第18話 朝なんて来なければいい
アマリアは、項垂れるようにして足元を見ていた。
震えているのは夜気が冷たいせいだけではない。己の身体を抱きしめたくなるが、ギュッと拳を握り、半ば意地を張るように身を隠すことなく立っていた。
「……よすんだ、アマリア。俺は……俺は、抱けぬよ。こんな……バカげた儀式で……お前を抱けぬ」
震えるアマリアの裸身から目を背けて、トゥーレはそう言った。
やはりこんな醜い自分では駄目なのかと、アマリアは自分の足を見つめる。赤紫色の茨のような痣が、ぐるぐると脚に巻き付いている。つま先から足の付け根まで。
この死の刻印がどんどんと上昇してゆき、喉を絞める程になったころ、彼女の命は尽きるはずだった。今は父とのつながりが切られてしまったから、これ以上昇ってくることはないのだが。
死という不浄をまとう身体。こんな不気味で不吉なものを晒して、トゥーレが良い気になるはずもない。アマリアは、己の身を省みることもしないで、おこがましく聖婚の妻にと名乗りを上げた浅慮を恥じるのだった。
しかし、それでもやはり後戻りはできない。
「……私など、相応しくない事は承知しております……。け、けれど、どうか、これもご領主の勤めと……」
儀式を全て遂行してこそ、彼は真に領主として認められるだる。だから、これから先、彼が領主として立派に統治してゆくためにも、その第一歩で躓かせるわけにはいかないのだ。
アマリアはトゥーレにゆっくりと歩み寄る。しかし、やはり彼は目をくれようともしない。羞恥と惨めさに涙がこぼれそうになるのをこらえて、彼の手を取る。ビクリと彼の指が跳ねたが、振り払われることはなかった。
「妻にしてくださいませ……」
そっと彼を、小さな胸の膨らみへと導いた。まだ誰にも触れさせたことのないその場所へ。
しかし温かい掌は、触れた瞬間に離れていってしまう。また一つ、アマリアの切なさが重なった。
「よすんだ……」
もう堪えきれなかった。つぅっと、涙が頬を伝う。
本当は、逃げ出したいくらいに怖かった。トゥーレと二人きりなれば、きっと甘い夢を見ていられると、浅はかな思いを抱いた罰があたったのだと思った。彼の思いを考慮にいれず、己の願望だけ叶えようとしたところで、ただの虚しい独りよがりでしかなかったのだ。
拒まれてなお、彼の前で醜い身体を晒して、情けを乞おうという自分に嫌悪していた。いっそ、怒りをぶつけて自分を無茶苦茶にして欲しいと思う。
アマリアは腰を落とし膝立ちなって、彼を見上げる。やはり彼は顔を背け、険しく眉をひそめて唇を噛んでいた。
トゥーレのベルトに手を伸ばし、震えながら解いてゆく。慣れない手つきで、手間取っていると、彼は後退さってしまった。逃げないでと懇願しながら、続ける。
「ア、アマリア……?」
「トゥーレ様……どうか……」
これで良いのか分からない。他の女なら、もっと上手く振る舞えるのかもしれない。アマリアは、いつだったか年増の女中たちがクスクス笑いながら話していた、短く直截な言葉を思いだし、それだけを頼りにトゥーレに奉仕する。息が止まりそうだった。
目を閉じてトゥーレに触れた。腰を引く彼を追いかけて、唇を寄せれば、既に昂ぶりをみせていた彼が、瞬く間に猛々しくなる。
――ああ、トゥーレ様……私を求めてくれますか……?
「アマリア!」
強く肩を掴まれ、引き離されていた。
大きく見開かれて、ギラつく彼の目が怖かった。
汚らわしい女だと、軽蔑しているのだろう。
「ああ…………」
アマリアは己の無様さと滑稽さに耐えられなくなり、床に泣き伏してしまった。
なんて浅ましいのかと思う。これは儀式なのだからと、彼の為なのだからと言い訳をして、その実、自分が彼を欲しいだけではないか。そう、トゥーレに抱かれる為だけに、贄に志願したのだ。
愚かさの極みだ。彼の心を侮辱する行為だったのだと、アマリアは泣き続ける。
「……ご、御無礼を……申し訳ありません……お許しください……トゥーレ様」
「ああ、アマリア……お前は」
「わ、私は……私は愚かものです。不埒にもトゥーレ様に……。私は……貴方が……」
続く言葉は、すすり泣きと一緒に飲みこんだ。言ってはならぬと。これ以上、彼を不快にさせてはいけないと。彼がここを出てゆくというなら、もう止めてはいけないのだ。
アマリアは、トゥーレの事を何も知らないのだと、改めて気づかされる。何年も見つめるだけの一方的な恋で、二人で築いたもの、重ねたものなど何一つないのだ。
こんなに近くにいても、トゥーレが遠くてならない。
「…………お前の覚悟は分かった」
トゥーレの声が思いがけず近く、その息が首すじに当たる程だったから、アマリアはぶるりと震えてしまう。彼の声が、寂し気に優し気に聞こえたのが不思議だった。
髪を緩く撫でてくれるのは、怒りよりも同情が勝ったからだろうか。単に愚かな女に呆れ果て一層の憐れみを感じ、諦めただけなのだろう。
彼に抱き起こされていた。
トゥーレがアマリアの目を覗き込んでくる。涙が止まらなった。こんな無様な自分を、彼に見られるなんて。
「悪かった。全て俺が背負うべきことなのに、中止するなどと身勝手な事を言い出して、本当にすまなかった」
「いいえ……いいえ」
――トゥーレ様が謝ることは何もないのです。
「お前はもう、何も考えるな……」
不意に抱きしめられていた。
息もできない程に抱きしめられて、呆然としてしまうアマリアだった。
耳元を、アマリアと囁く吐息がくすぐる。甘い痺れが全身に広がり、指先までじんじんと痛むようだった。トゥーレの腕に抱きしめられていることが、信じられなかった。
どうしてなのか分からない。狼狽えてしまう。でも夢のように幸せだった。
そして、本当に自分はトゥーレの腕の中にいるのだろうか、彼は確かに存在しているのだろうかと、確かめずにはいられなくなる。おずおずと腕を、彼の背に回した。
夢想していたよりも、彼の背中は広くて固くて力強くて、温かかった。
ますますきつく抱きしめられ、アマリアも夢中で彼にしがみついた。
「トゥーレ……さ……」
あえぐようなアマリアのつぶやきは、トゥーレの唇で塞がれてしまった。
驚きに見開くアマリアの目に、トゥーレのヘーゼルの瞳が映ったが、余りに近すぎてぼやけて見える。それでも見つめるのをやめることはできなった。
アマリアの、初めての口づけだった。
得も言われぬ柔らかな感触に、身体がとろけてしまいそうだった。
――ああ、受け入れて下さる……
じわじわと安堵と歓喜が胸に染みてくる。彼の背中をそっとさすりながら、身を任せるのだった。
ふわりと身体が持ち上げられた。トゥーレに横抱きにされ、寝台へと運ばれてゆく。
どうして彼は急に態度を変えたのだろうと、アマリアは破裂しそうな胸を両手で押さえる。そしてトゥーレの横顔を見つめた。険しい表情は消えていないが、彼の声は穏やかだった。
「俺の妻になりたいと…………そう言ったな」
「はい……」
ゆっくりと夜具の上に降ろされる。アマリアの髪を撫でながら、探るように彼は尋ねてきた。
否やなどあるはずもなく頷くアマリアに、なお尋ねる。
「これで、いいのか?」
「はい……」
横たわるアマリアを見下ろしながら、トゥーレは衣服を脱いでゆく。
苦しげに眉はしかめたままで。
「本当に、俺に抱かれたいのか?」
「はい……」
彼の顔がまるで泣いているよう。仮初のことはいえ、婚約者以外の女を抱かねばならないのは、辛いのだろうと思う。トゥーレにも、ブリジッタにも申し訳なくてたまらない。二人の仲を裂こうなどとは思ってはいないのだ。
しかし、お互いに一糸纏わぬ姿になって見つめ合えば、高鳴る胸を抑えることはできはしなかった。
トゥーレが恋しい。もうそれだけしか、考えられない。
思いを込めて見つめていると、トゥーレが覆い被さってきた。直接触れ合う肌が熱かった。
「これで……いいのか」
「はい……トゥーレ様……」
再び唇を塞がれた。こねるように唇を押し付けられ、開かれ、彼が侵入してくる。
そして、燃えるような掌が身体の上を這い回りだすと、アマリアはクラクラと目眩を感じて、言葉にならない声を上げる事しかできなくなる。
「アマリア……可愛いな、お前は……」
今夜、初めて、彼の微笑みを見た。アマリアが愛した、優しい微笑みを見せてくれた。
アマリアは、ついに声を上げて泣き出してしまった。泣きながらトゥーレにしがみつき、懇願する。
「抱いて下さい。私を、トゥーレ様の……トゥーレ様だけのものに……」
一欠片の優しさを与えられたなら、愛までも求めはしない。この一夜、抱き合えれば、それでいい。
微笑みながらトゥーレが流した涙の意味は、アマリアには分からない。
分からない方がいいのだと思う。何も考えなくていいと、言ってくれたのだから。
身体が求めるままに、求められるままに抱き合って、ひたすらに彼を感じていよう。思いは秘めたままでいい。愛のように見えるものも、幻で構わない。彼の腕の中にいる、今、それだけで幸せなのだから。
次第に激しくなるトゥーレが、何度も何度もアマリアと名を呼んでくれるのが、嬉しくて愛おしくてならなかった。
この夜が明けなければいいと思う。果てしなく続けばいいと思う。永遠に、朝なんて来なければいい。
彼と混じり合い一つになって、このままずっと。
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