第4話 揺れる香の薫り
翌朝、アマリアは領主の屋敷に上がった。モーゼスの遺体の側で寝ずの番をしていたフーゴと交代する為だ。
裏口から入り、使用人部屋や厨などをつなぐ裏方専用の通路を通って、屋敷の最奥にある部屋へと向かう。その移動の間に、使用人たちの噂話を幾つか小耳に挟んだ。
ハラルドと第一夫人が、明確に対立を始めたこと。
昨日の浜辺での一件が早くも豪族や領民たちの知るところとなり、トゥーレに畏怖の視線が注がれだしたこと、などだ。
第一夫人が、息子を領主にする為に大々的に動き出したのだ。トゥーレは神の加護を受けているのだと、仰々しく喧伝したらしい。
二年前も、今年ほどではないにせよ嵐はいつもより長引いた。もう贄を出すしかないという話が出たとき、トゥーレは後二日程で嵐は終わると予言した。もう少し辛抱して待つようにと領主の父を説得したのだ。
そして彼が予測した日より遅れること二日で風は止み、海は凪いで漁にでられるようになった。嵐が長引いたにも関わらず、贄が出されなかったのは初めてのことではないかと思う。
このことはまだ皆の記憶にも新しく、そして昨日彼の言った通りに風向きが変わり不気味な音が消えたことで、トゥーレへの信奉が増したのだろう。やはり新領主は息子であるトゥーレが継ぐのが相応しいと言われ始めているようだ。
しかし、一方では贄を望む声も大きくて、儀式を否定するトゥーレを受け入れ難い者も確かにいる。彼の言葉を単なるまぐれ当たりだというのだ。
それでも、噂話を総合すれば、新しい領主はトゥーレということで落ち着きそうな気配だった。なにより彼は領主の息子なのだから。
アマリアは胸のつかえが少し取れたような気がした。もしもハラルドが領主になってしまったら、きっとトゥーレは不遇の身となるに違いないのだから。
遺体が安置されている部屋に到着し、アマリアはそっとドアを開け中に入っていった。
一歩足を踏み入れると、ふわりと穏やかな香の薫りがアマリアを包んだ。
「おはよう、アマリア」
静かな声が彼女を迎えてくれた。
フーゴは、焚き終えた香炉の炭と練香を取り替えているところだった。
「交代に来ました。手伝います」
領主が安置されたベッドの四隅には香炉が置かれている。葬儀が終わるまでは、死者の魂を鎮めるこの香を焚き続ける習わしだ。
アマリアはさっと父に近づき、新しい炭と香を差し出した。
「満足かい?」
「え?」
「お前も聞いただろう。心配せずとも、トゥーレ様が領主をお継ぎになるのは間違いない」
「……はい」
「だがアマリア、もうこれきりにしなさい」
穏やかな声音だったが、きっぱりと言った。
香炉から立ち上る細い糸のような煙は、アマリアの目の高さでゆらゆらと不安定に揺らめいて、部屋の中に霧散してゆく。
心を鎮める効能があるはずなのに、香の薫りが強くなるとともに、息苦しさを感じてしまうアマリアだった。父の顔を見ることもできずに小さくうなずく。
フーゴも次の領主にはハラルドよりもトゥーレを望んでいたはずで、だからこそアマリアが術を使うことを提案した時、即座に対応してくれたのだと思っていたが、それだけではなかったようだ。
「わしが断れば、お前は自分で術を使っただろう。風を操るのに足りない力を、命で補うつもりでいたのか? ……そんなことを、わしは忠実とも美徳とも認めはしない。それはあの方も同じだろう」
「……お父さん」
アマリアの肩にフーゴの手が置かれた。暖かく大きな手だった。
昨日トゥーレが見せた怒りの正体を父が教えてくれた。心優しく、生贄に反対するトゥーレであれば、身を犠牲にして捧げられる忠義など、決して喜びはしないのだと。アマリアにしても、それを知らなかった訳ではなかったのだが。
少し眉をひそめてフーゴは続ける。
「お前が苦しむのを、もう見たくない……アマリア、わしとお前を繋ぐ因果の理を解こう。もうわしの身代わりにならなくていい」
「え? で、でも、それじゃお父さんに茨の刻印が刻まれることになる! 今のまま術を使い続ければすぐに死んでしまうわ!」
思わずアマリアは大きな声を上げてしまう。
呪術を使う代償、術者へ直接還る反動は、身代わりが受けるものよりも大きい。つまりアマリアよりも数倍早く、フーゴは茨の刻印に蝕まれてしまうのだ。
「そもそもお前を身代わりにするべきではなかった……」
「呪術師はみんなそうしているわ。そういうものだわ……」
「なに、心配するな。しっぺ返しを避ける方法は他にもある。……因果の理は、後程ゆっくり解くとしよう」
目を細めるフーゴに、よしよしと頭を撫でられた。
アマリアの胸がジンと温かくなる。幼い頃いつも厳しかった父はすっかり涙もろくなってしまい、今日のように不意に優しさを見せるようになっていた。それは、母が亡くなり、アマリアが仕置きを受けてからの変化だった。
三年前、フーゴは領主に必死に慈悲を求めてくれた。結局聞き入れられることはなく、返ってフーゴまで鞭打たれることになってしまったのだが。
アマリアは申し訳なくて何度も父に謝ったのだった。自分だけでなく父にまで類が及ぶということに、考えが至らなかった自分を責めもした。しかし、内心父が庇ってくれたことをとても嬉しくも思っていた。
「忠実な呪術師である前に、お前の父でいさせてくれ、アマリア」
頭を撫でてくれる父の掌が温かくて、でも切なくて悲しくて、アマリアの目に涙が溢れてきて止まらなくなった。
*
フーゴと交代で、夜通し領主の遺体の側で香を焚き続けた後、アマリアは葬儀の日程を決める占いの為に呼び出された。よき日を選んで葬ることで、故人が天で安息な日々が送れるようになると考えられていのだ。
再びフーゴと交代して、アマリアは一人で領主一族のもとに向うことになった。故人の為の仕事だというのに、今日はトゥーレに会えるかもしれないと思うと、不謹慎ながら少し心が華やいでしまうのだった。
迎えに来た女中の後について応接室に前までくると、突然男の怒鳴り声が聞こえてきた。驚いたアマリア達が立ちすくんでいると、扉が大きく開いた。
思いがけず、険しい表情をしたトゥーレが現れ、アマリアはビクリと立ちすくんだ。
「ではお前はどうやって皆を納得させるというのだ!」
トゥーレの背中に怒声が浴びせられていた。部屋の奥ではハラルドが顔を真っ赤にし、それを彼の息子がまあまあと宥めていた。
慌てて、アマリアと女中は廊下の壁に張り付くようにして控える。こういう時は、主人たちを見て見ぬふりをするのが礼儀だった。
彼女らに気付いたトゥーレは、大きなため息をついて首を振った。
「……出直せ」
応接室内の諍いが治まらねば、占いどころではないということだろう。
そして、ハラルドに答えることなく立ち去ろうとするトゥーレに、また声がかかる。今度は若い声だ。
「待てよ、俺も一緒にいくから」
トゥーレの肩に腕を回してきたのは、ハラルドの息子ラルスだった。彼は特に用もないのに、従兄であるトゥーレをよく訪ねてくる。二人が親し気に話をしているのは、アマリアも何度か見たことがあった。
ラルスもアマリアたちに気付くと「ちょっとお茶してからまたおいで」と軽薄な笑みを浮かべながら言った。それから深く頭を垂れる二人の前を、トゥーレと肩を組んだまま歩き出した。
「あんたが守ってくれると知りゃ、ブリジッタもさぞ喜ぶだろうねえ」
「…………」
ラルスが唐突に出したブリジッタという名に、アマリアの肩がピクリと震える。それはトゥーレの婚約者の名前だった。一体彼らは何を揉めているのだろうかと、バクバクと心臓が鳴り始めた。
「まあ、あんたが反対するのは、誰もが予想してることだけどね」
「当たり前だ。ブリジッタを贄にできるものか」
「そんじゃ、どうすんのさ。親父はあんたを領主として認める代りに、失敗した贄の儀式を完成させろって、ギャーギャー言ってるのにさ」
「叔父上は、無視すればいい」
「あっちゃー、こりゃまた無計画な!」
「ラルス! ふざけるんならついてくるな」
「そうはいかない。ヒーローが皆の反対を押し切って、ヒロインを救い出そうっていう名場面、見逃すなんてあり得ないだろう?」
と、ラルスが急に振り返った。
聞き耳を立てていたアマリアは、彼と目が合ってしまい慌てて顔を伏せた。咎められるかと身を固くしたが、ラルスはすぐにまた前を向き歩みを止めることはなかった。
そして、ラルスは終始ふざけた口調なのに、その顔は意外と神妙な表情をしていたことをアマリアは不思議に思った。
「……叔父上に言われて、俺の言動を見張っているだけだろうに」
「んー、そう悪くとるなって」
廊下の角を曲がっていった二人の会話は、それ以上聞こえなかった。
アマリアも女中に促されてその場を後にしたのだが、頭の中では今聞いたばかりの話がぐるぐると回っていた。
推測するに、トゥーレが婚約者のブリジッタを贄に差し出せば、ハラルドは彼の領主就任を承認するという事のようだ。無論トゥーレはこれに反対し、たった今婚約者を救いに向かったのだ。
海神に捧げられるのは、支配者の妻だ。ブリジッタはまだトゥーレの妻ではなく、トゥーレもまだ領主ではない。しかし、二人ともそれに準ずる立場である。ブリジッタが贄となることは、多少強引ではあるがあり得ないことではなかった。
領主が死んだあの日から、嵐は一向に弱まる気配を見せていない。
そのため、死に際の女が放った呪詛のせいだとか、早く贄を寄越せと海神が怒っているのだとか、領民たち間に流言が広まっていた。
長引く嵐で漁もできず、食料も底をつきかけている。人々の苛立ちは抑えが効かない程に高まっているのだ。一刻の猶予もならない、即座に贄を捧げよと叫ぶ声は、アマリアも耳にしていた。
だがトゥーレがそれを承服するはずもなく、現に今、彼は愛する婚約者を救うべく、説得に向かったのだ。
アマリアの胸がチクチクと痛む。
誰が贄であろうとも、彼ならきっと反対しただろう。しかも贄に指名されたのはブリジッタなのだ。黙っていられるはずもない。なにが何でも救うはずだ。
トゥーレに守ってもらえるブリジッタ。
――ああ、なんて幸せなブリジッタ様……。その万分の一でも、私に分けて下さればいいのに……
愚かしくもお門違いな嫉妬が沸き上がってくる。ブリジッタと自分を比べることなど無意味であると分かり切っているはずなのに、胸が痛んで堪らなかった。
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