第四章
第14話 怖くなんてない
風が泣いているようだった。
聞こえてくるのは、外の風とみしみしと鳴る壁の音ばかりだ。
アマリアは一人、船の中でトゥーレの訪れを待っていた。ラルスが与えてくれた美しい花嫁衣装を身にまとって。その華やかさに心が慰められたのは一瞬のことで、今はまた胸の塞ぐ思いだったが。
全ては自分の身勝手は恋情のせい。自分は父を苦しめ悲しませ、トゥーレの理想に泥を塗ろうとしているのだと。彼は決して贄を捧げることを、善しとはしないだろう。
そして待てどもトゥーレは現れず、アマリアの不安は増してゆくばかりなのだ。
トゥーレは来ないかもしれない。
そんな不安にアマリアは苛まれていた。
彼ならば、聖婚を無効にするために、船に一歩も踏み入れない可能性もあると思うのだ。契りを結んでいない贄では捧げる意味がないのだと。
しかしあのハラルドの様子から思うに、トゥーレがどう振る舞おうとこの船は海に沈められるのではないかと思う。契ろうが契るまいが、ハラルドは問題ではない。贄を沈めることに意味があるのだ。
そうなればアマリアは願い叶わず、無為に海に沈むことになる。
だがそれは、身勝手な行いゆえの自業自得であろうと思う。比喩でなく命をかけたのはアマリアの勝手。父の思いやトゥーレの理想さえ無視したのもアマリアの勝手。己の恋情を貫いたのもアマリアの勝手なのだ。
そうと分かっていても、どうか最後に一目彼を見たいと祈らずにはいられなかった。
一人でじっと待っていると、嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。
トゥーレが来ない理由が、自分を嫌ってのことだったらと思うと、息もできぬほどに辛くなる。彼が親し気に話しかけてくれたのは、もう三年も前のこと。今では目も合わせてくれない。きっと嫌われてしまったのだ。
――わたしは呪術師、不浄の娘……嫌われるのは当然のこと……
こぼれそうになる涙を懸命にこらえて、アマリアはただトゥーレを待つしかなかった。
閉じられた重い扉の向こうで、話し声が聞こえてきた。
ビクリと身をすくめて、アマリアは扉を見つめる。心臓が激しく鳴り始めた。
内容はあまり良く聞きとれないのだが、それでも会話している片方は先程から待ちかねていた声だった。
アマリアの鼓動は早まる。膝の上でギュッと拳を握り、今、扉の向こうにいるであろうトゥーレのことを思うのだった。
しばらくして、冷たい金属音がした。鍵が開けられたようだ。
そして、床をぎしぎしとこすって扉が開く。ゆっくりと男が一人、入って来た。彼と共に入り込んで来た冷たい風が、ランプの炎をゆらゆらと揺らしている。
アマリアはトゥーレの顔を認め一瞬瞳を輝かせるが、すぐに額を床にこすりつけるように頭を下げる。待ち人がようやく現れたことに、ホッと安堵の息を漏らしていた。
彼の背後で扉が閉まり、再び施錠される。
「……お待ち致しておりました。謹んでお祝い申し上げます。我が主、新しきご領主様……」
「…………」
アマリアの挨拶に返答はなかった。少し頭を上げた先にトゥーレの足が見える。
ゆっくりと顔を上げる。アマリアの胸はときめいていた。
正装したトゥーレを、足元から順に見上げてゆく。そして、自分を見つめる視線とぶつかった。
トゥーレ。アマリアが愛する茶と緑の混じったヘーゼルの瞳。しかし、カッと見開かれたその目は、怒りを湛えているようで鋭い。
途端にアマリアはブルリと震える。まつ毛を震わせて形ばかりに微笑み、また深く頭を垂れるのだった。
それでも、もしかしたら来ないかもと案じていた彼が来てくれたこと、そして堂々とした立ち姿を見れたことに、ジンと胸が熱くなってしまう。なんてご立派なのだろうと。
ここに来るまでの間に、強風にあおられて髪が乱れていたが、それすらも彼の凛々しさを際立たせる演出のように思えた。新領主の宣誓の儀式もさぞや素晴らしいものだったろうとため息をこぼす。
トゥーレがゴクリと唾を飲むのが聞こえた。
「……顔を上げてくれ、アマリア」
その声は酷く落胆の色を含んでいて、それでいて苛立っているようだった。
彼に応えて、恐る恐る顔を上げる。再び、トゥーレを見つめてしまうと、アマリアはもう目を離すことができなくなった。
「なぜ、お前がここにいるのだ……」
いつもは穏やかに微笑んでいる彼が、今はとても険しい顔をしている。眉間に刻まれた深いしわに、彼の不愉快さいや嫌悪が現れているようだった。
――ああ、やはり私などお嫌なのですね……。たとえ、一夜限りといえども……
承知の上ではあったが、チリチリと胸が痛む。睨みつけて来る彼の目が恐ろしかった。けれどアマリアは、懸命に唇に笑みをたたえた。
「トゥーレ様には、ご婚約者のブリジッタ様とお幸せになって頂きたく、ふつつか者ではありますが、本日のお役目を頂きました」
――そうブリジッタ様にはトゥーレ様の妻となり、お子を生むという大切なお役目があるのだから……。それなら、せめて私は聖婚の妻に……
トゥーレが新しい領主となったからには、ブリジッタとの結婚式も近いうちに執り行われることだろう。
考えただけで胸が苦しくなるが、幸いにも二人が並び立ち祝福される姿を見ることはないだろう。アマリアは、自分はなんて滑稽なのかと胸の中で虚しく笑った。
「……ブリジッタ、か」
「きっとお嘆きになっておられることでしょう。どうぞ、明日には全てをお忘れになって、ご領主として領民のためにお励みになられることを……」
「止めてくれ!」
トゥーレの突然の大声に、アマリアは身をすくめる。何が彼の勘気に触れたのだろうかと、眉を歪めた。気に入られることはなくとも、せめて嫌われたくはないというのに。
「こんな……こんな惨いことを……。誰もおかしいと思わないのか……」
アマリアの前に膝を落とし、彼女の細い肩に両手を置いて、トゥーレは独り言のようにつぶやく。
彼の温かい体温を伝えてくる掌が震えていた。
ああ、そうなのだ。やはりこの方はお優しいのだ。他人の苦しみや悲しみにも、我がことのように涙を流すお方なのだと、アマリアは目を細める。
誰も贄を憐れと思いはしないのに、彼だけは違うのだ。
苦しげに目を伏せる彼を、愛おしくも痛ましくも思う。さぞや心を痛めていることだろうと。
それならば、自分は平気なのだと伝えれば、彼の苦しみは減るだろうか。
アマリアは肩からトゥーレの手をはずし、それを両手で包み込む。今までなら、大それたことと決してできはしなかったろう。けれど、今夜だけはと胸を高鳴らせながら、祈りの手に似たしぐさで彼の両手を包むのだった。
――今年の大嵐は、畑や家、生活を壊しただけでなく、皆の心の中にまで荒らしてしまったから……。海神様を鎮めるには、いえ皆を安心させるには、もう贄を捧げるしかないのだから……。それにトゥーレ様、貴方にこの身を捧げられるなら、私には至上の喜びなのですから。だから、怖くなんてないのです。
険しい表情のまま自分を見つめるトゥーレに、アマリアはぎこちなく微笑む。
緊張が解けた訳では無かったが、もう心を決めてしまったアマリアは、するすると言葉を紡ぐことができた。今までは一言口にするだけでも精一杯だったのに。
「どうぞ、お悩みにならないで下さいまし、トゥーレ様。私は、恐れてはおりませんし、誰かがこのお役をなさねばならないのです。それならば、私がお受けしたいと」
「なぜ、自ら……まさか、お前が申し出るなど、思いもしなかった……」
「残される家族には、それ相応の褒賞が与えられると……。これからも父を、どうぞよしなにお取り立て頂きますよう……」
自ら進んで贄になると申し出た理由を、そう答えた。
これまでにも、贄を出した家族には褒美が与えられてきた。だから贄に名乗りをあげるのは大抵、貧しく身分の低い者だった。誰も手を上げず領主が指名する場合も、選ばれるのは最下層の者であるのだが。
アマリアたち呪術師は人々に忌避されているし、与えられる賃金も生きるのに最低限しかなかった。そのアマリアが父のために身を差し出すのだと言えば、トゥーレには極当たり前の動機として見えるはずだった。
しかし、彼は首を振る。
「バカな! そんな事の為に……一時の金の為に……」
「トゥーレ様には、瑣末ごとに思えるかもしれませんが、下々の者共は、苦しい日々を生きぬく為には何でもするのです。端金の為に殺し合う事さえするのです。愚かな事ではありますが、どうぞ軽蔑して下さいますな。これがこの世というものなのです」
こう言えば、トゥーレが何も言えなくなると分かっていた。そしてまた心を痛めることも。事実、彼はがっくりと肩を落としてしまった。
アマリアも胸を押さえて、頭を深く垂れるのだった。
金が動機の一面を担っているのも、また事実だ。加えて、トゥーレが父や他の呪術師の待遇を改善してくれたらなお良い、そんな期待もあるにはある。
しかし、聖婚の妻を娶るのが先代領主だったら、果たして自ら名乗りをあげたかと言えば、そうではないのだ。
動機の大部分は、トゥーレへの度し難い恋心だった。我がままな思いからだった。一時の甘い夢をみたいがための。
もっともらしいことを言って、彼を傷つけてまで、本心を隠す自分がとても醜く思える。それでも、思いを伝えることは出来ないのだ。
大きなため息をついてうつむいたトゥーレは、奥歯をギリギリと噛みしめていた。
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