第23話 船を戻せ
パンッと乾いた音がした。
トゥーレは泥沼から引き上げられるように、無理やり意識を浮上させられる。頬を張られた痛みは他人のもののようだったが、手足が鉛のようで腹の中には石を抱え込んでいるような重苦しさが不快でならない。
ビュウと浜を渡る冷たい風が髪をなぶり、全身の毛穴を立たせると、朦朧としていたトゥーレの頭が次第に醒めてくる。
「しっかりしろ」
目の前に仏頂面のラルスがいた。辺りは仄かに明るい。確かに夜は明けていた。しかし、雲の向こうにあるはずの日の光は人々を照らしてはいない。
トゥーレは暗く深刻な顔をした人々に囲まれていた。
浜辺には、海神への供物を捧げる儀式の為に正装した豪族と、兵士、その後方には領民たちの姿があった。
ハッと、トゥーレは立ち上がる。波立つ海に目をやると、あの船が沖に向かってゆくところだった。二隻の小舟に引かれて、アマリアを乗せた船が進んでゆくところなのだ。
なんてことだと、立ち尽くす。
もう止められないのか。あの船が沈むのを見ていなくてはいけないのか。
震える拳を握っていた。
――ああ、一緒に……
ふらふらと歩き出すと、肩に暖かいものが掛けられた。
隣にラルスが立っていた。腰にシーツを巻いただけのトゥーレに、上着を貸してくれたようだが、そんな気遣いよりあの船を止めて欲しかったと、従弟を睨んでしまう。
使用人も、サッと寄ってきてトゥーレにマントを羽織らせる。
昨夜よりも風は弱まっている。要らぬことに気を割くよりも、彼らには気づくべきことがもっとあるはずだと、トゥーレは苦々しく思うのだった。
雲に覆われているとはいえ、いつもの朝よりも明るいことに彼らは気が付かないのかと。
トゥーレの内心の焦りを無視して、ラルスは落ち着き払った声で言った。
「トゥーレ、あんたの領主のとしての初めての仕事だ。これを最後にするな。神に供物を捧げる祈りをするんだ」
浜に設えた仮の祭壇を指していた。その祭壇から少し離れた所に、アマリアの父フーゴの跪く背中が見えた。
黒衣の呪術師も、海の神に祈りを捧げるのが仕事だった。これまでに何度も祈りを捧げてきたのだろうが、娘が死にゆくときにまで神に領土と民に平穏あらんことを祈ることになろうとは、彼も想像だにしなかったことだろう。
フーゴの背中は力を失くしていた。
「……あの船を、引き戻せ……」
「トゥーレ、落ち着いて。お前も祈りを捧げるんだ」
「中止だ!」
叫ぶトゥーレの腹に、ラルスの拳がめり込んだ。
そして冷たい声が命じる。だだをこねるなと。
「祈るんだ」
ギッと従弟を睨み上げ、トゥーレは叫ぶ。
マントを跳ね上げ、海を指さす。
「無意味だ! 見てみろ、波はおさまってきてるじゃないか! 風だって昨日よりも格段に弱い! 嵐は過ぎたんだ! 贄など必要ないんだ! さあ、船を戻すんだ!」
海はまだ白い波を立てていたが、昨日に比べれば大人しいものだ。だが、誰一人動こうとしない。一族の者も豪族たちも兵士も、皆、ハラルドの顔色を伺っていた。
ぐるりと周囲を見回し、トゥーレは叫び続ける。
「言ったはずだ! 近いうちに嵐は必ず終わると。見ろ! もう終わりが見えているじゃないか。お前たちは本気で信じているのか?! 贄が無ければ嵐が止まらないなどと!」
ラルスを睨み、ハラルドを睨み、取り囲む者全てを射殺す程の視線を投げる。
しかし、トゥーレを見つめる目はどれも冷たい。贄との情事に溺れて使命を忘れた惰弱者と嘲っているのだろう。自ら船を降りて来ることもなく、あられもない姿で担ぎ出され、挙句に祈りを捧げることもせずに船を戻せと憤っているのだから。
ハラルドは、トゥーレを嘲笑い祭壇へと向かった。
「愚か者め。お前が民の為の祈りを捧げぬというなら、儂が祈ろう。貴様は自らの不適任を認める、そう受け取っておくぞ」
トゥーレは波打ち際へと走った。
意味の無い祈りなど、やりたい奴が勝手にやればいいと思った。何としてもあの船を止めるのだ。もう浸水は始まっていることだろう。早く引き戻さなければならない。トゥーレは小舟に乗り込んだ。
「捕らえろ。儀式を阻むことは神への冒涜! たとえ新領主でも許されることではない! 贄を出さずに、再び雷雲がこの地を襲ったら何とする、捕らえろ!」
ハラルドの号令に、兵士たちがさっと動く。トゥーレには従わないというのに。
トゥーレの両手はあっという間に拘束されてしまた。そして、暴れ逃れようとするのを押さえつけられ、浜の後方へと引きずられてゆく。
「離せぇ! 止めるんだ!」
浜にトゥーレの叫ぶ声がむなしく響き渡る。
ラルスは渋面で首を振り、もうトゥーレを助けようとはしなかった。
風は更に穏やかになり海は凪いでいる。雲は薄くなっている。
トゥーレに背を向け、ラルスは祭壇の近くで控えているフーゴに近づいていった。そして彼に、無言で何か紙のようなものを手渡した。報奨の金だろうか。
フーゴは受け取ったものに視線を落とした途端、サッと顔をあげてラルスを見つめた。そして、深く頭を下げたのだった。
――あんな、はした金の為に! アマリアは!
遠くに離れていった小舟が、綱を切り船首を返した。アマリアを乗せた船は、沈みかけていた。
後ろ手に腕をひねり上げられ抑え込まれながら、トゥーレは喉も裂けよと叫んだ。
「船を戻せぇぇ!」
船の周囲でゆるく渦が巻き始めた。
祈りが始まる。
祝詞を捧ぐハラルドから少し離れたところで、フーゴもまた祈りを捧げていた。
「止めろ!! 嵐は過ぎたんだ! 連れ戻せ!!」
雲がゆるゆると薄くなってゆく。空はどんどんと明るくなる。
沖に浮かぶ船。その船尾が大きく傾いた。
砂浜に頭を押し付けられても、トゥーレは懸命に顔をあげる。
「見ろ! 朝日だ! もう嵐は終わったんだ! 終わったんだぁぁぁ!」
驚く程の速さで、船が沈んでゆく。渦が巻いているようだった。
するとフーゴが突然両手を広げ、全身で吠えるように呪文を叫んでいた。
渦が激しくなる。
「アマリアァァァ!!」
雲が切れてゆく。僅かな隙間から、淡い光さえ差してくる。
浜辺がどよめいた。
みるみるうちに雲が輝きだし、太陽がその眩しい姿を、実に六週ぶりの姿を現したのだ。
いつの間にか側に来ていたラルスが、領主に対して無礼であると兵士に声をかけた。そして、押さえつけていた兵士の力が緩んだすきに、トゥーレは彼らを跳ね飛ばして走った。
「日の光だ!」
「おおお! 神よ!」
「終わった! 苦難が終わった!」
どっと、歓声が沸いた。
しかし、海では渦が船を飲み込もうとしている。もう船首がわずかに見えているばかりで、ボゴボゴと大量の泡を吹いているのだ。
誰も船など見ようともしない。太陽に手を伸ばし、歓喜の声を上げるのみだ。
「…………あ、あ、ああ」
トゥーレの足が止まっていた。彼だけが、気泡を吐く海を見ていた。船は完全に姿を消してしまっていた。
船を沈めた渦はうねりとなって、南に流れてゆく。まるで巨大な竜が海面の下を泳いでいるようで、遠く南へ南へと流れて消えていった。
そして、穏やかに光る海には二艘の小舟だけが残された。
ガクリと膝と両手をつき、トゥーレは呆然と美しく輝く海を見つめていた。
脱力し、涙も出なかった。
生気を失くした目で、ただ海を見つめる。
なんという皮肉かと思う。待ち望んだ光景の、恐ろしい程の虚しさよと。
嵐は鎮まるべくして鎮まったのだ。神が鎮めたのでもなければ、アマリアが、贄が鎮めたのでもない。これほど無意味な死があるだろうか。
喜びに沸く人々は、そのことに気付きもしない。ハラルドの祝詞が自分たちを救ったと、喝采を送っているのだから。
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