第16話 お前だけはだめだ

 吹きすさぶ風の中、海へ向うトゥーレの足は重たかった。浜の奥深くの岩陰にある船へ、贄のもとへと向かうのだ。

 行きたくは無かった。しかし、放っておくこともできない。準備はもう整い、そこで女がまっているのだから。足を引きずってでも、行くしかなかった。

 激しい風に時折身体がぐらつく。しかし雨は上がっていた。やはり嵐は収束に向かっているのだと、彼は唇を噛んだ。


 何故こうなってしっまたのかという、動揺が治まらない。

 ブリジッタを贄から下した矢先に、まさか聖婚の儀式を行うことになるなど思いもしなかった。自ら贄になると言い出す女がいたなんて信じられなかった。

 あろうことか一族の者どもは、その女の事を祝いの宴が終わるまで伏せていたのだ。聖婚の儀式の準備を済ませ、民に周知させてから、トゥーレはその話を聞かされたのだった。

 ほぞを噛む思いだった。


――贄になるなんて言い出したのは、一体どこのバカ者だ! 後二日、いや一日もすれば必ず嵐は収まるはずだ! 誰も信じようとしないが、必ずそうなるというのに。贄など必要ないのに!


 トゥーレは、冬の初め毎年のように荒れる天候のつぶさな記録を取っていた。領地を嵐から少しでも守りたいが為だった。そして何年も記録を取り続け、異国で学んだ知識とを合わせて、やっと気付いたのだ。嵐の収束の兆しに。

 海を荒れさせる南からの強風が、ふと気まぐれのように止む日が数度あり、その後徐々に風向きが変わっていった後に、天候は嘘のように回復するのだ。無論、年によってばらつきはあるし、風が止み間が短い時もある。だが概ね、天候回復の前に、その前兆のがあるのだ。

 そして先日、待ちわびたその前兆を観測した。そして過去の事例から、遅くとも二日以内に嵐は終わるとトゥーレは確信しているだ。

 ハラルドがしつこいことは分かっていた。しかし、こんな騙し討ちにされるとは思わなかった。

 あと一日二日の我慢だったのに。


 その女は自ら申し出てきたのだと言う。それが誰なのかは、最早トゥーレには問題では無かった。無用の儀式の為に、一つの命が失われる。そのことが残念でならず、無性に悔しかった。

 バカなことをすると、恨み言の一つも言いたくなる。しかし、責めるべきは女ではなく、古い因習にまみれた人々の堅い頭であり、それを変えることができなかった自分であることも良く分かっていた。

 今となっては自分にできることは、女の家族への補償と礼と詫びを述べることしかなかった。

 女を抱くつもりも更々なかった。聖婚などと、妻などと名ばかりの腐った儀式で、憐れな生贄を犯すなど、それこそ神への冒涜だと思っていた。

 ただただ、女に頭を下げる為に、トゥーレは船に向かっていた。





「トゥーレ! 行かないで! 明日の儀式だけで十分じゃない!」


 婚約者のブリジッタが、しつこく腕にまとわりついてきた。屋敷で待っていろといったにも関わらず勝手に追ってきた彼女に、トゥーレは辟易していた。

 明日の朝には海に沈められる贄の女を、このまま捨て置くことなどトゥーレにできはしない。なぜそれが理解できないのだと、酷く冷めた思いで彼女を見つめた。


 彼女は贄の候補に上げられた時、酷く怯えて取り乱し泣き叫んでいた。それなのに、聖婚の妻と聞いた途端、同情もなく露骨にその女に嫉妬を始めたのだ。

 彼女はトゥーレに言った。神に贄さえ捧げれば良いのだから、女のもとにいかないでくれ、私よりも先に結ばれないでくれと。婚約者のいるトゥーレを奪おうなんて、なんて嫌な女なのだと。

 トゥーレは、胸が冷える思いがした。

 聖婚の妻とは、本妻の身代わりなのだ。ブリジッタはまだ妻ではなかったが、それに準ずる立場なのだから、やはり聖婚の妻は彼女の身代わりなのだ。

 そうと分かっていて、自分の代わりに死んでいく女に、感謝も労わりもなく、醜く嫉妬して恨みさえする様を見て、ブリジッタへのわずかながらの好意など消え失せてしまった。

 もともと政略の婚約だった。今愛はなくても、これからゆっくりと育んでゆけば良いと思っていたことさえ、後悔した。


 一緒に来てくれたラルスに、頼むから早くブリジッタを連れて行ってくれと、懇願の目を向ける。従弟は即座にしたがってくれ、ホッと息をつくことができた。しかし、ラルスが去り際に残した言葉は、トゥーレの胸に小さなささくれを作っていった。


――変な気は起こすなよって、あいつ何が言いたかったんだ……?


 トゥーレには何のことだが分からなかった。

 船に乗り込むと重い息を吐き、それから見張り番に扉を開けるように命じた。外から施錠するのは、逃げられないようにする為かと、トゥーレは苦々しく、頬を引きつらせる。

 分厚い扉が開かれると、暖かな空気と甘い香油の香りが漂ってきた。ランプの灯りが頼りなげに揺れている。

 狭い部屋の中に、トゥーレはゆっくりと足を踏み入れる。

 純白の衣装を身に付けた女が座していた。まだ年若い女だった。


 途端に息が詰まった。恐怖が心臓を刺し貫いていた。

 なぜ、彼女がここにいるのかと、信じられず声も出せない。


――ア、アマリア……!


 背後で、扉が閉められ再び施錠される音を聞いた。もう朝まで出られない。絶望が足元からぞわぞわと上ってくる。悪夢なら今すぐ冷めてくれと、トゥーレは立ち尽くしてしまった。

 ラルスが妙な言葉を残していったのは、これを知っていたからかと怒りも湧いてきた。

 彼女は、恭しく深く頭を下げる。

 

「……お待ち致しておりました。謹んでお祝い申し上げます。我が主、新しきご領主様……」

「…………」


 何がめでたいものか。

 平伏するアマリアを見つめて、トゥーレは奥歯を噛みしめた。バカなと叫びたくなるのを堪えるだけで精一杯だった。


――ああ、アマリア……


 彼女は自分たち一族を陰から支えてくれている呪術師の一人だ。穢れた仕事であると、疎んじられることの多い呪術師だが、トゥーレはそうは思っていない。彼らがいるからこそ、今一族が存在していられるのだから。

 そして、不浄の娘と呼ばれるアマリアのことは、特に不憫に思っていた。不浄などであるはずがない。父親の代わりに、術から返ってくる災厄を一身に受け持っているというのに、それを献身と呼ばずになんとする。

 しかし、トゥーレ以外の者の目には、アマリアは穢れとしか映らないのだった。


 トゥーレは以前、半年程の予定で異国の文化を学びに行ったことがあった。その出立の朝に、アマリアが護符をくれたことは今でも覚えている

 どうぞ御勉学に励まれ、無事にお戻りになれますように、そういって手渡してくれたのだ。

 とても嬉しかった。彼女は領主一族に仕える者として、至極当然のことをしただけで他意はなかったのだろうが、それでも無事を願ってくれる彼女の言葉が、トゥーレには本当に嬉しかったのだ。

 あの時、ほんの少し指が触れただけだったのに、彼女は恐れおののいたように手を引っ込めてしまった。領主一族に逆らうことは許されぬと刷り込まれているだろうから、きっと自分のことも恐れ警戒しているのだと、トゥーレは寂しく思ったものだった。

 異国にいる間、ふと気が付けばその護符を眺めている自分に、何度もハッとした。そしていつも、同じ物思いにふけってしまったのだった。あの時、震えて俯いてしまった彼女が、頬を染めていたように見えたのは、自分のただの思い過ごしだったのだろうかと。


 異国では、自由で革新的な気風に触れ、目から鱗が落ちる体験を何度もした。トゥーレは、自分たちがいか旧態依然とした政治や風習にまみれているかを、ここで知ることになった。いつか変えられれば良いと願ったものだった。

 帰国したトゥーレは、アマリアに用意していた土産をやろうした。護符のおかげで風邪一つ引かなかったと、お礼のつもりだった。

 しかしラルスに、もう彼女に会うなと止められた。そしてあの出立の朝、彼が旅立った後でアマリアが父から罰せられたと聞かされたのだ。

 トゥーレに近づいた。それが彼女の罪だというのだ。鞭で打たれ、酷い怪我を負ったらしい。

 ラルスは、もしも彼女を不憫に思うなら何もするなと続けた。領主に抗議すれば、更にアマリアが罰を受けることになるのだからと。そして、二度と言葉は交わさない方がいいと。


 トゥーレは激しい怒りを感じながらも、従ったのだった。ラルスは好意で教えてくれたのだし、不条理を感じるが彼の言葉は事実であったから。半年間を過ごしてきたかの国ではあり得ない理不尽が、ここでは当たり前なのだ。

 自分が不用意に近づけば、苦しむのはアマリアの方。だからトゥーレは、この時から彼女を避けるようになった。もとよりただの主従の関係でしかない。特別な何かがある訳でもないのだ。

 何より、これ以上事を起こして、アマリアに嫌われたくはなかった。いつか自分が変革を起こすまでは、彼女に近づいてはならないのだ。


 そのアマリアが、目の前にいる。

 聖婚の妻に名乗りをあげたのが、アマリアだというのが信じられなかった。なぜなのか全く分からず、分かりたくもなかった。


「……顔を上げてくれ、アマリア。なぜ、お前がここにいるのだ……」


 胸が引きちぎれてしまいそうだった。

 聖婚の妻は、彼女であってはならないのだ。

 他の女ならば、こんな風に思いはしなかっただろう。身勝手な思いだ。しかし、彼女だけはだめなのだ。

 アマリアだけは絶対にだめなのだ。

 トゥーレは今になって、自分の目がいつもアマリアの姿を探していたことをはっきりと自覚する。遠目でも彼女の横顔を見つけた日は笑みが湧いたし、声を漏れ聞いた日には胸が躍った。

 気付かないふりをしてきたこの感情は、アマリアへの恋情。彼女が明日には海に沈められるという今になって、やっと認めることになってしまった。

 そんなトゥーレを見上げて、アマリアは青白い顔で儚げに微笑んだ。

 

「トゥーレ様には、ご婚約者のブリジッタ様とお幸せになって頂きたく、ふつつか者ではありますが、本日のお役目を頂きました」

「……ブリジッタ、か」


 聞きたくもない名前だと、吐き捨てる。

 最早、あの女と夫婦になれるとは思えない。それなのにアマリアは、ブリジッタと幸せになれなどと言う。


――素晴らしい使用人の鑑だな……主の為を思ってか! 要らぬことを! 俺の気も知らないで!


 拳をグッと握り締めて、思わず彼女を睨みつけてしまう。

 あの日浜で風向きを変えたことも、自分を主と思って助け舟のつもりだったのだろうが、全くの余計な事だった。アマリアが命を削って行う、忠義など要らないというのに、贄にまでなるなんて許せるものかと思う。

 アマリアは目に怯えの色を揺らしながら、言葉を紡ぎ続けていた。


「きっとお嘆きになっておられることでしょう。どうぞ、明日には全てをお忘れになって、ご領主として領民のためにお励みになられることを……」

「止めてくれ!」


 怒鳴りつけてしまった。これ以上、黙って聞いていられなかった。

 忘れろなどと無情なことを言ってくれるなと、大きく首を振った。


――ブリジッタの嘆きなど犬に喰わせてしまえばいい。俺の嘆きこそ、どうしてくれるというのだ! お前を失ってしまうというのに。


 しかしトゥーレは、いや、とまた首を振る。

 失うも何も、アマリアは自分のものですらない。彼女にとって自分は、仕えるべき主であるだけで、それ以外の何者でもない。使用人としての彼女を所有することはできても、心まで手にいれることは出来ないのだ。

 恋を自覚したときには、もう既に何もかも終わった後だったとは、滑稽な話だとトゥーレは項垂れる。


 アマリアが自分の怒声に怯えて萎縮してしまうのを見て、トゥーレの心は更に沈んでいった。

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