第8話 ブリジッタ

 ブリジッタは椅子の背に顔を押し付けて、しくしくと泣き続けていた。

 ラルスたちは騒がしい応接室から少し離れた客間に移動し、今はティーカップが置かれたテーブルを挟んで向かいあっている。ラルスは頬杖をつき、耳をほじりながらぼんやりブリジッタを眺めていた。

 彼女はラルスの慰めをあまり聞こうとせず、トゥーレトゥーレとそればかり繰り返すので、少々白けた気分になっていた。


 今頃向こうの部屋では喧々諤々やっているのだろうが、最終的にはやかましい客人たちは追い帰され、ブリジッタを贄に捧げる話は立ち消えになるだろうとラルスは踏んでいる。

 父ハラルドにしても、そうなると分かった上で仕掛けたことであろうから、キルシとトゥーレが風習を破る不届き者であるという烙印が押せれば、とりあえず満足するだろう、と最初から楽観していた。

 トゥーレを領主の座から遠ざけることは父の高望みなので、そんなことに手を貸す義理などない、と親不孝を決め込んでいるのだった。


――なんで俺がハイハイと言うこと聞くなんて、思い込んじゃってんのかねえ、あのクソ親父は。んな訳ないだろうっての。


 クスリと笑った。

 すると、ブリジッタがバッと振り返ってラルスを睨みつけてきた。今の今まで泣いていたくせに、なんて耳ざといんだとラルスは目を丸くする。


「何笑ってるのよ」

「いや、君を笑ったわけでは……」

「見苦しい女だって思ってるんでしょ!」


 目をパチパチさせてから、ラルスはよそ行きの笑顔を浮かべる。


「そんな事ないよ。いきなり贄になれなんて言われりゃ誰だって取り乱すさ」

――あ、分かってたんだ。見苦しいマネしたってことは。


 愛想の良い顔を作って、少し肩をすくめてみせる。それからおもむろにカップを取って、大げさに紅茶の薫りを楽しんでみせ一口飲んだ。


「ああ、いいお茶だね。君も飲めばいい、気持ちが落ち着くよ」

「……トゥーレは、贄の風習に反対してるだけなの」

――知ってるよ。

「誰が贄に指名されたって、同じように反対するの」

――その通りだよ。よく分かってるね。

「私だから助けたいんじゃないのよ! 私を守りたいんじゃないのよ!」

――ん、まあ、そうかもね。


 ブリジッタは、ラルスに聞かせて意見を求めている訳ではなく、ただ話したいから話している、そんな感じだった。ラルスの反応を見ることもなく、感情のままに喋っていた。


「婚約だって、私じゃなくても良かった。父が強く勧めたから、モーゼス様が了承したから、他に候補がいなかったから! それだけなのよ!」

――政略結婚なんて、そんなもんだし……

「愛してるのは私だけ……。トゥーレは私のことなんて、これっぽっちも愛してなんかいないのよ。トゥーレの優しさは……残酷すぎるの」


 ブリジッタは手で顔を覆って、また泣きだした。細い肩が小刻みに震えている。ラルスの肩も少し震えてしまった。もちろん泣いている訳ではない。

 彼女は自分の父親が早くもトゥーレを見限って、ラルスの妻にしようなどと考えているとは、夢にも思っていないだろう。彼女もいいように利用されているわけで、ここは同情すべきところなのだろうなと思うのだが、ラルスはポエミーな台詞を聞くと笑ってしまう性質だった。

 ムムッと顔をしかめているのは、カモフラージュである。


「……どういうこと?」

「私に恥をかかせないように、婚約してくれただけなのよ」


 ああ、そういやそうだったなとラルスは頷く。思い出すとまた笑いそうになり、懸命に飲み込んだ。


――トゥーレのやつ、嵌められたなって思ったもんな。


 二人の婚約の話は以前から上がっていたが、決定的になったのは二月前のブリジッタの誕生祝いの席でのことだった。

 彼女は皆の前で、二人が既に深い仲であることを仄めかしたのだ。昨夜は素敵な夜だったわね、これからもあなたと二人きりの夜を過ごしたいわ、と。

 ギクリとしたトゥーレの顔は見物だった。

 ひやかしと祝福の声が上がり、その後まもなくして正式に婚約と相成ったのだった。


「アイツは真面目なヤツだから、全く気のない相手と、まあ何ていうか、寝たりしないと思うけどな」

「な、何言ってるの? イヤだわ、ヘンなこと言わないで。ね、ね、寝たりなんて、してないわ」

「え?」


 目をぱちくりさせるラルスと、頬を赤らめてデカい胸と一緒にブルブルと頭を振るブリジッタ。

 思わず見つめ合ってしまった。何か認識が食い違っているようだった。


「あの時、二人きりの素敵な夜だったとか言ってなかったかなぁ?」

「ええ、そうよ。二人で満天の星を見て過ごしたの、ロマンティックな夜だったわ。異国で学んだんだって言って、星座の名前をいくつも教えてくれたわ」

「…………そ、そんだけ?」

「いけない?」

――純情かよ!


 耳まで赤くしてツンとそっぽを向くブリジッタは、嘘をついてるようには見えない。だから余計に、笑いのツボが刺激されてしまう。

 てっきり魅惑的なボディラインを駆使して、トゥーレを誘惑したのだとばかり思っていた。そしてそれを公言して、なかなか踏ん切りをつけないトゥーレを追い込んだのだと。

 そんな恥ずかしいことする訳ないじゃないと、真っ赤になってもじもじするブリジッタは、先ほど夢中でキスを迫った時とはまるで別人のようだった。でかい胸に全く似合っていないと思うラルスだった。


「私、あんまり深く考えずに、思ったこと口にしちゃうから……」

――ってことは、あのパーティでの小悪魔発言は、計算ずくじゃなくて天然ボケってことか?

「好きなの。好きでたまらないの」


 もう堪えきれずにブフッと吹き出してしまった。

 そんなに好きなくせに、その毒々しい程のナイスバディを有効利用しなかったことに驚いたし呆れたし、夜二人っきりになっておいて手を出さなかったらしいトゥーレの気が知れないなと、膝を叩いて笑った。


「な、何よ! なんで笑うの!」

「いやさ、もうはっきり言うけどさ、あんた無理だよ。自分でも気が付いてたじゃないか。あんたはぞっこんでも、アイツはそうでもないって。一人で空回りするの虚しくない?」


 ラルスはもう愛想良さの仮面を捨てていた。

 ご機嫌とりに調子を合わせているのがバカらしくなってきたのだ。


「なっ……ひどい……」


 ブリジッタが唇と噛みしめ、涙をこぼしながら睨んでくるのを見ると、意地の悪い思いがムクムクと沸き上がってくる。それを抑えようとは、これっぽっちも思わなかった。


「トゥーレも誕生日プレゼントに星の話をする程度には、あんたを好きだったんだろうよ。実際婚約したんだし。でも、俺の予想では……結婚しても一ヶ月もたないだろうなぁ。あんたアイツにブチ切れるぜ。なんで愛してくれないのぉーってさ」

「や、やめてよ……」


 ラルスがブリジッタと知り合ったのは、トゥーレの紹介でだった。知り合った時から、彼女はトゥーレに夢中だった。

 ラルスにとってブリジッタとは、トゥーレに熱烈な思いを寄せる胸のでかい女であり、それ以外の何者でも無かった。彼女の情報が上書きされることも、今まで一度も無かった。


 ラルスが知るトゥーレに恋している女は、彼女の他にアマリアがいる。二人ともかなり入れあげていることも知っている。

 身分違いの恋をしているアマリアのことは、見つめているだけでいいのなんて顔してバカじゃないかと思う。

 一人空回っているブリジッタのことは、ポエム語ってる場合じゃねえ周りの状況よく見ろよこのバカ、と今猛烈に思っている。


 どちらもバカと断じているのだが、アマリアには同情的かつ感傷的になるのに、なぜだかブリジッタにはイラついてしまう。

 男を誘惑できもせず、真っ赤になってもじもじしてしまうという情報は、全くもって要らなかった。頭を振ると胸も揺れるという情報も必要無かった。情報の上書きなんてしたくなかった。


――コイツ、なんかムカつくんだよな……


「自分で言ったじゃないか、トゥーレは残酷だって。その通りだよ。アイツはにぶちんだからね、優しさつもりであんたを傷つける」

「そんなことない!」

「あるよ。だってあんたは、いつか愛してくれるかもしれないって期待を捨てられないだろう? 諦められないだろう? トゥーレを思い続ける限り、あんたはずっと傷つき続ける。泣いて叫んで地団太踏んだって変わりゃしないよ。滑稽だね」


 ふふんと嘲笑すると、平手が飛んできた。

 バチンと物凄い音が響いて、耳が千切れたかと思った。殴るなら頬にして欲しい。


「バカ! 最低!」


 ブリジッタの金切り声はまるで千枚通しのようで、頭を串刺しにされたかと思う程だった。くらくらと目眩がした。もっと虐めてやりたくなる。


「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!」

「ああ、そうだね。あんたにしてみりゃ、俺は部外者だったね。でもさ、俺とトゥーレの間に割り込んだあんたが悪いんだよ?」

「何よそれ、意味わかんないわ!」

「あんたより、俺の方が先だったんだって言ってんだよ」

「だから、何が!」

「欲しいものを横からさらわれる話」

「はあぁ?!」

――あ、分かった。ムカつく理由。こいつもにぶちんだからだ……


 眉をしかめてしきりに首をかしげているブリジッタを見ていると、皆にかしずかれて育ってきて、何かを奪われたり大失敗したりなんて経験は、一度もしたことがなかったんだろうなと思う。

 婚約者の態度が気があるのかないのかはっきりしない、というのが彼女の初めての挫折体験なのだろう。

 また、要らぬ情報が重なったなと、ラルスは舌打ちする。


「トゥーレは俺にとってね、家族で兄で友で憧れで誰よりも大切で、何があってもどんな時でも一番の存在でね、アイツが俺を必要としなくても、俺はアイツの側にずっと居ようって決めてんの」


 今まで誰にも言ったことのない胸の裡を、初めて口にした。

 トゥーレへの執着は、少々度が過ぎていると自分でも分かっていた。彼が読まなくなった本を譲ろうかと言ってくれた時は、金の宝冠を受け取るかのように大喜びした。使わなくなった勉強道具や衣服や装飾品を処分しようとしていた時は、捨てるくらいなら俺にくれと全部貰って帰った。

 彼にまつわるものなら、何でも欲しかった。いつでも彼を感じていたかった。

 恋ではないけど恋に近いような気がして、さすがに自分でもやばいと思って今まで誰にも言わなかった。だが、色々と察しが悪いブリジッタにイラついて、「お前邪魔なんだよ」の意味を込めてぶちまけてしまった。

 きょとんとしていたブリジッタの顔が、徐々に引きつってきた。


「ま、ま、まさか、トゥーレのこと好きだとか言うの? やめてよ、キモチワルイ」

――うーん、殴っちゃおっかなぁ。


 一瞬、拳を握りそうになったが、イヤーと叫びながらまた頭と一緒に胸をブルブル揺らしたのに免じて、苦笑するにとどめておいた。


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