第15話 後戻りはできない
「不愉快なお話を致しまして、申し訳ありませんでした。さあ、どうぞご気分を変えて、お召上がりくださいませ」
気まずい空気を断ち切ろうと、アマリアは用意されていた酒を勧めた。
盃を手渡し、酒瓶を傾ける。
「……アマリア。お前の父のことは案じなくていい」
「ありがとうございます。トゥーレ様を信じておりますゆえ、お任せ致します」
トゥーレの盃に、酒を注ぐアマリアの指が振るえていた。
彼と二人きり。まるで夢のようだった。こんなに長く彼と話すことも初めてで、それを誰にも咎められないのだ。
幸せで、胸がいっぱいだった。
あの護符を渡したときよりももっと近く、長く、愛しいトゥーレの側にいられる、それだけでアマリアは幸せだった。
それに願いも聞き入れてくれた。きっと彼は父を重用して大事にしてくれるだろう。不安が一つ消えた。
しかしトゥーレは浮かない顔のままだ。ぐいと一息で酒を飲みほした。
「……俺は……聖婚などというバカバカしい事はできぬよ……。お前を聖婚の妻になどできない」
不意にアマリアの手が強張り、酒瓶を落としてしまった。
陶器の瓶が割れ、酒がじわじわと床を濡らしてゆくと、アマリアの胸の奥にも黒い染みが広がっていった。
――ああ、トゥーレ様……確かに、意に染まぬことでしょう……でも、仮初めでも嘘でもいいのです。お願いですから、どうぞ私を……
叫びそうになり、堪える。まさかここまで来て、拒否されると思ってはいなかったのだ。拒むなら、そもそもここに現れないだろうと思っていたのに。
アマリアはうなだれ、声を絞り出した。
「も、申し訳ありません……」
「怪我をする……そんな物、構うことはない」
細かく散った破片を拾おうとすると、トゥーレに手を握られた。
彼は、憐れんでくれているのだろうか。憐れみでもいい、彼が見つめてくれるなら。聖婚などバカバカしいと思っていても構わない。ほんの少しの間だけ、情けをかけてくれれば、明日には潔く神のもとへ行けるのだから。
一言、妻と呼んでくれるだけでいいのだ。
だからお願いと、アマリアは濡れた瞳で彼を見上げた。溢れそうな涙で、彼の顔がぼやけて良く見えなくなる。
トゥーレは大きなため息をつき、握った手をそのまま引っ張り、立ち上がった。
「行こう……」
「……ど、どちらへ?」
不穏な予感に胸が引きちぎれてしまいそうだった。
自分には、聖婚の妻になる資格さえもないのかと、絶望に苛まれる。
「ここを出よう。儀式は中止だ。こんな事は、やはり間違っている! 贄など出さずとも、必ず嵐は治まるのだ!」
トゥーレはアマリアを引きずるようにして扉へと向う。
とんでもないと、アマリアは首を振る。ここに至って儀式を中止しては、ハラルドの思うつぼだ。領主が責任を放り出したと、あの野心ある男ならそう言うだろうから。
中止するのであれば、トゥーレはここに来てはならなかったのだ。領主の名のもとに中止を宣言し、決して船に乗ってはいけなかったのだ。
明日明後日のうちに嵐が終わるという自信があるのなら、ハラルドの思惑を破らなければならないのだ。
彼はトゥーレの予言通りになることを恐れるあまりに、贄を捧げようとしている。だから例え贄は海に沈んでも、聖婚の儀式を行っていない贄にはなんの効力もないと、トゥーレは言いきるべきだったのだ。
生贄が無くても嵐が終わることを証明するには、もうそうするしかない。そして、無為に生贄を死なせたハラルドを糾弾しなければならなかたのだ。
アマリアは、もしかしたらトゥーレはそうするのではないかと思い、もう二度と会うことなく死んでゆくのかと、彼を待つ間不安に苛まれていたのだ。
しかしトゥーレは現れた。
ということは、もう一つの選択肢を取ったからだと思ったのだ。ハラルドによって仕組まれはしたが、民衆にとっては未だに必要な儀式だ。嵐に疲れ切った彼らは、神に縋りたくてたまらないのだ。
そして衆人環視の今の状況では中止はもう難しいのだから、むしろ民衆の心掴むためにも滞りなく行うべきだと、トゥーレは判断したのだと思ったのだ。
それなのに、今になって彼は中止を言いだす。
一体、トゥーレはどうしてしまったのかと思う。アマリアを連れて一緒に船を降りようとするなんて。
彼はつないだ手を引き寄せて扉へ向かおうとしている。アマリアはブンブンと頭を振った。
「ああ、トゥーレ様……中止はもう無理です」
「案ずるな、フーゴへの褒美は必ず取らせるし、今まで以上に厚遇する。それから……逃げんるんだ、アマリア」
彼の言葉にアマリアは愕然とした。
逃げられる訳がないのだ。この船は警備の者たちに囲まれていているのだから。万に一つの幸運があったとしても、逃亡した贄の家族に褒美が与えられるはずもない。フーゴは罰せられることになる。
トゥーレの言葉は、酷い矛盾を含んでいるのだ。理性的に話しているとはとても思えない。
――ああ、トゥーレ様は私をいえ、生贄を憐れみ過ぎていらっしゃる……。死んでくれと命じることが辛くていらっしゃる……
ハラルドの思惑に加担する形になってしまったアマリアは、罪の意識をまた強くするのだった。自分のせいで、トゥーレは追いつめられてしまったのだと。
自分は恐れてはいないし、彼が思い悩むことは無いのだともっと伝えなければならない。
トゥーレの腕から逃げ出し、アマリアは扉の前で大きく手を広げて首を振った。
「私は逃げません。そんなことをしてはトゥーレ様まで罰せられます。たとえ嵐が治まったとしても、私が逃げてしまったら、ハラルド様はトゥーレ様を領主から引きずり降ろそうとするでしょう。最早、後戻りはできません。それに贄を捧げなければ、皆が納得することは無いのです。」
「しかし! 俺が納得できない! これはただの人殺しだ!」
「私は納得しております。これでよいのです! トゥーレ様の聖婚の妻になるために、この船でお待ちしてたのですから」
アマリアは、トゥーレの目を真っ直ぐに見据えて言い切った。言葉通り、アマリアに後戻りの道など無いのだ。
贄に嵐を止める力など無いことは分かっている。それでも、ままならない自然に対し恐慌をきたした人々を鎮める為には、贄を捧げなければならない。
自分が贄になる本来の意味は、嵐ではなく人々の心を鎮める為にあるのだ。
そして、それがトゥーレの今後の治世の為になるのだ。
何もかも納得しているのだ。
彼にしても、全て納得ずくで贄が待つこの船を訪れたものと思っていたのに、この期に及んで手のひらを反すのはどうしてなのかと不思議でならない。
聡明な彼に、大切な儀式を中止すればどんな仕打ちが待っているか、分からないはずは無いのにと。
領主になったとはいえ、それはつい先刻のこと。年若い彼に、どれだけの豪族が従ってくれるというのか。
贄に反対していた優しい彼だから、決心が鈍ることもあるのかもしれない。しかし、今ここで彼を外に出すわけにはいかないのだ。中止してはならないのだ。
トゥーレを守る為には、自分が押しとどめるしかない。
「トゥーレ様、儀式を進めて下さいまし……」
「……アマリア! お前はどこまでバカなのだ!」
右手を振り上げたトゥーレの顔が、ぎゅっと歪んだ。汚らわしいものでも見るように。緑と茶の混じったヘーゼルの瞳が怒りに燃えているようだ。
ああ、とアマリアは細い悲鳴のように息を吐き、そして目を閉じる。彼の手が頬を打つの待った。
しかし、くっと呻く彼の声が聞こえただけだった。そっと目を開けると、トゥーレの背中が扉から遠ざかってゆくところだった。
アマリアはキリキリと痛む胸を押さえて、懇願する。
儀式を中断させないために。彼を朝までここに留めておくために。あのハラルドに付け入る隙を与えないために。
なにより、己の恋心のために。
「どうぞ、私を妻にして下さいまし。贄を憐れと思し召すなら、この一夜、仮初めの情けをかけて下さいまし……」
トゥーレの前にふらふらと回り込み、アマリアはなけなしの勇気を奮わせて、身につけた純白の衣装を剥いだ。儀式だけでなく、自分のことも嫌悪し拒否している彼の目の前で、自ら肌を晒していった。
彼も男であれば、女の裸に心を動かされないはずはないと、自分に言い聞かせながら。
ふわりと絹が波打って床に広がる。
しかし、両足には不気味な死の刻印がある上に痩せた身体は貧相で、ブリジッタのような魅力的な姿態など持ち合わせていない。彼を誘惑することなど不可能だと、半ば絶望しながら最後の一枚を脱ぎ捨てた。
アマリアの胸は、惨めな思いに張り裂けそうで、手足はガタガタと震えていた。
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