第17話 純白は死出の衣

――ああ、フーゴはこの事を伝えたかったのか……アマリアを助けてくれと……


 思えば彼の態度は不自然だった。女中にしてもそうだ。何か言いたげだと感じていたのに、彼らを追及しなかったことをトゥーレは悔やんだ。

 いや、聖婚の儀式を行うと言われた時、反発しながらも最終的には受け入れてしまった己のせいだ。贄の女に詫びようなどという考えは逃げでしかなかったのだ。これを最後に贄を失くそうなどと、虫の良い考えに甘んじたせいだ。


――アマリア、お前が贄だったなんて……


「こんな……こんな惨いことを……。誰もおかしいと思わないのか……」


 愚かな因習を生んだ、いにしえの人々が恨めしい。贄の儀式の中止を説得できなかった自分が呪わしい。何もかもが、後悔にしかならなかった。

 無力感に苛まれながら、アマリアの細い肩にそっと手を置いた。初めて触れた彼女は予想以上に痩せていて、怖い程だった。

 このまま抱きしめてしまいたくなるのを、トゥーレは懸命に堪える。アマリアを、これ以上怯えさせてはならないと思った。

 聖婚などと、物は言いようだなと苦々しく思う。ようは男女の情交だ。死を命じる男が、贄の女を犯すだけのこと。儀式と呼ぶことさえもおこがましいというものだ。

 これ以上触れれば、彼女は恐怖に震えるだろう。そんな顔は見たくなかった。


 トゥーレは何と声をかければいいのかも分からず、ただ彼女を見つめていた。

 するとアマリアがそっとトゥーレの手に触れてきた。ドキリと胸が鳴る。

 肩に乗せていた手を、彼女は自分の胸の前で包むように握ったのだ。女の手では、男の手を全て包みこむことなどできないのに、トゥーレはアマリアに身体ごと全て包まれてしまったような錯覚を覚えた。

 こんな時だというのに、甘い陶酔が全身に広がってゆく。

 なぜアマリアはこんなことをするのだろうか、彼女も自分を、そう思いかけて止める。愚かしい勘違いを晒すのはよそうと。


――ああ、無力な領主を慰めようと、きっとそういうことだろう。


「どうぞ、お悩みにならないで下さいまし。トゥーレ様のこれからの治世のために必要なことなのですから。私は、恐れてはおりませんし、誰かがこのお役をなさねばならないのです。それならば、私がお受けしたいと」


――やはりな……。至らぬ俺を気遣っているだけなのだ……。健気にも嘘までついて……


「なぜ、自ら……まさか、お前が申し出るなど、思いもしなかった……」


 恐れていないはずがないのだ。今、目の前にいる彼女は、ずっと青ざめた顔で不安げに自分を見ているのだから。

 トゥーレは大きなため息をつき、同じ質問を繰り返すのだった。アマリアが贄に志願したことが納得できなかった。どんな理由を述べられたとしても、納得はできはしないだろうが。

 トゥーレを包んでいたアマリアの手が離れてゆく。


「残される家族には、それ相応の褒賞が与えられると……。これからも父を、どうぞよしなにお取り立て頂きますよう……」

「バカな! そんな事の為に……一時の金の為に……」


 予想しないでもない返答だったが、やはり悔しさにカッとなってしまう。

 だが、遮られてもアマリアは饒舌に生活に苦しむ下々の者のことを語り続けた。その目は真剣そのものだった。

 トゥーレは何も言えなくなってしまう。頭では分かっていたことでも、正にその端金の為に命を差し出す者の口から言われてしまっては、返す言葉など一つもなかった。所詮自分は物事を分かったような顔をして、見たくないものから目を逸らしていただけなのだと、トゥーレは肩を落とした。

 部屋の中が重い空気に支配される。


 アマリアは、この気まずさをなんとか変えようというのか、酒を勧めてきた。懸命に微笑んで盃を差し出してくるのだ。だが、震える手に恐れや緊張が見て取れる。

 それでも、媚びるような姿態を見せるのは、きっと苛立つ自分を鎮めたいが為だろう、そうしなければ家族への補償が得られなくなると心配している為だろうと、トゥーレはいたたまれない思いで盃を受け取るのだった。


「……アマリア。お前の父のことは案じなくていい」

「ありがとうございます。トゥーレ様を信じておりますゆえ、お任せ致します」


 任せる、そう言って見上げてくるアマリアは、言外にこの後の伽を仄めかしているようだった。

 少しぼんやりした顔は、何もかも諦めきっているからだろうか。

 アマリアは若い。きっとまだ男を知らぬだろうに、恋も知らぬだろうに、全てを差し出そうというのか。

 トゥーレは彼女を不憫に思い、また、届けられない思いにチリチリと胸を焼いた。


 アマリアがまだ十かそこらくらいの頃から知っている。まだほんの子どもだったのに、まるで大人のような表情をしているのが不思議だった。呪術師の辛い境遇ゆえに、内面だけ老成してしまったのだろうか。トゥーレは、彼女が気になって仕方がなかった。

 彼女の子どもらしい笑顔を見てみたくて、時折菓子を与えたものだった。中々受け取ってもらえなかったが、隙をみて口に砂糖菓子を放りこんでやると、やっとふにゃりと目じりを下げたのだった。この笑顔がずっと続けば良いのに思った。

 年々、アマリアは美しくなっていった。蕾が開く様を見ているようだった。

 一体どのタイミングで子どもとしてみるのを止めればいいのか、戸惑う程の速さでアマリアは成長していった。

 留学から帰って来たときには、たった半年の間に少女を脱ぎ捨てて一足飛びに大人になってしまったようだった。アマリアは凛と美しく咲き誇っていた。

 ラルスに止められていなければ、考えなしに彼女に近づいていたことだろう。

 あの日から今までずっと自制してきたのは、いつか身分に阻まれることなく、彼女と語りあえる日を夢みていたからなのに。それなのに。


「……俺は……聖婚などというバカバカしい事はできぬよ……。お前を聖婚の妻になどできない」


 せめて純潔は守られるのだと、アマリアを安心させてやりたかった。彼女にこれ以上自分を犠牲にする必要はないと伝えたかった。

 不意にアマリアの手が強張り、酒瓶が床に落ちる。

 砕けた陶器と共に、果実酒が床に広がり染みを作った。

 申し訳ありませんと、顔色を変えて慌てて、鋭い欠片を拾おうとするアマリアの手を握った。


「怪我をする……そんな物、構うことはない」


 トゥーレは、こんなにも自分の勘気を恐れるアマリアを見るのが、辛くてならない。今にも泣きだしそうな彼女に、無能を責められているようでたまらなく辛いのだ。


「行こう……。ここを出よう。儀式は中止だ。こんな事は、やはり間違っている! 贄など出さずとも、必ず嵐は治まるのだ!」


 ほとんど衝動的につぶやいていた。

 この船を出るのだ。彼女と二人でこの船を出て、どこか遠くに逃げてしまいたい。

 握った手を思い切り引き寄せる。強引にアマリアを立たせて、扉へと向かった。外から鍵をかけられているが、それなら見張り番に開けさせるまでだ。従わなければ、金と脅しでいう事をきかせてやると、トゥーレは頭に血を登らせていた。

 アマリアと逃げるのだ。二人で、遠い国へ。そうだ、多くを学んだあの国へ。

 しかし、彼女は頭を振って立ち止まる。


「ああ、トゥーレ様……中止はもう無理です」


 アマリアの言う通りだと承知しながらも、トゥーレは無理を通したかった。

 すべて遅すぎるとしても、それでも彼女を死なせたくはないのだ。

 たじろぐアマリアを説得するために、なるべく優しい声をだす。しかし、トゥーレの頬は強張っていた。


「案ずるな、フーゴへの褒美は必ず取らせるし、今まで以上に厚遇する。それから……逃げるんだ、アマリア」

――詭弁だ……ここを逃げればフーゴは殺される……。でも、それでも、俺はお前を死なせたくない!


 トゥーレの腕から逃げ出し、アマリアは扉の前で大きく手を広げて首を振った。

 青白い顔には恐怖が浮かんでいるようだった。


「私は逃げません。これでよいのです! トゥーレ様の聖婚の妻になるために、この船でお待ちしてたのですから」


 アマリアはきっぱりと言い切った。今までにない強い口調で。

 トゥーレはギリギリと奥歯を噛んだ。

 罰せられようが領主の座から追われようが、トゥーレにはそんなことはどうでもよかった。しかし捕らえられれば、彼女はなぶり殺しにされるだろう。逃げ切れるものではない。進むも退くも死しか無いのだ。

 トゥーレの思いも知らずアマリアは、後戻りはできない、これでよいなどと言う。主たるトゥーレの身を案じることばかり言う。

 彼女は決して、共に生きる未来を望んではくれない。この拒絶はトゥーレの胸を深くえぐっていた。


「トゥーレ様、儀式を進めて下さいまし……」

「……アマリア! お前はどこまでバカなのだ!」


 思わず手を振り上げていた。

 しかし、バカなのは自分なのだ。憎いのはままならない、この運命なのだ。

 頑なに儀式の遂行を望み、死を受け入れるアマリアが悲しかった。

 トゥーレは手を下し、アマリアに背を向ける。よろよろと、部屋の奥へと向かった。

 逃げられないことなど分かっていた。それでも一縷の希望にすがりたかったのに、彼女はそれさえ許してくれない。

 そしてアマリアは、追い打ちをかけるように言うのだ。


「どうぞ、私を妻にして下さいまし。贄を憐れと思し召すなら、この一夜、仮初めの情けをかけて下さいまし……」


 真っ青な顔で、震えながら、アマリアは衣装を脱ぎ始めた。

 純白の花嫁の衣装。女ならば誰もがうっとりと目を細めるような、美しく精緻な刺繍を施した、それは死出の衣。一夜の妻の為に贈られた、最後の慰みだった。

 はらりと絹を床に落とし、アマリアはすがるように見つめてくる。仮初めの情けとやらを求めて、誘惑しようというのか。商売女には程遠い無粋なしぐさで懸命に。

 トゥーレの眉が歪んでゆく。

 それでもアマリアは夜気に肌を晒すのを止めない。痩せた身体は雪のように白くて、もう既にこの世の者ではないようにさえ見えた。

 こうまでして、彼女は家族の為に主の為に献身するのかと、堪らず目を逸らした。痛ましくて、見ていられなかった。


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