第9話 出来の悪い新酒
ラルスとトゥーレが、キルシの館を後にしたのは夕刻を過ぎてからだった。元より一日中黒雲に覆われ、土砂降りの雨のせいで薄暗かったのだが、すっかり夜中のようになっていた。
トゥーレは、キルシに娘を贄に出せと迫っていた者たちを追い帰すことに成功した。予定調和だなとラルスは思うのだが、口には出さない。勝手な絵図を描いたのは父のハラルドなのだから。
トゥーレは、ハラルドの思惑に逆らい予想以上の成果を出したのだし、水を差すようなことを言うつもりは無いのだ。
成果、それはトゥーレの熱弁に魅せられる者が何人も現れたことだ。なぜ嵐が起こるのか、どのようにして終りの予兆を見つけるのか、興味深げに質問し始めたのだ。残念なことに頭の固い者に阻まれて、詳しい解説にまでは至らなかったが、それでも想像以上に話を聞いてくれる者がいたのだ。
嵐を止めることは誰にもできない。しかし神頼みではなく、観測と情報の収集で始まりと終わりの時を知ることはできる。贄を捧げるよりも、災害への備えを強化する方が国を豊かにできる。
共にこの国を変えてゆこうというトゥーレの言葉に静かに頷いていたのだ。
彼の熱意が伝わったことに、ラルスは本人以上に喜んでいた。
領主邸に戻ると、第一夫人の姿はなくハラルドが一人でラルスたちの帰りを待っていた。ハラルドは、先にキルシ邸を出た従者から報告を受けていたらしく、ブリジッタを贄に捧げる話が退けられたことをもう知っていた。
彼は息子をじろりと睨み、それから役に立たないヤツだと呟いた。
「トゥーレ。お前の母はキルシの所へ行ったぞ」
「……何の用で?」
「しつこい女性だからね」
やっとまとめた話を母が混ぜ返しに行ったのだと知って、トゥーレは大きなため息をつく。
「目に入れても痛くない息子のためだからな。領主の責任を立派に果たして、皆の信頼を得て欲しいという親心だよ」
ふふんと笑うハラルドを、トゥーレは冷たい目で何か言いたげにじっと見ていた。とは言え、母がいくらキルシに贄を出せと言ったところで無駄だとと分かっているからだろう、すぐにクルリと背を向けた。
そして、古い因習にとらわれたハラルドとは、もうこれ以上話す気はないのだと態度で表していた。
「ラルス、今日はもう帰ってくれ。俺ももう休むよ」
「あ、そだね。疲れたもんな」
ラルス親子を置いて、トゥーレは出て行った。
できればラルスは、トゥーレと一杯やりたかったのだが、ハラルドがいては無理だろう。残念だなと思いつつバイバイと手を振っていると、邪魔者ハラルドが乱暴に椅子を倒して立ち上がった。
ビクリとラルスの肩が揺れる。
「お前! なんでもっとトゥーレの株を下げてこなかったんだ!」
「……あ、いえ、俺も頑張ったんですけどね? 途中でブリジッタの乱入とかあって、あたふたしちゃったんで……」
「言い訳はいい! 一体お前は何のつもりで、いつもいつもトゥーレに尻尾振ってるんだ。わしが領主になれば、いずれはお前も領主になれるというのに!」
父の顔がどんどんと怒りに赤く染まっていくのを見ると、ラルスの顔から偽りの笑顔がすっと消えて、素顔がのぞき始める。
「俺は、別に……領主になりたいなんて思ったこと……ないですから」
反抗的な言葉とは裏腹に、内心はじわじわと恐怖に侵食されてゆく。ハラルドがダンと足を振り鳴らすと、ビクンと身体を仰け反らせて後退った。
最近は殴られることは無くなった。蹴られることも踏みつけられることも無い。しかし、幼い頃に染みついたハラルドへの恐怖は、未だに克服できずにいる。
子どもの頃は、とにかく父の怒りを買わぬように従順に振る舞っていた。いつも顔色を窺い、いかにして暴力をやり過ごすかということにばかり神経を使っていた。
成長に伴って暴力を受けることは減っていき、ラルスの反抗心も育ってきたが、それでも怒声を聞くと身体が竦むのだ。
幼い頃から、いつもトゥーレと比べられてきた。
先に生まれたのはトゥーレだが、二人は一月しか違わない。そのためなのか、ハラルドはとにかくラルスとトゥーレを競わせたがったのだ。そして負ければ、ラルスは手酷い折檻を受けたものだった。
かけっこをすればトゥーレの方が早い。字を書かせればトゥーレの方が上手い。詩の朗読をすればトゥーレの方が拍手喝さいを受ける。ラルスは何事も一歩遅れを取ってしまうのだ。
一度も賞賛をあびること無く、父の鞭を受けるばかりだった。お前は努力が足りないと罵られるばかりだった。
しかし、ラルスはなんでも自分よりも早く、そして上手くこなすトゥーレを不思議と恨むことは無かった。
従兄は勝ちを喜ぶことを決してしなかったし、早く走るための練習に付き合ってくれたし、字を上手く書くコツを教えてくれたし、詩を読む時の声の出し方も感情のこめ方も教えてくれたのだから。そして、ラルスの上達を一緒になって喜んでくれたのだ。
いつしかラルスはトゥーレを尊敬し憧れるようになっていた。いつも褒められ、なんでもできるトゥーレを見ているのが楽しかった。懸命に彼を真似をしたが、真似だけで良かった。越えようとは思わなかった。自分は彼に次ぐ者でいるのがいいと思っていた。
崇拝すべき対象を、自分より下に置こうなどとは思いもしなかったのだ。一番はいつでもトゥーレであって欲しいのだ。
父にどんなに鞭打たれても、なぜ自分なんかがトゥーレよりも優れることを求められるのか理解できなかった。
「お前というヤツは! どうしてそう不甲斐ないんだ! いつもいつも!」
ドスドスと足を踏み鳴らしてハラルドが近づいてくる。手に持っていたマントをブンと振り回すと、それは振り下ろされる鞭に少し似た音を立てた。
無言で立ち尽くすラルスの横を、ハラルドはこれ見よがしにため息をついて通り過ぎてゆく。
「帰るぞ!」
「……はい」
ふと、老いたな、とラルスは思う。数年前なら拳が飛んできていただろう。
父と視線の高さが会うようになった頃から、殴られることが減っていった。拳を振り上げておきながらも、父は躊躇するようになっていた。体格で勝るようになると、すっかり暴力は無くなった。
決して、温和になった訳ではない。むしろ使用人の扱いは昔よりもひどくなっているのだから。
父は老い、自分を恐れ始めている。その考えに、ラルスは仄暗い喜びを感じた。
ハラルドの権力には敵わないが、純粋に腕力だけならもう負けることはないだろう。刷り込まれた恐怖から解放される日は近いのかもしれない。
*
ラルスとハラルドは、長いダイニングテーブルの端と端に座り、一言も交わさずに夕食を摂っていた。父子に会話が無いのは今日に限ったことではない。
燭台のろうそくの灯りは手元を照らすばかりで、遠く離れたお互いの顔はあまりよく見えないのだが、すすんで見たいものでもないので、ラルスはこれ位で丁度いいと思っている。
食事が終わり、ハラルドがフォークを置いた。それを見計らったように、使用人が彼に何か耳打ちした。
「キルシの強情めは、やはり贄は出さんと言っているそうだ」
使用人は、キルシ邸に出かけた第一夫人からの知らせを持って来たようだ。
ラルスは、ああそうですかと、特に感情のこもらない声を出した。そんなことは分かり切っていたのだから。それよりも、何故かほくそ笑んでいるハラルドが気になった。
「海神を奉ることには人一倍声の大きかったキルシ殿ですから、これでいよいよ豪族たちからの反発は大きくなりますね」
ハラルドの胸の裡を、ラルスはあえて言葉にして様子を伺う。思った通り父はニヤリと笑った。
「これでお前がもっとトゥーレを攻めていれば、なお良かったのだがな」
「そういえば、実はキルシ殿にブリジッタを嫁にしないかと言われまして……まあ、トゥーレを見限ったという事でしょう」
「ほう! 奴は一番の後ろ盾になるはずだったキルシを失うということか! いい気味だ。まあ、最早盾にもならんだろうが。キルシにさえ見放される領主ということで権威失墜だな! はっはっは! ラルス、ブリジッタと結婚しろ!」
「え? あ、いや、まだ勧められただけで……」
「結婚しろ!」
「…………」
ラルスはポリポリと頭を掻いた。
ブリジッタの事を言えば、ハラルドが結婚しろと言うだろうことは、少し考えれば予想できることだったのに、無策にもポロリと口に出した自分が信じられなかった。
否とも応とも言えずに、ラルスはワインに口をつける。渋みの強い青臭い味だった。
「今年の新酒は出来が悪い……」
「全くだ。まるで、お前のようだな」
「…………」
返事をしない息子を鼻で笑い、ハラルドは立ち上がった。そして自分もワイングラスを持つと、ラルスの方へと歩み寄ってきた。
「明日、トゥーレの領主就任の儀式を行う」
「……随分、突然ですね」
「占いの結果だ。あのバカな母親は大喜びだったさ。一日でも早く領主にしたがってたからな……」
ハラルドはきっと、トゥーレの領主就任を先延ばしにしたいだろうと思っていたのに、意外にも不機嫌さを前面に出すことなく含み笑いを浮かべている。
残っていたワインを一気に飲み干したハラルドは、ラルスの手のすぐ横にダンと音を立ててグラスを置いた。
ニッと笑ってラルスの顔を覗き込んできた。
「就任の宴の後、聖婚の儀式を行う」
「…………え?」
「ふん! ヤツの思い通りにさせてなるものか。贄は絶対に出す!」
「あ、え、ちょっと待ってください。いつの間にそんな話に……」
ラルスは寝耳に水だと、すぐ横に立つハラルドを見上げた。ギロリと睨みつけて来る父を下から見ると、ゾワリとまた恐怖に襲われる。一瞬クラリと目眩を感じた。
しかしラルスはぐっと腹に力を込め、立ち上がった。見下されてなるものかと。
そして落ち着いて考えてみれば、するすると父の思惑が見えてきたのだった。ハラルドはどうあっても、トゥーレの足を引っ張りたいのだ。彼の言う通りにあと二日で嵐が終わってしまうのが怖いのだ。それはトゥーレの正しさの証明になってしまうからだ。
だから聖婚の儀式を、生贄の儀式を行って、それ故に嵐が終わったことにしたいのだ。どこもかしも獣だらけだと思った。
「トゥーレは知っているんですか?」
「はっはっは、知る訳がない。この話を知っているのは、わしとお前と贄本人だけだ。だから裏切るなよ……なんなら今夜は仕置き部屋に閉じ込めてやろうか……」
ハラルドは息子のタイとグイを引っ張り、ニタリと笑った。ラルスはゴクリと唾を飲む。こっそりトゥーレに知らせようと思った瞬間に、くじかれてしまった。
「一体誰を贄にしようというのです。なぜすぐに決められたですか」
「本人が言いだしのさ」
ラルスは目を剥いた。この素早さからすると、領主邸か自邸のどちらかの女中だろうかと、舌を打つ。
何を思って志願したのか知らないが、バカがトゥーレの頑張りを無駄にしようとしていると思うと腹が立って仕方なかった。
「誰です」
「誰でもいいだろう、どうせ死ぬ女だ」
「参考までに教えて下さい」
「呪術師の娘さ」
――ア、アマリアが?! どうして? トゥーレに惚れていたんじゃないのか?
なんて出来の悪い冗句なんだと、ラルスは目を瞑った。
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