレ!」


 船の方から一際大きな声がかかった。苦々し気な顔をしたハラルドだった。

 トゥーレは付いてくるように合図をして歩き出す。そして船を降りて来た叔父に軽く頭を下げた。


「父を馬車に運び込む準備はできましたか」

「とっくにできている! お前が連れて帰らねばならんのに、何油を売っているんだ。それに、なぜそいつらを連れて来た。穢れを祓うように言いつけていたのに、邪魔をするな!」

「穢れとは何でしょう。それよりも父の遺体に悪霊が入り込むことを防ぐ方が大事です。それとも叔父上は、風の唸りごときがそんなに恐ろしいのですか?」

「なんだと……わしを愚弄し逆らうというのか……」

「私は父の跡を継ぐ者として、為すべきことを為そうとしているだけですが。私に従ってもらえないでしょうか、叔父上」


 トゥーレの嘲笑を含んだ台詞に、ハラルドの顔が赤らんだ。もう領主の座を巡っての争いは始まっているのだ。モーゼスが死んでまだほんの数時間しか経っていたいというのに。

 二人の会話を、アマリアとフーゴは見守ることしか出来ない。ハラハラと落ち着かず、アマリアは父に寄り添いそのマントをぎゅっと握っていた。


「わしは、その悪霊を祓えと命令していたのだ! あのエリッサめの笑い声が聞こえんのか!」

「ただの風の音です。風向きが変われば勝手に消えます」

「お前はここに居なかったから分からんのだ! あの女が呪いを吐いて死んだ途端に、この笑い声が始まったのだぞ! しかも雨も風も激しくなった。海神様がお怒りになっているのだ。あの女が海を穢したからだ! この穢れを祓うことこそ大事ではないか! 貴様こそわしに従え!」


 ハラルドはトゥーレに掴みかからん勢いだった。

 上背のある甥を鬼の形相で見上げて、その胸をどんと殴った。そしてフーゴに浄化の儀式をしろと再び怒鳴ったのだった。


「必要ありません」


 トゥーレは毅然と言い放つ。ハラルドに殴られた部分をパンパンと掃い、うっすら笑ってさえいた。穢れを祓う儀式も、叔父に従う必要もないと。

 彼は、行かなくて良いとフーゴを手で制した。


「葬儀の準備が先です。領主が亡くなったのですよ。突然に、何の準備もないままに。やるべきことは山ほどあります。こんな風、放っておけばいい。どうせしばらくすれば風向きは変わるのですから」


 フーゴは両者の板挟みだ。悩まし気に瞑目してじっと黙っていた。元より発言権など無いのだが。けれどアマリアには、従うべき人はとっくに決まっている。


――ハラルド様は、私たちを使い勝手のいい奴隷程度にしか思っていない……。古い因習を廃そうとしているトゥーレ様こそ、次の領主に相応しいわ。


 恋した贔屓目だけでなく、自分たち呪術師一族の行く末を思えば、トゥーレに期待を寄せてしまうのは自然なことだと思う。

 そして、ふとある考えが閃いた。

 アマリアはその考えの素晴らしさに息を飲み、すぐさま父の袖を引き「見つからぬように、術で風を」と囁いた。


――今すぐ風の鳴る音が消えたなら、みんなトゥーレ様の言った通りだと信じるようになるわ! 実際トゥーレ様は正しいもの。こんな音、風向き次第で消えるんだもの。


 彼の慧眼を認めさせるために、術を使って欲しいと父に伝えたのだ。今すぐここで誰にも知られぬように。

 父ならば意図を察してくれると信じていた。そして、やはりフーゴは娘の考えを正確に読み取ってくれた。

 じっとアマリアの瞳を見つめ、本当にいいのかと、言葉ではなく問いかける。アマリアが小さく頷くと、一瞬間を置いてからフーゴも微かに頷いた。

 呪術師は諦めたように重い息を吐いてから、マントの下でロッドを握り締める。風の轟音に紛れて、ほとんど唇を動かさずに微かな声で呪文を呟いた。


 その瞬間、術の反動はアマリアに返ってくる。ビリビリと身体が痺れ、焼けた火箸で肌を引っ掻かれるようだった。足の茨の痣が巻き付きながら更に上へと伸びているのだ。

 酷い痛みだったが、アマリアは何事も無いように耐える。父が術を使っているのを誰かに知られては意味が無いのだから。とりわけハラルドには決して感づかれてはならない。

 気丈にアマリアは立ち続ける。押し問答を続ける彼らを前にしてキュッと唇を結んで耐えていた。そして変化が起きた。


「………おや? 我々が話している間に、風が笑わなくなりましたね」

「なに? ……ぐ、偶然だ!」


 取り巻いていた者たちの間で、どよめきが起きた。トゥーレの言った通りだと。

 風向きが変わり、耳障りな音が消えていたのだ。

 フーゴは完璧に風を操っていた。術を保てるのはあと数秒だろうが、解いた後再び風向きが元に戻るまでには数分かかるはずだから、これで充分だ。もう皆がトゥーレに賞賛の目を向けているのだから。

 思惑通りに事が運び、アマリアはホッと息をつく。すると術が解け、身体の痛みがすっと消えた。

 そしてつい気が緩んでしまったか、アマリアは軽いめまいを起こし、フーゴのマントを掴み寄りかかってしまった。倒れてはいけないと、慌てて姿勢を正したのだった。風に煽られたように装い、フードを被りなおした。

 うつむき気味な視界の端で、ちらとトゥーレがこちらを見たような気がした。

 

「…………ええ、偶然でしょう。全ては自然の起こす現象なのですから。さあ、もうこれで良いでしょう。叔父上、父を運ぶのを手伝って下さい」


 ハラルドは苦虫を噛み潰した顔でチッと舌を打ち、船ではなく自分の馬車へと大股で歩いてゆき、そのまま立ち去ってしまった。甥の言葉に従う気はないらしい。

 他の者たちも一斉に動き出した。トゥーレの指示に従って、領主の遺体の搬送を始めた。

 安堵してアマリアがその様を見守っていると、くるりとトゥーレが振り返った。今までほとんど見向きされなかった。そしてようやくアマリアをしっかりと見つめた彼の顔は、叔父をやり込めた満足とは程遠い顏だった。


「余計なことを……」


 トゥーレはギッとアマリアを睨みつけていた。

 胸に針を刺されたような気がした。

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