第一章

第1話 風が嗤う

 玄関の扉をダンダンと叩く音が、狭い家の中に響き渡った。

 アマリアがベッドから起き出し、母の形見である擦り切れそうなガウンを羽織った、丁度その時だった。訪問者の焦りを表わしてか、降り続く雨風の音を引き裂く程の激しさだった。

 目覚める直前、浅い眠りの中で何か不穏な胸騒ぎを感じたのだが、このけたたましい音は、現実に凶事が起きていて不安は錯覚ではないとアマリアに教えていた。

 息を呑み扉へと走る。

 今日は早朝から、海神に贄を捧げる儀式が行われているはずだ。その為に呪術師である父フーゴは昨夜から、海近くの砦に詰めているのだから。


 呪術を生業とする家にアマリアは生まれた。領主一族を陰から支えてきた家だ。決して表舞台に出てはならない一族だった。

 領主の身を守る為の呪術、村を守るための呪術、様々な術を行い、彼らのお抱えとして仕事を与えられていた。

 しかし一方では、呪術師は穢れた者として嫌悪されていた。いつも黒衣をまとい、常人には真似できない怪しげで不可思議な術を使う彼らを、人々は恐れているのかもしれない。

 一説には、醜い魔物の子孫だとも言われている。好んで呪術師に近づく者は一人もいないのだった。


 ダンダンと鳴り続ける扉。

 嫌な予感に鼓動が激しくなる。震える手で扉を開けると、領主の屋敷で働く馬方の青年が青い顔をして立っていた。


――まさかお父さんに何かあった……の?


 何事も無く儀式が執り行われたならば、フーゴは昼頃には戻るはずだし、こんな早朝に連絡がくることも無い。しかも、普段なら呪術師に決して近づくことのない人間がここに来たのだ。変事があったことは明白だ。それも恐ろしいことが。


「りょ、領主様がお亡くなりになった……」


 雨に濡れた青年が、ぶるぶると唇を震わせせているのは寒さのせいばかりではない。突然の凶報に、アマリアの目も驚きと恐怖に見開かれゾクリと身体が震えた。


「ど、どうして……」

「贄が、第三夫人が領主様を殺したんだ。詳しいことは後で話すから、とにかく一緒に来い。連れて来るように、あんたの父親に言われたんだ」


 領主が殺された。

 それも大切な儀式の最中に。しかも贄として捧げられるはずだった女に殺されるなど、これまでに聞いたこともない大凶事だった。

 今頃浜は大騒ぎになっているだろうと、アマリアはこの異常事態に大いに慄いていた。だが、領主の死を悼むよりも、その息子であるトゥーレを案じる気持ちの方がむしろ強かった。後継争いが起こるのは必至だからだ。

 トゥーレは海神に贄を捧げる儀式に反対していた為、一族からも豪族たちからも異端とみられていた。すんなり彼が領主になれるとは限らないのだ。

 アマリアは震えながら身支度を整え、青年と共に雨の吹きすさぶ中を浜へと向うのだった。




 この時期必ずくる悪天候が、今年はひどく長引いている。

 止まぬ嵐の被害は甚大で、それ故に領主モーゼスは贄を捧げることを決めた。贄は彼の第三夫人だった。なぜなら海神が求める供物とは、この地の支配者の妻なのだから。

 古来より支配者たちは、己の妻を海神へ捧げて領地と民の安寧を祈願してきた。しかし、いかに治める地と民の為とはいえ、妻を平気で差し出せる者は少ない。故に逃げ道が作られた。


 仮初めの妻を神への供物とするのだ。生贄の女を聖婚の妻と称して。

 海神に捧げる前夜、支配者は生贄の女と共に浜辺に固定された船に籠り、契りを交わして妻であることを神に示すのだ。

 この儀式を聖婚と呼ぶのだった。神に捧げる神聖なる結婚という意味合いだ。

 しかしそれは、実際の妻の身代わりを立てるやましさを言葉で繕っているだけだと、誰もが知っている。知りながら口を噤んでいた。


 しかし、モーゼスには身代わりを立てる必要が無かった。彼には三人もの妻があったからだ。贄を捧げると決めた時には、誰が贄となるかも決まっていた。

 強い後ろ盾のある、先の二人の妻を贄にすることなど、モーゼスは考えにも及ばない。始めから第三夫人を贄にするつもりでの決定だった。

 夫人は、何年か前にモーゼスが異国より連れて来た女だった。美しい金髪が珍しかったのか、戦のどさくさに紛れて戦利品のように攫ってきたのだ。しかし可愛がったのは初めだけで、今の彼女は打ち捨てられた妻だった。

 これまでの支配者のように仮初めの妻ではなく、本物の妻を捧ぐのだから、海神の怒りは必ずや鎮められるだろうと、モーゼスは前祝いの盃を傾けたという。

 そして昨夜、モーゼスは第三夫人と共に船に乗り込んだ。聖婚の儀式と同様にそこで一夜を過ごし、朝になれば船を降りて第三夫人だけが船もろともに海に沈められる予定だった。生贄を載せた船の底には初めから穴が開けられているのだ。

 その船を沈める際に、海神へ祈りを捧げるのが父フーゴの仕事だったのだ。


 アマリアもここまでの事情は知っていた。

 第三夫人を気の毒に思いつつも、どうしようもない事だった。彼女を助けるには、他の誰かが身代わりにならなければならないし、領主の決定を覆すのも命がけになるのだから。

 雨にぬかるんだ道を、泥をビシャビシャとはねさせてアマリアと青年は浜へと急いだ。


「領主様を船からお降ろしするために見張り番が扉を開けたら、刃物を持った夫人が飛び出してきたんだそうだ」


 少し息を乱れさせながら馬方の青年は、浜で起きた事の顛末をアマリアに語って聞かせた。時々、声が震えていた。


 夫人はスカートの下に刃物を隠しもっていたようだ。突然、見張りに切りかかり怯んだ隙に船から飛び降りて逃げ出したのだ。後で調べたところ、船の部屋の中では腹を切り裂かれた領主が、恨めし気に目を見開いて横たわっていたそうだ。

 舟を囲んでいた男たちは、予想だにしない物音に当初何が起きたのかと呆然としていたが、夫人が岩場へと走るのを見た途端、我に返って追いかけ始めた。贄を逃がす訳にはいかないのだ。


 夫人は岩場をよじ上りながら、高らかにわらっていたのだと言う。裸足の足が岩に傷つけられるのも厭わずに、吹き付ける風など意に介さぬように。

 彼女曰く。無理やり攫われてきた積年の恨みを晴らてやったのだ、と。

 モーゼス亡き今、既に自分は当代・・領主の妻ではない、だから条件が満たされず儀式は失敗したのだ、と。

 血の呪いよ受けよ、神の怒りを買って滅びてしまえ、と。

 夫人の哄笑が浜辺に満ちた。


 彼女を追いかけた男たちは、領主が死に儀式が無為に終わったと告げられ絶句し、そして怒号を上げた。勢いよく飛びかかり彼女を捕らえようとした時、強風が彼らの足元をすくいぐらつかせた。

 海にせり出した高い岩場の頂上まで登った第三夫人は、更に甲高い笑い声を上げて男たちを見下し、卑しきものよ滅びよ、けだもの領主と共に滅びよ、と再び呪詛を吐いた。

 そして、自ら荒れ狂う海に飛び込んだのだった。


 青年はゴクリと唾を飲んだ。その歩みは少し速度を落としていた。浜辺はもう目と鼻の先だった。

 ここまで聞いて、アマリアは父が自分を呼んだ理由が分った。第三夫人の言霊の呪いを払う為なのだと。


「夫人は白波の下に消えたのに、確かに沈んだのに、いつまでも甲高い笑い声が聞こえてくるようで……耳にこびりついて消えないんだ」

「……そうなのですね」


 アマリアは青い顔をした青年に微笑み、そして防風林の向こうに父フーゴの姿を見つけると、そっと手をふって合図したのだった。その後、青年は別の仕事があると言って立ち去っていった。

 林を抜け浜に出ると、塊のような風が直接ゴウと吹き付けて、アマリアのマントを剥がそうとする。フードが外れ、無情な雨風が栗色の長い髪を嬲り始めた。

 笛のような音が聞こえてくる。岩場が多いこの浜で時折聞こえてくる音だ。


 アマリアたちがフーゴのもとに到着すると、船の上にいたずぶ濡れのマントの男の一団が一斉に振り返った。そして、それを押しのけるように、奥から小太りな男が出て来た。領主の弟ハラルドだった。

 船から身を乗り出し、顔を真っ赤にして彼は叫んだ。


「早く祓え! 一刻も早く穢れを祓うのだ!」


 フーゴとアマリアは深々と頭を下げた。

 船の上の一団の中に、アマリアはトゥーレの姿を探したが彼はいなかった。

 考えてみれば、それは当然かもしれない。彼はこの儀式に反対していた。贄の沈むところなど見物に来たりはしないのだ。

 だが、父である領主が死んだとなれば話は別だ。きっと今頃、急ぎこちらに向かっていることだろう。

 父娘は、第三夫人が呪いの言葉と共に身を投げたという岩場へと向かった。その背中にハラルドの怒声がかかる。


「急げ! こういう時の為に、貴様らを飼ってやってるんだぞ! クソッあの女、身を投げるくらいなら、大人しく沈んでおれば良いものを! さあ、早く消すんだ、この気味の悪い笑い声を!」


 ハラルドには、岩場を通る風の音が第三夫人の笑い声に聞こえるらしい。いや、彼だけではなくここにいるほとんどの者は、皆ハラルドのように思っているのだろう。使いできた青年も、夫人の声が耳にこびりついていると言っていた。

 走りながらアマリアは父にそっと囁く。


「……お父さん、これは風の音だわ。時々聞こえてくるのと何も変わらない」


 浸食によって岩に穿たれれた穴を、風が通る時の音なのだ。風の方向や強さによって音が鳴ったり止んだりする。それだけのことなのだ。


「分かっている。恐れからくる幻聴だ。心の弱い者には笑い声に聞こえてしまうのさ。しかし、第三夫人様が残した憎しみの念がこの浜に漂っているのも事実だ。あの哀れなお方をこれ以上苦しめる訳にはいかんだろう……」

「お父さんには見えているのね……」

「ああ、見える・・・


 岩場の手前で立ち止まったフーゴは、その頂上を見上げていた。彼の目にはそこから身を投げた第三夫人の姿が見えているのだろう。アマリアも見上げはするが、フーゴと同じものを見ることはできない。

 こんな時、アマリアは父の偉大さにいつも敬服するのだった。


「いつもすまない……アマリア」


 しかし、フーゴはぽつりと呟く。娘を痛まし気に見つめるのだった。

 アマリアはゆっくりと首を振り、胸の前で手を組むと目を瞑った。

 浄化の術をどうぞ始めてくれと、父を促すのだった。この術の為に彼女は呼ばれたのだから。


「私にはお父さんのような力はないもの。こうやって役に立てるだけで満足だわ」


 フーゴは苦し気に顔を歪めて頷いた。しかし、一つ大きく息を吐くとすぐに術に取り掛かったのだった。

 ひざまずいたアマリアの前に立つ。懐から呪具のロッドを取り出し、アマリアの頭にかざした、その時だった。


「フーゴ、何をしている?」


 若い男の声がするりとアマリアの耳に滑り込み、ドキリと胸を震わせた。

 顔を上げて確認しなくても分かる。トゥーレが到着したのだ。


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